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幻想桜譚 ~春を乞うもの~

あれよ、あれよという間に2月が過ぎ、気付いたら明日は啓蟄。
なるほど、冷たい風にも一筋の春の香りが混じるわけだ。

この国で春を表す花と言えば「桜」だ。
他にも梅、桃、木蓮、色々あるが、やはり桜が一番いい。

今夜は、そんな春と花の不思議な話。

■立春と花

「それ」がいつから視えるようになったのか、 よく覚えていない。
覚えちゃいないが、桜の木に「不思議なモノ」を見かける。

毎年、立春を過ぎると見える、桜の木の枝先に光る真っ白なモノ。

桜の枝の先に付く白いものなぞ、花以外にあるものか。
「もう咲いたのか?」と驚き近寄るが、もちろん咲いていない。
花どころか、まだ蕾すら膨れていない。
つまり、私が枝の先端に"視て"いるのは「幻の花」である。

始めは、日光の加減でそう見えるのだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
何しろ視える時は夜でも視えるし、同じような気象条件や時間、場所であっても視えない時は視えない。

どうやら怪現象の一つ、らしい。

先に「幻の花」と言ったが、花の形がハッキリ視えているわけではない。
「花霞」や「花明かり」のように、枝の周りがぼんやりと白く視えるのだ。
お陰で生来視力の弱い私には、近くに寄らないと現物か幻覚か区別がつかない。

「枝周りに視える白い発光体」ということで、私はこの現象を「エクトプラズム的プレ開花(笑)」 と呼んでいる。
かなりふざけた名称だが、自分としてはこの原因を「開花に向けて枝先に集まった木の生命エネルギー的を視覚化している」と捉えているため、このようになった。

もしくは ……
「木のイメージトレーニング」
を視ているのだろうか?とも思ったりしている。

そして更なる謎は、この現象が起きるのは「桜の木のみ」ということだ。
春に花をつける樹木は桜に限らない。梅、桃、椿……色々とある。
季節を限定しなければ、両手で足りないほどあるだろう。
しかし、なぜかこのように見えるのは、今のところ「桜」だけで、時期も立春から花が咲くまでに限られる。

この「プレ開花」について、怪異のプロであるお師さんやダンナに聞いてみたことがある。

「いやぁ、俺らには視えんなぁ。だが、だからと言って幻覚や気のせいとも片付けられん」

とのこと。

結局、一口に怪異と交わる力「霊感・霊能力」と言っても、皆が皆一律ではなく、得意分野・相性・縁など様々なモノが影響する。

他人がどのように解釈するかは自由だが、個人的見解を正直に言えば「なんでもかんでも視える・できる」というのは嘘くさいと思うし、実際に
殆どが嘘だ。

私の場合は、特にその「意図しないえり好み」が顕著で、狭い枠にピッタリハマれば、あの二人が視たくても視えないものが視える。

ゆえに、私は自分を「0感」だと思うし、仮にあるとしても「ピーキー霊感」としか言いようがない。

「お前は山岳系列だからなぁ。そりゃ木霊とは相性よかろうさ。その中でも特別桜が合うんだろう。でも、なぜ"桜だけ"なのかは知らん。理由は自分で探せ」

と、ぶん投げられて終了した。

■畏怖と桜

冒頭の通り、いつからそうなっているのかは分からない。
記憶を辿れば20代の頃は視た記憶がないので、30を過ぎてからだとは思う。

個人差もあるが、こうした不可解なものを感知するチャンネルは時折変わるものだ。
だから、知らない間になにがしかの変化があって、普通は繋がらない回線が繋がってしまったのかもしれない。

余談だが、桜の木に視えるものは、この「プレ開花」だけではない。
実は一人、桜の木に住まう美しい怪異を知っている。
もっとも、その人も最初から視えたわけではないので、その人のせいなのかとも思ったりする。

しかし、なぜ「桜だけ」なのか?
そして「よりにもよって桜」なのか?

今でこそ桜は寄って行って愛でるが、それは大人になってからの話。
……子供の頃は桜の木をどことなく恐ろしいと感じていた。

何か特別な理由があるわけではない。ただ漠然とした恐怖がある。
しかし、それと同じくらい桜が好きだった。

この愛着と恐怖が拮抗する感情が「畏怖」だと知ったのは、かなり大人になってからだ。

■桜の仏と仏の縁

「桜」である理由。

霊的な謂れで考えると、確かに桜は桃などと同様に邪払いの力があるとされている。
だから、桜に畏怖の念を持つのだろうか?
しかし、それなら一年中同じように視えるだろう。少なくとも秋から冬の裸木の間は、立春から開花までと木の条件も近いし、視えなければおかしい。

毎年、プレ開花を見る度に「なぜだ?」と思っていたのだが、理由とは分かると存外あっさりしている。

私は、どうゆうわけか奈良周辺と縁強いらしく、住んでいないのに土地勘が付くほど通っている。
そして、いくつかあるリピートスポットの一つに吉野山がある。

吉野山に何があるのか?と問われたら「金剛蔵王権現」としか答えられない。
なにしろ、自分が唯一、心の底から頭を下げる仏様だ。
私はこの仏に頭を垂れるために吉野へ通っている。

蔵王権現には、ご神木があり、それ故に吉野山は桜の名所だ。
「一目千両」の眺めに見える桜は全て権現様への献木で、あの浮世離れした景色は人々の信仰心でできている。

事情を知らずに訪れた春の山で、初めてあの青い仏の前に座した時の気持ちは、今も忘れられない。

どこか近寄りがたく、だが妙に目をそらせない不思議な気持ち。
それは、怖いながらも桜を見たくて、遠くから眺めていた子供の頃の気持ちによく似ている。

参拝を終えて、桜咲き乱れる景色を見た時、思ったのだ。

なるほど「仏の縁」だったのか……と。

2020年4月 吉野山某所

■桜と並んで春を乞う

この話をこのように語り出してから数年経つ。
あのプレ開花は、すっかり春の風物詩化していたが、ここ2~3年はあまり視なくなった。
特に今年は犬がおらず外を出歩かないせいか、まだ一本も視ていない。

また怪異のチャンネルがズレたのか、あるいは「これはそのようなものだ」と自分の中で納得し「見慣れたもの」に格下げされたのかもしれない。

あるいは……
桜と自分を繋ぐ縁を知ってしまったから、もう視る必要がないのだ。

だが、その事について特に何も思わない。
本来は視えないのが正常である。私は不必要に怪異に関わるのが好きではない。

それに、視えなくても木が花を咲かすため、枝先に力を溜めているのは知っている。
花と見まごう光を発して、桜が春をこいねがっているのを私は知っている。

桜が春を乞う気持ちはよく分かる。
豪雪の地で生まれ育った私には、植物や動物、虫までもが春をこいねがう気持ちが痛いほど分かる。

今日もまた、桜と並んで春を乞う。

その姿を誰かが見たら、私からも白く光る手が伸びて、
春を手招いているように視えるのかもしれない。


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