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犬の恩返しは死ぬまで(後編)

十数年前、私は一匹のラブラドル・レトリバーと出会った。
犬の摂理に従い、彼女も人より早く亡くなったのだが、その後も私は度々彼女を視かけた。

「犬の恩返しは死ぬまで、猫の恩返しは死んでから」
恩を返し終わった後の彼女には、一体どんな望みがあるのだろう?
今日も彼女は、幽霊にあるまじき輝く笑顔で主に付き従いつつ、私にもアイコンタクトビームを照射する。

これは、そんな"犬が死んでから"の物語。

死して叶う願い

彼女がS家の人々の行く先々に現れていたのは、単純に「家族と一緒にいたい」という願いからである。
別にS家の人々が、彼女の世話を怠っていたとか、蔑ろにしていたとかではない。
むしろ、留守番をしている時間のほうが少なかったのではないだろうか?

それでも、やはり犬は何処までも犬なのだ。

「家族」というのはあくまで心情の話で、更にそれは飼主だけの心情だ。
彼ら動物は、どう頑張っても劇場など公共の場へ入れない。
仮に何処へでも連れていけるとしても、人と違う感覚やサイクルで生きる彼らが人の都合に合わせて連れまわされるのは負担になるだろう。
そして人側もまるっきり犬中心では、生活が成り立たない。

違う種が共存していくためには「程よい所で線引きをする」というのが、お互いの幸せのためだと思う。
犬や猫は、その線引きが特別上手くいった例なのだと思う。
だから人と犬猫は大昔から非常に近い距離で共存してこれた。

ただ、それと心の奥底に眠る望みは別だ。
肉体というのはいわば精神を囲う檻である。そこから放たれ物理的限界の垣根が消えた時、人も獣も自分の心の奥底にしまっておいた願いを叶えに行く。

彼女の場合……いや、犬の多くは
「愛のままにワガママに主につきまといたい!!」
と思っているような気がする。

「犬の恩返しは死ぬまで、猫の恩返しは死んでから」とは、このことなのか。

猫は生前にそのツンぶりで主を振り回し、最期は幸せだったのかどうか分からん顔で死んでいく。
そして、死んでから最期のご奉公と言わんばかりにデレ全開で周りをウロウロする。

犬は生前、必要とあらば留守を守り、遊んで欲しくとも主が忙しそうなら諦め、何処か割り切って互いの立場を守ったまま過ごす。
だが、死後はその鬱積を晴らすかのように主につきまとう。

「死んでからしばらく飼い主の周りにいる」というのは、犬も猫も変わらないし、どちらも好意からだが……根本が違う気がするのだ。

伝えて欲しい事

私は彼女が願いのままに家族について回る姿を度々視ていた。

しかも、"私が視ている"のではない。"彼女が視せている"。
そしてこの押しの強さもまた、彼女の解放された心なのだ。

しかし、困ったものだ。
ここまで相手がロックオンして視せるのは、それなりの理由がある。
私は正義の味方でも、霊能者でも、アトランティス人の生まれ変わりでもないが、知っている霊には優しくしたい。
いや、人霊なら「自分で相手を金縛りして思いの丈を伝えろ!」と言うが、犬だし。

……彼女は、「自分の想いを家族に届けて欲しい」のだ。

でもなぁ、お前の主人のS嫁さん、こういう話嫌いなんだよなぁ。

……お前がどれだけ家族を好きなのかも、大事なボン(S息子)が嘘を言ってないことも、他の誰が知らんでも私は知っているよ。
それを私の心に留めておくだけじゃ駄目なのか?
だってしょうがないだろう、お前の主にお前の姿は見えないんだから。

という具合で、彼女を視かける度に言ってみたんだが、彼女は一点の曇りもない期待に満ちた目で私を見続けるのだった。

……何だろうね、どうしても私の言葉が必要な時があるっていうのか?
それは、それはいつなんだろうなぁ?

そう思っていたのだが、やはり「その時」は訪れる。

後継者

彼女が"一応"彼岸に居を移し、半年経つか経たぬかという頃、S家には再びラブラドールがやってきた。
彼女と同じチョコレート色の毛皮をまとったメス。
私が見た時は生後4カ月程度だったが大型犬だけあり、すでに我が家の犬より大きい。

この"新しい彼女"の話をする前に、愛犬愛猫その他「動物」と分類されるものを家族や友とする人々がふと思う不安に触れてみよう。

●自分は誰を見ているのか?という不安

前の犬や猫と死に別れ、再び家族を迎える時、誰しもがふと考えることがある。

「自分はちゃんと新しい子を見ているんだろうか?」
「前の子の身代わりにしているのではないだろうか?」

特に新しい子がやってくるのが少し早かったりすると、なおさら気になる。

確かに新しい家族を迎える、また再び犬や猫、鳥と暮らせるのは楽しい。ワクワクする。
しかし、そう思う事が先代への裏切り行為のように感じてしまい、何処か後ろめたい気持ちが残る。

私は仕事柄、お客さんからそんな話をよく聞く。

「死んだあの子は、自分の居場所がなくなって悲しがるんじゃないか?」

この想いは、新しい家族を迎えた後も引っかかり続ける。

特にその子を心底大事にして、最期まで面倒を見続けた人ほど考え続ける。 そして考えれば考えるほど、おいそれと人には言えない。

何しろ、そのような気がかりを口にしただけで「ペットロスだよね」と"知ったか"で言ってくる者、「たかが動物で気にしすぎ」と笑う者がいるからだ。もちろん、そうゆうことではない。
ただ、誰しもがその「ちょっとした心残り」を表に出してしまいたいだけなのだ。それは懺悔でもあるし、単純な問いでもある。

私はこの問いを人から受けると決まって言うことがある。
これは私が実際に経験したし、これ以外の答えが口からでないのだ。

「代わりを求めるのは、いつも置いていかれる側ばかりではない。 先立つ者が代わりを求める事もある」

S家ついて言うならば、この新たに巡ってきた二代目チョコラブとの縁は、 一代目の彼女が望んだものだ。
これから旅立たねばならない自分の代わりに、二代目を連れてきたのだ。

●獣のこころ

獣にも当然「心理」はある。基本的な喜怒哀楽はもちろんのこと、知性が高い種であれば、もう少し複雑な心の動きをする。
ただ、その在りようは人と同じではない。

彼らが愛情を求めるのは、それが生存戦略でもあるからだ。
これは動物に限った話ではなく「庇護欲を掻き立てる」というのは、もうそれ自体が戦略のうちなのだ。

しかし、連綿と続く人と獣の歴史の中で、いつしか利害以外のものも生まれてしまった。
人が損得抜きで彼らを愛するように、彼らは彼らなりに人が好きだ。
「動物好きの妄想」だと思ってもらっても構わないが、実際に何年も寝食を共にして過ごせば、利害だけでは説明のつかないことは幾らでもある。

うちの犬もそうだが、どれだけ食い物をチラつかせても「気に食わん奴には絶対寄らない」という奴も確実にいるのだ。
世の中、損得だけではまわらない。
時に人が「金の問題じゃねぇ!」とキレるように、彼らにも「飯の問題じゃねぇ!」ということもある。

そして、一介の動物好き、彼らの姿を描く絵描きとして長年観察して思うのは、彼らは「主が自分に向ける笑顔が一番好き」ということ。

犬や猫が主にしか見せない顔をするように、人も獣にしか見せない顔がある。その顔を彼らはとても好きなのだ。

その顔を取り戻すため、彼らは自ら後継者を連れてくる時がある。

それがどうゆう基準で選ばれるのか、また執行される場合とそうではない場合の違いまでは分からない。

可能性として「ここにはまだ犬(猫)が必要なんだ」と先代、もしくは別の縁や因果を統括する何者か判断し、その時に適任者がいるとそういうことになるのだろう。

仮にそうじゃなかったとしても、私は変に操を立てなくていいと思っている。

獣は人以上に「代替わり」をよく分かっている。
人のような理不尽な独占欲や嫉妬は彼らとは無縁だ。犬や猫が嫉妬深いという話は聞くし、それはよくあることだが人の嫉妬とは中身が違う。

私は昔から不思議な話を聞く機会が多いが 「新しい家族を迎えたら、怒った先代が化けて出た!」 という話だけは聞いたことがない。

与えられる空席があるならそこに後悔という荷物は置かず、新しい命にその座を与えればいい。
そして今度も最期まで大切に育て慈しめばいいのだ。

辛いからと無理に関わらないように過ごすより、そのほうがたまに戻る先代たちも安心するだろう。

そんなわけで、S家にやってきた2代目を紹介された時、私には「あぁ、彼女の後任か」とすぐに分かった。
別に前の彼女と同じチョコラブだからではない。

これも"怪異あるある"の、特に理由がない強い確信だ。
これが起きると、もう自分にも他人にも嘘は言えない。最後の抵抗があるとすれば、知らぬ顔の半兵衛を決めこむだけだ。

"新しい彼女"は、主以上に彼女が望んで縁を結んだ、紛れもない彼女の跡継ぎだ。

そしてS嫁さんがお決まりの……前の犬を可愛がった人ほど気にする"あのお決まりのこと"を口にした。

あぁ、こうなっては、自分の定めた禁(この手の話が嫌いな人に話しをすること)を破ることになるが、知らんぷりもできないのだ。
多少、掻い摘んで、今まで視ていたものを説明させて頂いた。

もちろん、凄く変な顔をされたが、それは致し方ない。
(怒られなかったのが幸い)

ただ、これ以降、S一家に会っても二度と彼女の姿を視ることはなかった。

S家に後任がやってきたからなのか、それとも彼女の望みを私が果たしたからなのか、それはもはや分からないし、正直どうでもいいことだ。

彼女の残した輝き

もう長い間、境界の向こうの住人達と関わっているが、その無数に視た怪異の、特に獣の怪の中で彼女は非常に稀なケースだった。

私が方々で視た彼女は、いつも誇らしげで明るく輝いていた。
比喩ではなく、その笑顔はいつも内側から眩しい光が差していのだ。

彼女自身は寿命を迎えたことに何の悔いもないし、12年皆と共に過ごせたことが幸せだったのだと思う。
それが、あれだけの輝きになって視えていたのだろう。

今まで散々幽霊を視ているが、あんなに綺麗な光を放つものは初めて視た。 

何故、私の身にこのようなことが起きたか推測すると、恐らく彼女が知っている人間の中で一番チャンネル合わせやすく、なおかつ自分の存在を否定しないのが私だった……というだけで特別な理由はないだろう。
そして彼女の人選は適格だった。

何しろ、やたら受信範囲だけは広く、その癖チャンネル主導権を持ってないのだから。
オマケに人に与える分の慈悲を全部獣に与えている阿保だ。犬にとってはさぞかし都合が良かっただろう。

彼女は、私が見ているものを伝えて欲しかったのだ。

あの美しさがそのまま彼女の家族に対する気持ちだったし、それをあそこまで大きく育てたのはS家の人々だ。
その集大成を私はずっと視せられていて、それを伝えて欲しかったのだ。

でもなぁ、無茶言うな。
あんなのどんな文豪だって正確に伝えられるもんじゃないよ。筆舌にも尽くしがたいが、あれこそ「絵にも描けない美しさ」だ。
ダヴィンチ師匠にだって無理だし、むしろ見たら壁画もモナリザもほっぽり出して永久にアレ描くよ、多分。

偉そうにしてたって、人はいまだにあの輝きを正確に伝える術を持たない。 それだけの生き物なのだ、人は。
まったく、彼女の人間好きには困ったものだ。

……これだから動物には勝てん。

巡る縁の果て

余談だが、S家にお邪魔した時、彼女のお骨の前に小さな写真集があった。 中を見せて頂くと、まだハイハイくらいのS息子くんと若い彼女が同じポーズで写っていた。
二枚目は少し大きくなった彼と彼女がやはり同じポーズで写っている。
三枚目も同じく。ポーズは一緒で写っている二人がちょっとずつ変わっている。

最後の写真は、二人共同じくらいの大きさになり、並んで笑っていた。

彼女が繋いだ縁は沢山あると思う。
そもそもS一家と私の縁だってそうだ。そしてうちの邪払いの黒猫二代目と私の縁もそうだ。

今まで"弟"だったS息子くんは、新しい彼女にとっては"お兄ちゃん"だ。
どうやら息子くん、2代目の彼女には強く出れないらしい。一人っ子の彼に初めて出来た"妹"だから仕方がない。

彼が大人になる頃、再び彼女との別れがやってくるのだろう。
しかし、切れたように思える絆は複雑に絡み合い、また形を変えて現れるんだろう。
……お互いに諦めない限りはね。

動物を飼ってる人の中にも「動物は人より下だから」 などと言う人もいるが、それは違うと思う。
確かに人間が躾や管理をするが、それ以上に彼らから学ぶ事はとても多い。

私も彼らが好きだから常々 「なんでこいつらは寿命が短いのだろう?」 と思ってしまうのだけど……

こうゆう"巡る縁"を人間に見せるために、あえて彼らは短い一生のままなのかもしれないと思ったりもする。

私は縁というのは、あたかも遺伝子のように螺旋を描いて回っていると思っている。その螺旋と螺旋の交差上で色んなモノが出会い、別れていくのだ。

ただ、人間の低い視線では自分が螺旋の中にいることも分からないから、 彼らが小さく廻って見せてくれているような気がする。

「自分たちが大きい螺旋である」というのではなく、
「下に小さな螺旋があるように、この上にもっと大きな螺旋がある。 そしてそれを包括する更に大きな螺旋がある」
ということだ。

神の作りし大きな螺旋の彼方で、私も再び彼女に会えることを願う。

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