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半世紀の節目とは?

50という数字を目の前にして、皆さんはどのように自分の人生を振り返りますか? 私はいよいよその数字が自分の人生の一部となります。

私は五十歳という節目を迎える友人や家族に、いつも『五十歳という節目はあなたにとってどう意味があるの?』と聞きます。みなさん決まって、う〜んと腕を組んでしばらく考えると、『そう言われてもわからないなぁ』と言います。いきなり聞かれたら困りますよね。でも、もしかしたら、五十歳を人生の節目、と考える人がいないのかな?とも思いました。

私にとって50とは、100の半分です。数字としてすごいインパクトのある数だと思いませんか?! 一世紀は100年です。だから半世紀としてどうしても捉えてしまいます。

それではここで自分の半世紀を振り返ってみましょう。

生まれも育ちも平凡ですが、他の家庭とちょっと異なっている点があることに大人になって気がつきました。実は父親の家系が映画産業にいました。母親の家系がサラリーマンだったので、母からは『お父さんの考え方や家庭が普通と思っちゃダメよ〜』とよく言われました。これも自分が大人になって家庭を築いてからわかったのですが、確かに父親の家系はあっと驚くようなドラマがありました。笑いもありました。このことは、後でもう少し詳しく書き出していこうと思っています。というのも、父親の血が入ってからこそ、私という個性が人生を編んできたと思うので。

小学校、中学校、高校と目立ったこともなく、目立ったこともせず、大学になって一気に視界が広まったことを今でも昨日のように覚えています。勉強もそこそこ、でも英語と歴史と国語の授業が大好きでした。授業の前にはワクワクしました。そこで『授業の予習』という技を覚え、授業の前に予習をすると内容がすんなり入ってくる、ということもわかりました。

忘れもしない中学二年生の夏、私はシアトルのアメリカ人宅へホームスティに行かせてもらいました。何もかもが初めてのアメリカ!その頃は、マイケル・ジャクソン、マドンナ、バック・トゥ・ザ・フーチャー、アメリカのポップ文化が溢れていました。兄と弟とスケードボードの練習を必死になってしました。八月の一ヶ月間、シアトルの湖の麓にある、中産階級で質素なクリスチャンの家でお世話になりました。これが『新地で生きる』ということを身をもって経験させてもらったキッカケだったと思います。なんて新鮮で楽しいのだろうか!

それが大学を卒業した後、大学院留学につながる基盤になった、というのは言うまでもないでしょう。今思えば、ただの過剰な自信?現実認識が甘い?とでも言いましょうか。アメリカの大学院で二年間しっかり勉強してきて、日本の大学で講師になろう!と思っていました。どうせやるなら、なんで徹底的に博士課程まで行かなかったんだろう、と今では若気の至りによる判断の甘さに歯痒い思いです。

大学院の後はとんとん拍子に、シリコンバレーのハイテク産業で就職、またこれもとんとん拍子に寿退社、アメリカ人の夫は大学教授として就職したので、やった〜これで私も晴れて目標だった大学講師になれる!と、喜んで退職して彼について行きました。

そして私の人生の後半…思っていたのと全く異なります。というわけで、五十歳を節目に、その『計画していた人生』が出だしは好調でも、後半にどのように脅かされて覆され、そこからどうやって立ち直り修正してきたのか、ゆっくり振り替えながら書き留めて行きたいと思っています。

お楽しみに!

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