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日本の男尊女卑への意識の低さを憂う from Buenos Aires

アルゼンチンに暮らすようになって、一番気づかされたのが、日本がいかに「男尊女卑」の国かということ。
男性を責めている訳ではない。それを ”良し” としている女性側にも十分に問題があると思うし、何よりもその状態に疑問も持てない社会の枠組みや意識が問題だと思う。

男女平等はまた後退 ジェンダーギャップ指数2019で日本は過去最低を更新し121位、G7最低」という記事は、特に驚きでもなかった訳だけど、悲しかったのは、その記事に対するコメントから伺える意識の低さ。

「そんなに西洋がいいなら脱色して海外へ行け。」「既に機会は平等、挑戦しない女性が悪い。」「そもそも女性政治家の需要がない。」etc., etc.

がっかりするを通り越して、悲しくなったり、笑えてきたり、腹が立ったり。

女性が社会進出してないということは、男性が作った社会の中で、男性の作ったルールの中で、男性が求める女性像の中で、女性は生きているということに、そろそろ気づいても良いのではないだろうか。

私が久しぶりに帰国した時に感じた一番の違和感は、”カワイイ” の仮面を被って一人一人の個性を出せずにいる日本女性達。
テレビをつければ日本を代表するテレビ局のほとんどで、男性キャスターの添え物のように、本来の賢さや意見を出すことがタブーかのように微笑んでいる「女子アナ」という存在。

彼女達はあんな「お飾り」に本当になりたいのだろうか?
彼女達の印象が、日本社会の「女性のあるべき像」に大きく影響するのに。

レストランを見渡せば、男の人に媚びている女性達と、それに嬉しそうにしている男性達(それならまだいい、時に「気が利かない」と文句を言うのはいかがなものか…)。
私がため息をもらすと、「いいのよ、あの女の子達も分かった上で、それが得点高いと思ってやってるんだから。」と。

日本人女性(男性しかり)の細やかな気遣い、思いやりは世界的に評価も高いし私もそれを持ち合わせる人を羨ましいと思っている。
ただそれが、「社会を生き延びるために必要だから。」と、自分の意に反して、しかも「女性だから」という意識で、自分の心に反してのものなら意味があるだろうか。

最近、日本のお笑いを見るのもなかなかツライ。
美人で "可愛く" なければ、「あっち行ってろ!」の勢いで馬鹿にされる役回りだ。これまた社会のパターンにどれだけ影響を与えるか分かっていない。

勿論、この国アルゼンチンも男尊女卑の歴史は色濃いし、無駄にセクシーな格好をしてテレビに現れる女性陣は、男性の目を意識して造り出された産物であることは否定できないと思う。

でも、決定的に違うのは、彼女達は自分たちの言葉ではっきりと自分の意見を主張することも許されていれば、男性の意見を否定することもできるのだ。
そんなことを日本ですれば、「”女のくせに”生意気だ」とレッテルを貼られることだろう。

イギリス在住の日本人女性が「日本は100年遅れている」と発信していた。
イギリスでスーツケースとベビーカーと子どもを抱えていたら、必ずジェントルマンが何人か走り寄ってきてくれて「大丈夫?」と手伝ってくれる。
(これはアルゼンチンも変わらない。ただ、強盗かもと疑わないといけないのが悲しいところ。)

日本で同じ状況だと、一番に蹴り飛ばして文句を言うのは大概男性で、そんなことをイギリスでしようものなら、周りがほって置かないと。

バスで「子どもの泣き声がうるさい」と言った男性は、まわりから非難された上で運転手から降ろされた、と。
双子連れのベビーカーを持ったお母さんが乗車拒否されたという日本との差はなんだろう…、と思ってしまう。

一つには、「社会」が機能することを重視するあまりに「個」に優しくなれない日本、他人に優しくなる余裕がない程働かないといけない日本、というものがあると思う。

そして日本では、どうして女性の社会進出が進まないのか?
だって、それが女性自身が「自分にとって良いこと」、もしくは「自分に利益がある」と思える社会じゃないからじゃないだろうか。

サバイバル能力という意味で頭の良い女性なら、「頭が悪いふりをして、男性に意見せず、可愛がってもらって生きる方が、簡単でお得だ」というコトが分かっっているのだと思う。

男性だってまだまだ、どうしたって女性上司より、男性上司の下で働きたい世の中だろう。

私だって、未だに「強い女性になる」という言葉には抵抗があるし、「はかなく、か弱くて、守ってあげたい!と思われる女性になりたい」という日本社会が女性に抱かせてきた憧れは、そう簡単に書き換えられるものではない。

アルゼンチンの女性運動は時にすごく過激に見える時もあるけれど、でもそれは「対男性」で闘っているものだけではなくて、あくまで「自分たちが本当に必要としているもの」「今、女性として必要な権利を ”私に” 与えて下さい」と、あくまで「自分」に主体があるような感じを受ける。

日本の例えば女性政治家が、女性から見て素敵に映らないのは何故か?
それはまず、彼女達が「女性のままで」政治家でいれず、男性と渡り合っていくために、「男性化」せざるを得ない状況があるからだという話を思い出す。

意見が極端に分かれるとはいえ、アルゼンチンの前大統領クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルは60代(”でありながら”、と日本では表現されるだろう)溌剌とした美しさで、何より、原稿を準備することもなく何時間と民衆を歓喜させる演説をしている姿は、その女性らしい美しさと知性で人気を獲得している。

女性が女性のまま、自分らしさを表現しながら、社会進出できる日本になれば良いのにな、と思う。
「2000年の男尊女卑の歴史を変えるには時間がかかって当然」とコメントしている人がいた。果たして本当にそうだろうか?

日本が伝統を捨てて、西洋文明の仲間入りをするのに何年かかっただろう?
(実はそれを考えると、日本文化や日本人としての在り方を、どのように残しつつ、変化していくべきなのか、というのは最近ずっと考えさせられている。)

西洋に習え、とは私は言いたくない。
国際化、国際化、と大きく謳うのであれば、視野を広げ、海外がどのような変化を遂げてきたのか、日本はどのような選択をして、どのように変わっていくべきなのか、を一人一人が考えられるチャンスがあってほしいと思う。

海外であれば一発で訴えられてしまうような女性への暴言や、会社や組織の決まり事が日本ではまかり通っている、という事実を知って、男性達や女性自身が、どう受け止めて、どう変えたいと思うかが大切なんじゃないかと思う。

そしてもはや、「男女」という枠組みにすら囚われている場合ではない LGBT に日本がこの状況で、どう取り組めるのだろう…、と思ったりもする。 

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