見出し画像

プンパニッケルの予言

(2021年度第30回岐阜県文芸祭 ライトノベル部門入選作品)

 1

 朝の通勤列車の中、スマホを握る僕の手はなかなか暖まらなかった。

 十二月も半ば過ぎになると、かなり冷え込む日もある。そういう日が来ると僕は「冬が深まって来たな」としんみりした気持ちになるのだった。

 そして、やって来るのがクリスマス。

 今年もクリスマスは洋子と一緒に過ごす予定だった。でも、お互い多忙でそれまでとても会えそうになかったので、チャットを使ってクリスマスをどう過ごすか、彼女と相談していた。

「パンを焼こうか」

 クリスマスにはいつも洋子がスイーツ作りの腕前を披露してくれていた。独学らしいけど、カフェのショーケースにさえ並べられそうなものを作ってしまう。だから、今年もおいしくて手の込んだケーキか何かを作ってくれるものと僕は楽しみにしていたのだけれど、パンと言われて少しがっかりした。でも、そう言えばこれまで一度もパンを焼いてもらったことがなかったので、それはそれでちょっと楽しみではあった。

「パン焼けるの?」

「デニッシュでもバゲットでもシュトーレンでもお好きなものを」

 洋子らしい自信に満ちた返事が返って来た。

——パン、何がいいかな?

 想像を巡らせたとき、僕の脳裏になぜか「ライ麦パン」が浮かんで来た。それでライ麦パンと返したら、軽快にやり取りしていたチャットが滞った。

「できるんじゃないかな?」

 少し間を置いて返事が返って来た。

「ライ麦百%の黒パン、すっぱいやつだけど」

 さすがに今度は無理かなと僕は思った。普通の食パンに粗く挽いたライ麦をアクセントとしてミックスしたものはよく見かけるけど、東欧で普通に食卓に出されるライ麦百%の黒パンは、日本ではほとんど見かけない。

 また洋子からの返事が止まった。戸惑っているのだろうか。でも、洋子のことだから、きっと大丈夫だと僕は思った。

 返事を待つ間、なぜ急に黒パンが欲しくなったのか考えてみた(でもまあ、クリスマスにライ麦百%の黒パンもないのだけれど)。

 黒々としてずっしり重く、ふくらみや弾力感がほとんどないので噛むとぽろぽろこぼれてしまう黒パン。僕はこれまでに二度食べたことがあった。

 初めて食べたときには酸味が強くて、口に入れた瞬間はかなり抵抗感があった。でも、そのあと深い味わいが広がったのは意外だった。

 二度目に食べたときには前ほど酸味への抵抗感はなく、やはり深い味わいがあった。そして、また食べたいと思えるまでになっていた。

 僕は、その思いを洋子の作った黒パンで楽しみたいのかもしれなかった。でも、何かほかにも大きな理由があるような気がした。

「材料がそろえばできるんじゃないかな」

 洋子から返事が来た。僕は「OK」と返した。


 あのときの黒パンの名前が思い出せなかった。

 チャットを終えてオフィスまで向かう途中、僕はずっと思い出そうとしていたが、全然思い出せなかった。仕方がないからスマホで『黒パン 酸味』とググってみた。すると、すぐに出て来た。

「プンパニッケル」

——そうだ、プンパニッケルだ。

 画像を見ると、丸いものもあればパウンドケーキのように四角いものもあった。僕のこれまでの経験で、最初は丸いもの、次は四角いものを食べていた。形は違うけれど、どれも色がダーク・ブラウンで酸味があることは同じだった。

——三回目のプンパニッケルは、どんなものになるのだろう?

 そのとき、僕は初めて黒パンを食べたあのときのことを思い出した。

——三回目。つまり、三人目なんだ。

 僕は身体がこわばる思いがした。あのときの「予言」のせいだった。


「サワードウがない。困る」

 翌日、洋子からメッセージが来た。

 サワードウとは黒パンを作るとき生地を膨らませる「パン種」のことだ(ググってみて知った)。でも、一般にはあまり市販されていないらしい。

「それがないと無理?」

 僕がそう返すと、しばらくして返事が来た。

「ヨーグルトでも代用できそうだけど、やっぱりあった方がいい」

 黒パンの材料であるライ麦には、生地を膨らませるグルテンがほとんど含まれていないため、イーストだけでは生地を膨らませられない。そこで、イーストと同じく微生物の「サワードウ」がその役目を補うことになる。普通のパンのように大きく膨らませることはできないけれど、食感を高め、味わいを出すためにも黒パン作りには不可欠な材料となる。

 でも、それがない場合は代用品としてヨーグルトを使うこともあるらしいけど、代用品はあくまでも代用品、本来の食感や味わいが出せるとは限らないらしい。

「だから、パンが正しく作れたのかどうか、私にわからないの」そして、続いた。「晃一が食べたときの黒パンはどんな味だった? 教えて欲しい」

 そのあと、パンダが何度もお辞儀するスタンプが送られて来た。

  

 もう十年以上も前のことだった。僕は大学入学手続きと同時にいきなり「休学届け」を学生課の窓口に提出した。意外な顔をされると思っていたけれど、女性担当者はすんなり受け取り、事務的に言った。

「復学予定の一ヶ月前までには必ず連絡してくださいね。復学しても手続きをしていなければ、講義は受けられません。履修登録の調整に時間がかかりますからね」

 それを聞いて、僕は休学する学生って普通にいるんだなと意外に思った。

 親に頼み込み、なんとか一年間だけ海外放浪する許可を得た。放浪先はヨーロッパ、それも東欧に決めていた。その理由は、ヨーロッパの中で特になじみがないということと、金がかかりそうにないということだった。

 とにかく僕は海外に行かなければならないと考えていた。自分を大きく変えてみたかったのだ。不安がないわけではなかったが、英語についての自信——高校時代にTOEIC九百点超えしている——が僕の背中をぐいぐい押していた。


 日本を出てからは後悔の連続だった。

 見るもの聞くものすべてが興味深かった最初のひと月は、確かに楽しかったのだけど、東欧は僕にとってあまりにも退屈すぎた。

 旧体制崩壊後、内戦が勃発した。それが終わったころには国家も国民も疲弊してしまっていたけれど、その後は各国とも立ち直り、今は新世紀の要求にこたえようと改革に躍起になっていた。

 でも、それはパソコンや携帯電話といった、先進国が見せびらかして来た「モノ」への欲望に対応するだけというこれまでの資本主義の焼き増しでしかなかった。

 耕作放棄した畑のあぜ道で、若い女性が笑いながら携帯電話を使っている姿を目にしたとき、

——違う。こんなところでは自分を変えられない。

 と判断し、僕は帰国を決めた。

 十二月下旬の寒い日、ドイツに入った。空港に向かう道すがら、フライトまでかなり時間があったので何か見物して行こうと途中下車した。街の空は欧州の冬特有の分厚い雲に覆われ、今にも雪が落ちて来そうだった。

——別の街の方が良かったかな。

 そう思いながらも物珍しさのせいか、妙に惹きつけられる感じがあり、足が勝手に進んで行った。

 中世のたたずまいの街路——調べてみると、ヴェストファーレン州の街だった——に重厚な石造りの建物が並んでいた。

 ダーク・グレーの空の下、街路をゆく人たちはまるで石でできているかのように動きが鈍かった。

 食料品を売っている街路を歩いていると酸味の強い香りが漂って来た。僕は顔をしかめ、速くその場を通り抜けようとした。すると、前方から大きな声が聞こえて来た。

「Frohe Weihnachten!(クリスマスおめでとう!)」

顔を上げてそちらを見ると、一人の若い女性が立っていた。

「Bitte kaufen sie brot. Brot von leckeren frisch gebackenen!」

 どうやら「焼きたてのおいしいパンを買わないか」と言っているようだった。でも、僕は買うつもりはなかったので無視して進もうとした。

「You must eat this bread, pumpernickel!」

 女性の店の前を通り過ぎようとしたとき、今度は英語で言った。僕は足を止めた。店の前に女性が立っていた。

「Why, must I do!?」

「Ja! Pumpernickel!」

 なぜ食べろと言うのか訊ねたが。その女性は無視し、強い意志を感じさせる淡いブラウンの瞳で「Ja!(そうよ)」と返し、店に戻った。

 声をかけただけなのかと思ったけれど、僕は気になってその酸味臭の漂う店の前で立ち止まった。そして、「Bäckerei(パン屋)」と書かれた扉を開いた。


「プンパニッケル?」

 僕は首を傾げた。

「知らないかしら」

 そう言って、彼女は焼けたばかりのダーク・ブラウンの丸いパンをカットし、その一つを僕に差し出した。

 彼女は、胸の大きく開いたターコイズ・ブルーのブラウスにグリーンのチェック柄のエプロンをかけていた。とてもスタイルが良く、長く艶やかな黒髪に包まれた顔は魅惑的な輝きを放っていた。そして、その淡いブラウンの瞳は僕の心を奥底まで覗いているようだった。

「ライ麦のパンよ、いかが?」

 彼女は笑顔でそう言って首を傾けた。艶やかな黒髪がわずかに揺れた。

「それはわかるけど……苦手なんだ」

 僕は酸味臭を避けるように顔をそむけて言った。

「白いパンしか食べないわね、ヤパーニシュは」

 彼女は笑いながらそう言った。僕が日本人だとどうしてわかったのかと思ったが、そんなことより僕には目の前のそれをどうにかしなくてはならなかった。

 結局、僕はそれを受け取り、我慢して口に入れた。やはり酸味が強かった。でも、そのあとライ麦特有の深い味わいが口の中に広がったのは、意外だった。

「おいしいでしょう?」

 探るような目で彼女は言った。僕はその自信に満ちた表情が癪に触ったので逆らうように言った。

「やっぱり、口に合わないね」

「でも、食べたわね」

 真顔になって彼女は言った。僕はなんだかはめられたような気がした。

「金なら払うよ」

 彼女がたちの悪い店員であるように思えてきたので僕は店を出ようとした。でも、彼女の瞳が強く輝いたのを見て、足が止まってしまった。

 落ち着き払って彼女は言った。瞳の輝きはまだ続いていた。

「あなたは私を含めて三人の女性から、プンパニッケルを与えられることになるわ」

「もうじき、日本に帰るんだ……もう食べる機会はないさ」

 そう僕が言うと、彼女は両目をつむり、ゆっくり二度首を振った。

「信じて。私はロマの娘、この程度の予言なんてたやすいこと」彼女はそう言った。「もっと大事なことがあるわ」

 僕は彼女の瞳がまた強く輝き出したように感じた。

「大事なこと?」

「次の女性からは四角いプンパニッケルを、そして三人目の女性からはこれと同じ丸いプンパニッケルを与えられる……そして」

「そして?」

「そして、三人目の女性とあなたは将来を誓う仲になる」

 彼女はそう言った。そして、瞳の輝きが徐々に薄れていくにつれ、僕の身体の自由も戻って来た。

「なるほど、覚えておくよ……でも、どうしてそんな大事なことをわざわざ僕に教えてくれるの?」

 少しばかりの嫌味を込めて僕は訊いた。

「お礼よ。このあときっと何か買ってくれると思っているから」

 そう言って彼女はいたずらっぽく笑った。

 ようやく僕は気が付いた、これは旅行客相手への常套句なのだ。僕はそんな予言めいた話など信じなかったが、面倒くさくなり、店の奥に進んでパンを選び始めた。

 もちろん、黒くないパンを。


  2


「……ということがあったんだよ」

「なにそれ。ウチでそんなことやったらクビよね」

 十二月のある夜、共に遅番だった僕と恋人の麻里香はアルバイト先であるスーパー・マーケット近くのレストランで夕食をとっていた。テーブルのライ麦パンを見ていたら、僕は突然ドイツでの奇妙な思い出がよみがえって来たのだった。

 僕たちはクリスマス気分を味わおうと、スモークチキン、クリームシチュー、サラダ、それに食べ放題のパンをテーブルに並べていた。

「ふうん、プンパニッケルの予言ね」

 麻里香がそう言うのを聞いて、僕はライ麦パンをひと切つまみながら、首を振った。

「予言なんて大げさだよ」僕は苦笑した。「ところで、黒パンってそっちで売っていたっけ?」

「プンパニッケルとか? うん、時々出してるわ」

 彼女はベーカリー・コーナーのアルバイトで僕はフレンチ総菜コーナーのアルバイトだった。

 僕の方のコーナーのお客さんに、フレンチにマッチするパンを紹介するため、僕はせっせとベーカリーに足を運んで、その日のパンの種類やでき具合について情報を仕入れていた。麻里香と知り合うようになったのは、この行き来のおかげだった。

 フランス料理に黒パンはまず用いられない。黒パンは庶民的な食べ物だったから、高級指向が売り物のウチの商品にそれをマッチさせてもらおうとは考えていなかった。そのためもあって、僕はウチのベーカリーの黒パンの知識はほとんどなかった。

「たまに焼いてるわ。保存が利くから一ヶ月くらい並べてることもあるけど、食べてみたい?」

 いたずらっぽく、淡いブラウンの瞳を輝かせて麻里香は言った。そして、続けた。

「それとも、食べない方がいいかも……プンパニッケルの予言が気になるなら」

 酸味臭への抵抗感とともに、あの東欧放浪の嫌悪感が心の底から湧き上がって来た。否定したはずのロマの女性の予言にも引っかかっていたのかも知れなかった。


 同じ大学の麻里香は僕と同い年だけど、学年は一つ上だった。僕はあの年の秋に日本に戻り、実家から借りていた旅行費用を返却するためアルバイトを始め、麻里香と付き合い始めた。

 彼女の容姿は十人並だったけれど、艶やかな長い黒髪と淡いブラウンの瞳が印象的だった。

 実家が貴金属貿易の会社を経営していてとても裕福であり、生まれたときからお金に不自由したことはないようだった。だから、ファッションや食事、遊びなどに対する金銭感覚をはじめとした価値観が、僕とまったく異なっていることを知った。

 そんな彼女だけど、アルバイトをして働くという行為には興味があったようだ。一般の人と自分の価値観の違いをちゃんと認識しておかなければいけないと感じていたし、卒業後は就職して自活するよう親からも言われていたので、アルバイト経験が必要だと感じていたようだ。

 どうせ長続きしないだろうと周囲は思っていたらしいけれど、意外にも熱心に働いており、辞めたいなどと口にすることはまったくなかった。

 二人の価値観の違いは明白だったけど、僕は彼女のライフスタイルにまったく引け目を感じなかったし、麻里香も僕のそれには素直にリスペクトしてくれていた。お互い大学生というイーブンな立場にいるからこそできるな付き合い方だった。

 大学合格と同時に休学し、東欧放浪などという不毛な体験しかしてこなかった僕だけど、麻里香と付き合ううちに、少なくとも彼女に対してだけは、僕に存在価値というものがあるかもしれないと思うようになった。

 でも、幸せな大学生活は永遠に続くものではなかった。

 夏を楽しみ、秋に憩い、そして冬がやって来た。麻里香にも就職活動の時期がやって来たのだけれど、就活を始めているようには見えなかった。僕は麻里香に就活しているのかどうか訊いてみた。

「ちょっと迷ってるの」麻里香は言った。「いざとなれば、実家もあるしね」

 そう言って淡いブラウンの瞳で微笑んだ。その笑顔からは、何か考えがあるように見えたけれど、そうではなくただ逡巡しているだけのようにも見えた。


 数日後、アルバイトに行くと、冷蔵ケースの上に大きな銀皿が置かれ、ちょっとくすんだ黄色の野菜料理が山盛りになっていた。僕にはそれが茹でた切り干し大根のように見えた。

「切り干し大根なんてフレンチにありましたか?」

 僕はおどけてチーフに訊いた。

「シュークルート」

 僕の軽口には反応せず、チーフは無表情に答えた。

「シュークルート?」

「アルザスの家庭料理だよ、キャベツの煮物みたいなもの。そもそもはドイツの料理で、あちらではザワークラウトって言うんだ。ウチのジャンボンやソシソンの付け合わせで買ってもらいたい、とシェフが言ってた」

 チーフはトングでその山を少しつまみ、僕に突き出した。味見しろということだった。口に入れると、爽やかな酸味と程良い塩味が広がった。

「おいしいですね」

「ウチにもクリスマスシーズンが来てるんだ。ジャンボンやソシソンの売り上げアップのためにうまく売ってくれよな」

 そう言われて、僕はチーフに苦笑を返した。

 シュークルートは普段出していない。フランス人のシェフが気まぐれで作る商品のひとつのようだった。気まぐれ商品は、売れようが売れまいが一週間程度店に出して、それで終わる。売れたからといって定番化するかどうかはわからない。お客さんもその辺りを心得ているのか、その目新しさと希少価値から買ってくれていた。

 シュークルート——ザワークラウト——も有名な料理であるせいか、よく売れた。銀皿に山盛りだったものが、夕方のピーク時間を過ぎたころにはほとんどなくなっていた。だからと言って、売りたかったジャンボンやソシソンがいつも以上に売れたわけではなかった。

「安くするから、残りを買っていくか?」

 閉店近くなり、チーフが銀皿にわずかに残っていたシュークルートを指差して言った。僕はうなずいた。

 そろそろクロージング準備にかかろうとしていたとき、麻里香がやって来た。カウンターに残っていたシュークルートの銀皿に目をやって彼女は言った。

「シュークルートね」

 麻里香は言った。少し元気のない様子だった。

「よく知ってるね」

「ここはフレンチの惣菜コーナーだし……だいぶ売れちゃったわね」

 残りはこれだけ、と自慢げに僕は両手を広げた。

「ねえ」麻里香が元気のない顔のまま言った。「プンパニッケル、食べない?」

「いいよ。でも、どうして?」

「賞味期限が切れるのよ」

 麻里香は答えた。長期保存が可能な黒パンではあるけれど、さすがに売り物としては適当な時期に処分しないといけないようだった。

「味は全然悪くないんだけどね」

 僕は、麻里香の隣でショーケースを覗き込んでいるお客さんのことが気になった。

「シュークルートと合わせたらおいしいんじゃないかしら……レジすませておくから」

「あ、うん。ありがとう……いらっしゃいませ」

 お客さんがショーケースの鴨のバロティンヌを指差し、僕に顔を向けた。麻里香は客がいたことに気付き、跳ねるように身を引いた。

「予言、大切にしてね」

 小さな声でそう言って麻里香は戻って行った。

「え?」

 僕は麻里香が急に予言のことを持ち出したので、少し面食らった。それから、元気のない表情も気になった。


 仕事を終え、僕はシュークルートの包みを持ってレジを抜けた。暖房が効いていない寒い通路から従業員通用口に向かう途中、コートと紙のバッグを手にした麻里香が立っていた。スカイ・ブルーのニットのワンピースがとてもシックだったけれど、普段の彼女らしいポップさがなく、僕はちょっと驚いた。

 彼女はいつもの明るい表情に戻っていた。僕は少し安心した。

「はい、これ」

 麻里香は手にしていた紙のバッグを僕に差し出した。中身はおそらくプンパニッケルだろうと僕はすぐに気付き、リュックから財布を取り出そうとした。

「いいのよ」

 麻里香は僕にバッグを渡すと、両手を下ろして身体の前で合わせた。僕は麻里香がさっき言ったことが気になっていた。

「ねえ、予言って……」

 僕の問いかけをさえぎって麻里香は手を振った。

「ごめんね、変なこと言って。なんでもない」

 麻里香は身体をひるがえして出入口に駈けて行った。そして振り返り、周囲に聞こえるくらいの大きな声を放った。

「今までありがとう!」

 麻里香は長い髪を大きく揺らせながら、そのまま通用口から駆け出して行った。

「麻里香……」

 思わず僕も駆け出して通用口に向かった。でも、彼女の姿は見えなかった。


 解せない気分のまま帰宅し、僕は夕食の準備に取りかかった。

 麻里香から渡されたバッグを開くと、アルミホイルに包まれたずっしり重いカステラのようなものが入っていた。包みの上に「プンパニッケル」と書かれたラベルが貼ってあった。よく見ると、それは賞味期限切れ間近の商品ではなかった。期限切れどころか、できたばかりの商品だった。

 僕は怪訝に思いながらアルミホイルを剥がし、鈍く光るダーク・ブラウンの四角いプンパニッケルを取り出し、ナイフで数枚切って皿に並べた。それから、鍋で温め直したシュークルートを皿に盛り、テーブルに並べた。

 プンパニッケルをひと切れ手にした。すっぱい香りが漂った。

 ヴェストファーレンで出会ったロマの女性のことを思い出した。長く艶やかな黒い髪と淡いブラウンの瞳が記憶の底できらめいた。

——そう言えば、麻里香も同じような髪と瞳の色をしているんだな。

 今ごろになって僕は気付いた。

 プンパニッケルにシュークルートをのせようとしたけれど、思い直してそのまま口に運んだ。形こそ違え、あのときとまったく・・・・同じ、酸味とそのあとの深い味わいが広がって来た。何年も経っているのに、僕の舌はあの味を忘れていなかったようだ。

——予言、大切にしてね。

 僕は麻里香の言葉を思い出した。つまり、これが二人目からのプンパニッケルなんだということを強く意識したのだった。


 翌日から麻里香はアルバイトに来なくなった。それどころか学校にも来なくなったのだった。

「外国の大学に転学するって聞いたわよ。中原君知らなかったの?」

 麻里香の友人に訊いたら、そんな答えが返って来た。父親の仕事の関係で家族そろってヨーロッパに移り住むことが決まっていたということだった。

 そんなこと、僕はまったく聞かされていなかった。

——予言、大切にしてね。

 つまり、自分は無理だから、次の人とは……というメッセージだったのだ。

 今ごろになって、僕は予言の内容に腹が立った。そして、彼女に話すのではなかったと後悔したけれど、もはや麻里香を取り戻すことはできそうになかった。

 その後、僕は大学を卒業するまで、麻里香を失った悲しみを消すことができなかった。


  3

「やっぱり、サワードウで作りたいの」

 洋子からのチャットは今夜もまたサワードウのことだった。

「いいんだよ、ヨーグルトとイーストで作れるなら……」

「あのね」

 僕は「サワードウにこだわらなくても」と打とうとしたが、クリアした。

「晃一がアルバイトしていたスーパーって、ネット通販してるのね」

 そのあと、少し間が空いた。僕の返事を待っていたのかもしれなかった。

「プンパニッケル買ったの」

 僕は少し驚いた。過去二回の経験からプンパニッケルがどんな味なのか教えておいたのだけど——もちろん、予言のことは伏せて——その情報だけでは十分ではなかったらしい。

「今日、届いたから食べてみたんだけど、ヨーグルトではあんなにうまく作れない」そして、続けた。「無理かもしれない」

「無理?」

「だから、シュトーレンだけになっちゃいそう」

——それはダメだ。

 僕は強い緊張感に襲われた。

 諦めてもらっては困るのだ。彼女は僕にプンパニッケルを与える「三人目」になれる、いや、なるべき女性なのだから。

 でもそれは、洋子がプンパニッケルを作れたらの話だった。


 洋子と知り合ったのは、僕が大学を卒業し、今勤めている電子機器メーカーに就職して三年が経ったころだった。

 麻里香を突然失った悲しみは、大学を卒業してもすぐには癒されなかった。

 なぜ、麻里香は僕の前から姿を消してしまったのか、その理由はずっとわからないままだった。だから、彼女が去って行った理由は、僕との価値観の違いのではなく、何か避けがたい彼女の家庭の都合——一家そろってヨーロッパに移らねばならないという都合——のせいなのだと考えることにして、僕は自分を慰めていた。

 一年後、僕も就職活動を行わねばならない時期となった。

 麻里香を失った悲しみを忘れるためにも僕は就職活動に没頭した。自信のあった英語力と東欧放浪の経験がアピールポイントになり、気が付くと想像以上に多くの会社から採用内定を受けることができた。

 その中から、海外取引の多い今の会社を選び、入社した。

 海外勤務を希望していたが、仕事のやり方を覚えるため、まずは国内の部品メーカーやディーラー訪問を繰り返さなければならなかった。

 洋子は僕の訪問先の一社である半導体メーカーの秘書課に勤務し、受付業務を担当していた。僕が訪問したときはいつも訪問客が現れるまでのわずかな時間に彼女と言葉を交わすことができた。やがて、食事を共にするようになり、恋人として付き合うようになった。

 洋子も艶やかな長い黒髪——普段はまとめているのでその豊かさはすぐにはわからない——をもち、瞳は淡いブラウンだった。

「なぜそんなに私を見つめているのか、不思議だった」

 初めて夕食に誘い、髪や瞳の話をしたとき洋子はそう言った。麻里香もそうだったが、僕が好きになる女性は長い黒髪で淡いブラウンの瞳なのだった。

 洋子は東京都下の大学で電子工学を学んだバリバリの理科系だった。でも、入社の際、仕事は専攻とまったく違うものにしたいと言ったので秘書課に配属されたということだった。

 実家は大学のそばだった。初めてデートしたとき、洋子はなぜか新撰組の話をした。その理由は、有名な隊士が彼女の実家近くの出身だからということだった。

「リケジョでレキジョなんだ」

 僕がそう言うと、ほかにも趣味があると言った。スイーツ作りもその一つだった。

 正直に言うと、それは甘党の僕にとってかなり強い魅力だった。彼女の魅力は、長い黒髪やブラウンの瞳ばかりではなかったのだ。

 デートのときや、何かのアニバーサリーのときなど、ことあるごとに彼女は手作りスイーツを用意してくれた。

 洋子と付き合っていくうちに、いつしか僕の心から麻里香を失った悲しみが消えつつあった。もちろん、それはスイーツのせいばかりではなく、彼女の明るさやときには自信過剰とも思えるほどの強い心が僕を支えてくれたおかげだった。僕が会社の人間関係に悩んだときやハードな仕事が続いたとき、洋子がそばにいてくれるだけで僕は本当に癒された。

 僕は明らかに変わった。麻里香を失った悲しみは完全に去り、もっと以前、大学入学当時の焦慮や逡巡もようやく終わりを告げつつあった。

 そして、再び予言が動き始めたのである。


——サワードウがこんなに手に入りにくいとは……。

 僕は途方に暮れていた。洋子が諦めたあの夜以来、僕もネットで探しまわったが、まったく見つけられなかった。諦めるわけには行かなかった。予言がそうさせてはくれないのだ。

 PCから離れ、ベッドに横たわった。そして、天井を眺めながらヴェストファーレンで食べたプンパニッケルとアルバイト時代に麻里香から渡されたそれとを思い返していた。

——丸いプンパニッケル、四角いプンパニッケル。

——予言、大切にしてね。

 麻里香の言葉が頭に浮かんだとき、あることに気付いた。再びPCに戻り、僕は昔のアルバイト先のウェブサイトを探した。洋子が言った通り、それはあった。そして、当時の店もまだ残っており、電話番号も載っていた。

 翌朝、僕は店に電話を入れ、無理を承知でサワードウを分けてもらうよう頼んでみた。

 サワードウは生き物であるため、その生き物としての個性の差ができあがるパンの個性の差にもなるのだ。だから、同じサワードウだとまったく・・・・同じパンになってしまう可能性がある。だから、大げさに言えば、サワードウはその店のアイデンティティを決めるほどの重要な材料だった。それだけに、分けて欲しいと頼むことは非常識なことだと僕は思っていた。

「お分けするわけにはいきませんが、サワードウを売っている店なら紹介しますよ」

 やはり、直接分けてもらうわけにはいかなかった。でも、売っているところを紹介してもらえたため、僕は大喜びでその紹介先に電話をした。

 でも、その喜びは一瞬にして消え去った。

「ああ、ごめんなさい。ついさっき売り切れちゃってね。取り寄せるまで待ってもらうわけにはいかないかな。ドイツからだから一週間くらいかかるけど」

 その人は申し訳なさそうに言った。でも、僕は丁寧に断り、電話を切った。

——一週間も待てない、クリスマスは明後日なのだ。


  4

 夕暮れ迫る駅前。クリスマスソングがひっきりなしに流れていた。十二月二十五日、東京のクリスマスは雪もなく、暖かな夜だった。

 そろそろ約束の時間である。僕は改札と手元のスマホを交互に見ながら洋子を待った。やがて、スマホにチャットのメッセージが入った。

「いま着いた」

 メッセージを確認し、顔を上げると改札から紙のバッグを持った洋子が目に入った。インディゴ・ブルーのセーターと白のスキニーパンツの上にグリーンのダウンジャケットをはおった彼女が小走りで駆け寄って来た。

 久しぶりの出会いだった。

「お待たせ……なんだか元気なさそう」

 洋子はそう言ったが、僕は首を振った。笑顔を返そうとしたけれど、うまくできなかった。


 僕のマンションに着き、洋子は紙のバッグから包みを取り出し、ダイニング・テーブルに置いた。

「はい、シュトーレン。見た目は派手だけど、そんなに手間はかからなかったわ」

 そう言いながら、洋子は包みを開いた。パウダーシュガーに包まれたそれは、幸せにも包まれているようであり、見るだけでいつものスイーツと同じようにおいしそうだとわかった。

「それからこっちもね」

 同じバッグから洋子は少し小ぶりの丸い包みを取り出した。

「……なんだと思う?」

 食べ物なのだろうけど、僕にはちょっと想像つかなかった。洋子は包みを開き、ダーク・ブラウンに鈍く輝くそれを取り出して両手にのせた。

 プンパニッケルだった。

 それは、僕がヴェストファーレンのあのベッケライで口にしたものと同じ丸い形をしていた。僕はとても驚いた。そして、洋子がプンパニッケルを作ることができたなんて信じられなかった。

「レシピ通りにうまく作れたと思ってるわ」

 洋子は自慢そうに言った。

「え、サワードウがなかったのじゃないの?」

 怪訝な面持ちで僕は言った。

「見つけたわよ。晃一の昔のバイト先のパン屋さんに訊いたら、売ってくれるところを紹介してくれて……最後のサワードウだったみたい」

 僕は驚き、そしてため息をついた。そういうことだったのか……。

「でも、気になってるの、あなたの記憶の味と同じかどうかって」

 彼女はそう言って、両手にのせたプンパニッケルに不安そうな表情を向けた。

「大丈夫さ」

 僕はようやく心の底から笑顔になれた。味なんて見なくても僕はもう確信していた。


 よく冷えたアルザスの白をグラスに注ぎ、クリスマス・パーティの準備を終えた。

「ハッピー・クリスマス、洋子」

「ハッピー・クリスマス、晃一」

 クリスマスソングの歌詞のように僕らは言葉を交わし、グラスを傾けた。最高においしいワインだった。

「では、召し上がれ」

 洋子がプンパニッケルをナイフでスライスすると、ほのかなすっぱい香りが漂って来た。そして、真剣な表情でそのひと切れを僕に差し出した。そのぼってりとした外見はロマの女性が差し出したそれとよく似ていた。僕は目を閉じてそれを口に含んだ。酸味を確かめ、そのあとの深い味わいを楽しんだ。

 思った通り、食感も味わいもあのときのプンパニッケルと同じだった。

 目を開けると、目の前にロマの女性がいた。でも、彼女はすぐ麻里香に変わり、そして洋子に戻った。艶やかで長い黒髪と淡いブラウンの瞳が、移ろうことのないアイデンティティとして僕の目の前にあった。

「おいしかった。まったく・・・・同じだよ」

 そう言って、僕は洋子をハグした。プンパニッケルのほのかな香りが魔法の煙のように漂って消え、そのあとすぐ洋子のいつもの甘い香りが僕を包んだ。

「ありがとう」

 洋子の黒髪の中に顔を埋めて僕は言った。

——予言、いつ話せばいいんだろう。

 と考えながら。                          了  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?