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月読(ツクヨミ)に願いを。雨おんなは歌を詠む。〈#新しいお月見〉

こちらは、渥美まいこさん企画の#お月見コンテストで「三日月賞」をいただいた作品です。

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望月の夜。秋風がひやりと窓から流れこむ。明日、わたしはきっと"雨おんな"に戻る。

わたしはそっとつぶやく。

天(あめ)にます 月読壮子(つくよみをとこ) 賄(まひ)はせむ 今夜(こよひ)の長さ 五百夜継ぎ(いほよつぎ)こそ

月の神様、月読(ツクヨミ)様。どうかこのまま夜が明けませんように、と静かに願う。

彼と過ごした日にちを数えてみる。彼にとってこの日々は短かったのだろうか、それとも…

彼が好きな赤ワイン。はじめて自分のグラスに注いでみる。品の良い濃厚な赤。いつもの芳醇な香り。彼の穏やかな表情が思い出され、グラスに口を付けるのをやめた。

ふと、グラスの中の赤ワインに月を映してみた。赤ワインに浮かぶ望月。

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名前に"雨"のつくわたしは、幼い頃から大事なイベントに雨をもたらすと、不吉呼ばわりされてきた。

"みんなを雨でがっかりさせたくない" 大学に入っても、約束をするような人間関係を避けてきたわたしに友達と呼べる人はいなかった。

彼に出会ったのは、大学院に進級した春のこと。彼は全国から講演依頼がくるような、その世界では有名な研究者だった。

彼の研究室はいつも本で埋めつくされていた。いつか本に埋もれて死ぬのではないかと、学生たちに心配されていたが、彼は全く気にしていなかった。わたしはその部屋を訪れるのが好きだった。

彼は、詩を読むように話をする。言葉のひとつひとつに光を灯すようで、厳かだ。

彼の声はとてもしなやかで、彼によって命を吹き込まれた言葉たちは、ゆったり空間を漂い、わたしの耳へと届く。

七夕のこと。わたしは例年通り、自分の意思とは裏腹に雨を呼んでいた。"自分の名前が違うものだったら…"と溢したわたしに、彼は歌をひとつ詠んでくれた。

この夕(ゆうへ) 降(ふ)りくる雨は 彦星(ひこほし)の 早(はや)漕(こ)ぐ舟(ふね)の 櫂(かい)の散(ち)りかも

そしてこう続けた。「七夕が雨だからと嘆く必要はない。この雨は、彦星が織姫に逢いに行くために、急いで舟を漕いでる滴だからね。雨は美しいよ。」

はじめて自分を肯定されたような気がして、涙が溢れた。彼は、それを優しい眼差しでいつまでも見守ってくれた。

その日から、わたしたちは暗号のように歌を詠みあうようになった。

あれから759日。彼とふたりきりで過ごす時間は限られていて、そう多くはなかった。それでも、わたしたちは何百という歌を交わし、心を通わせた。

彼とふたりきりのとき、わたしは雨を降らせることはなかった。彼は"雨おんな"でなくなったわたしを、少し寂しがっていた。

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望月が陰る。

時計の両針が数字の12を指した。わたしは意を決して、彼にひとつの歌をおくる。月の神様、月読(ツクヨミ)様に願をかけて。

月読(つくよみ)の 光りに来ませ あしひきの 山きへなりて 遠からなくに 〈遠い距離ではないのだから、月の光を頼りに来てください。〉

おくった後、後悔の気持ちに襲われる。本心と決意の狭間で心が揺らぐ。それに耐えきれなくなった時、彼からひと詠みがおくられてきた。

月読(つくよみ)の 光りは清く 照らせれど 惑(まと)へる心 思ひあへなくに 〈月の光は明るいけれど、わたしの心はそうではないのです。〉

やはり、彼はあの歌を詠んだ。

湯原王の月読の歌(月の光を頼りに来てください)には、その歌の答えとして、作者不明の「断り」の歌(わたしの心はそうではない)がある。

今の彼ならば、この歌を返してくると分かっていた。わたしと彼の間にある"齢"という"狭間"。彼はそこに囚われてしまったのだろう。

ぽろりと涙が溢れる。穏やかに雨が降り出し、ふわりと揺れるカーテンを濡らす。

今日、わたしは"雨おんな"に戻った。でも、大丈夫。もう雨は嫌いじゃない。

新しいわたし、お誕生日おめでとう。

望月は変わらずそこにある。


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↓彼のストーリー

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これは、渥美まいこさんの「#新しいお月見」の参加作品です。万葉集の"月"を詠んだ歌から発想を飛ばしました。渥美さん、楽しい企画をありがとうございます!