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究極の問い 〜神は存在するのか?

「気づきの道」を歩み始めた心に、突如として湧き上がる問いがあります。
それは言わば「究極の問い」です。
何故なら導き出されるその答えは、
あなたにとってこの先へさらに進むかどうか、
ここで歩くの止めてしまうのか、それを決めるものだからです。

「神は存在するのか?」

神という言葉は宗教と深く関わる言葉ですので、どんなものでも置き換えて構いません。
「存在」「全てを創りしもの」「ありてあるもの」「唯一のもの」等々。
要はこの宇宙、この目に見える世界、全ての存在とこの自分を創造し、
今もなお、こうして維持している存在は果たしているのか?ということなのです。
この「究極の問い」に、あなたはどんな答えをするでしょうか?

この問いがなにゆえ重要かつ究極なのでしょう?
それはもし、神のようなものが存在するなら、
あなたが「気づきの道」を歩く必要があるでしょうか?と、いうことです。
つまり学び、努力し、時に茨の道を歩き、悟りに達しようとすることに
一体、何の意味があるでしょう?

筆者がこの「究極の問い」に出会ったのは、
実はまだ「気づきの道」など思いもしなかった頃でした。
高校受験の時、今考えてみてもそれまでの人生で一番勉強し、
家の宗教だった仏様に心の底から祈り続けていました。
死ぬほど勉強し祈ったのです。それでも志望校には受かりませんでした。

その時、この「究極の問い」が全身を貫いたのを記憶しています。
「どうして失敗したのだろう?」
「よく考えればみんな頑張り、祈っている」
「仏様は合格者と不合格者をどうやって決めているのか?」
「もし、神や仏が本当に存在するなら、どうして悪いことが起こるのか?」「幸せと不幸があるのは何故なのか?」

雲の上から世界を見ている白髭のお爺さんとは言わないまでも、
そんな存在がいるのなら、つまり真面目で頑張っている人には良いことを、
不真面目で悪い行いばかりしている人には不幸を与えるなんてことが
本当にあるとしたら、先ほど書いたように真面目に頑張る必要などどこにあるでしょう。
気づきの長い道のりを歩いて覚醒することに、どんな意味があるというのでしょう?
だって、どんなに頑張っても神さまがNOと言うかもしれません。
まだ頑張りが足りないと言われるかもしれません。

幸せになる、夢を叶える、悟りを得る… 
たとえそれがどんなことであっても「究極の問い〜神は存在するのか?」にあなたがもし、存在すると答えるのなら全ては夢物語になります。
それはせいぜい単なる優美な妄想で終わる事でしょう。
でももしあなたが気づいて「神など存在しないかもしれない」
答えるのなら、あなたはそこから「気づきの道」を歩み始めることが出来るのです。

その結果、あなたは驚くような発見と気づきに出会い、
きっと身震いがするほどあなた自身とこの人生の変化を体験することでしょう。

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