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話を聞いてくれていると思う人、話してあげていると思う人

コミュニケーションにはリズムがある。お互いが気持ち良い速度でラリーを打ち合っている時、話していて心地よいと感じるものだ。

個人的に、とめどなく言葉を浴びせられるのはとても苦手だ。目的が分からないまま船が進んでいくことに苛々してしまう。

ゴールが見えないまま進むこと自体がいやなのではない。「無目的にこの時間を楽しもう」というのも、目的の1つだと思う。

問題は、船がどんな方向に、どんなテンポで進もうとしているかを決めないまま進んでしまうことなのだ。

一方的に話し続ける人の会話は、質問やリアクションをする隙がない。こちらが船に乗るかどうかを決めないまま、勝手に進んでしまう。だから苦手だ。

もう1つ、言葉が言葉として聞こえなくなってしまうのも苦手に感じる理由だ。流れるように言葉を浴びせられていると、途中から意味のある話ではなく、音楽のようにさらさらと流れていくようになる。

そうなるとお手上げで、細かく切れた単語の塊がどんどん飛んでくる感じになる。塊を繋げて意味を辿ろうとするけれど、後から後から飛んでくるものだから、理解することができなくなる。

そんな時、私は話を理解できていないし、途中から諦めて聞こうともしなくなってしまう。

しかし、そういう時に限って相手からは「すごく丁寧に話を聞いてくれた」「話していて楽しかった」と言ってもらえるのはどういうわけだろうか。

相手の話を理解しようとするのが誠実に話を聞くということなら、途中で諦めてしまった時点で誠実ではないと思う。話を遮ってでも「今のところよく分からなくて、もう一度教えてもらえる?」と言うべきなのかもしれない。

でも、そもそも私は船に乗りたくて乗っているわけではないのだ。

だったら、「本当に申し訳ないのだけれど、今あなたの話を聞いてもよく理解できなくて。また今度教えてもらえる?」などと船から降りる意志表明をすべきかもしれない。

どちらの選択でもなく、船に身体だけ乗せて心はここにあらずで聞いている(風に見せている)。とても不誠実な態度に感じるが、それでも相手はなぜか満足している。

自分もテンションが上がって捲し立ててしまったり、相手の反応を見ずに一方的に喋ってしまうこともある。誰しもあるかもしれない。今回書いたのは、そういったたまに猛烈に話してしまう時のことではなく、日常的に一方的に話す習性のある人のことだ。

長年、言葉をぶつけ続けられることに苦手意識が強く、理解しようともしていなかったのだが、最近勇気を持って身近な人に聞いてみた。

その時は私との会話ではなく、友人と1時間ほど電話で話しているのを横で聞いていたのだが、とにかくずっとその人が話しているように感じた。電話の向こうのリアクションは分からないので正確な判断ではない可能性もあるが、その人の話す時間が長いのだ。

終わった後、「たくさん話を聞いてくれて、友達は優しいね」と声をかけてみた。

すると「え?なんで?向こうが聞きたいから話してあげたのに。会話はキャッチボールだから、お互い様でしょ?」とあっけらかんとした返事が返ってきた。

なるほど、そういうことだったのか。

私は自分が話したいことを話す時、相手が「話を聞いてくれている」と思う。だから自分がずっと話すのではなく、相手が話したいことを話す時間も作るようにする。

でも、自分が相手のために「話してあげている」と思う人もいるのだ。

確かに、人が話してくれて学びになったり、面白い時間を過ごさせてもらうことも多い。私は「話を聞いてくれる」と思うタイプだから、前述の電話は聞いていて非常にモヤモヤしたけれど、バイアスがかかった見方だったのかもしれない。電話の向こうの相手は会話を心から楽しんでいて、話を聞けてよかったと思っていたのかも。

話を聞いてくれていると思う人、話してあげていると思う人。「話す」と言うトピックだけでも、人によって捉え方は違う。そういった個人のアイデンティティや特性の違いといったことは非常に面白いと思う。

今後は一方的に話す人が現れて苦手だなあと思った時も、なぜこんな風に話すのだろう?と考えることで相手への理解が深まりそうだ。

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