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ガラス戸、歪んで眩暈、それから虚脱(掌編・別離)

 イノダコーヒーではなく、イノダコーヒ、なのだ。
 伏せられた伝票に印字されたコラムを見て、ぼんやりと思う。
 冬の快晴は白っぽく、目を刺してくる。ガラス戸は厚さが均等ではないのか、光が歪んでいる。視線を動かすと眩暈がした。
 彼がカップに指をかけた。ソーサーが密かな音を立てた。白い磁器の濡れたような艶を見て、この席の贅沢さにちいさな感謝が湧く。光があたらない奥の席も落ち着いて良いのだが、この光量は、わたしの気持ちを爽やかにしてくれる。
 爽やか、というにはいささか語弊がある。茫洋さが足りない。そう。わたしの頭は、まさに茫洋、という感じだ。昔プーケットの水色の海を前に、砂浜で体育座りをしたあのときの感じを思い出す。
 さて、五年経ったか。
 彼という存在を知り、そして出逢って、五年か。
 実際にこうして顔を合わすことなど、滅多になかった。五年前まで彼はただの憧れで、とてもじゃないが会える人ではなかった。
 彼は作家で、小説を書いている。
 わたしは作品ごと、彼を好きになってしまった。それから手紙を送り続け、どうにか会える機会を探し、そして年に数回、こうして間近で顔をあわせるほどにまで近づいた。
 彼がカップを置いた。またソーサーがかすかに鳴った。この店にはBGMがない。壁にかけられた古時計の振り子の音と、遠い客席の声と、カトラリーがぶつかる音しかない。だから自然と、カップを扱う彼の手にも優しさが入るのだ。
 その優しさが好きだった。
 彼は口べたで天邪鬼だが、仕草や人との関わりの細部に、優しさが滲むのだ。
 そういえば、天邪鬼、昨日の夕方に東寺で見た。誰だか忘れたけど、強面の仏像に踏みつけられていて可哀想だった。あの小さい鬼が天邪鬼という名であるのははじめて知った。鼻がすこし上を向いていて、お腹が出ていて可愛かった。
 目の前の天邪鬼も、お腹が出ているところはそっくりかもしれない。だけどとてもじゃないが、踏みつけられるなんてそんな可哀想なことは許されない。彼もさして美形ではないけれど、わたしにとっては、とても可愛い人なのだ。
 きっとわたしは、彼が踏みつけられるようなことがあれば、命を張ってでも護るだろう。彼の身代わりに、よろこんでなると思う。
 頬杖をつく肘がすこしだけ痛む。コーヒーはもう湯気が見えない。ほんとうはわたしも彼も、コーヒーなんて飲めない。ただ彼の仕事仲間がこの喫茶店がとてもいいと言ったから、ここに来て、名物のコーヒーを啜ってみたのだ。
 ああ違った。コーヒ、だ。
 とても残念だが、苦くてすっぱいとしか思えない。わたしの味蕾なんてそんなものだ。彼はどう思っているかはわからない。お互いに注文したきり、ひとことも声を発していないのだ。
 伝票をなんとなく表にする。緑色の印刷に、意味もなくスプーンをつっこんで出したときに跳ねたコーヒの、ちいさな染みが目立ってしまっていた。
 それからふたりでちびちびと、カップに口をつけた。
「いいね」
 わたしはアンティークっぽい調度品で造られた空間を、見まわした。
「うん」
 彼も頷いて、ゆっくりと首をまわした。すこしだけ痰が絡んだのか、咳払いをする。
 振り子の音がまろやかに響いた。
 振り子の音とはなんだ。
 わたしはあれがどうやって音を発しているのか、わからない。
 世の中、わからないことだらけだ。
 伝票を取って、見た。彼はすこしだけうろたえたような目をして、ほんの数秒間見つめ合った。
 そうやって心中を探るような目をして、だけど何も動じないという顔をする。この人の臆病は、本物なのか。それとも実は肚はすわっているのか。結局、わたしは彼のことがわからない。
 のんびりと席を立った。彼も立って、ふたりでレジに向かった。財布を出すと、遮るように、彼がポケットから五千円札を出して受け皿に置いた。
 いきなり鳥の叫び声が聞こえた。テラス席に繋がる通路に鳥かごがぶら下がっていて、鮮やかな緑とオレンジのちいさな鳥が首を傾げてこちらを見ていた。丸々としたその黒い目は、じっとわたしの顔色を窺っているようだ。
 眩しさのわりに、やはり冷えた。陽射しは温かいが、風がとても冷たい。一瞬虚脱しそうになったが、映画のように白い光りがすべての記憶を消してくれるのだと思った。強引にそう思うことにした。
 わたしたちは堺町通りを下りはじめた。
「明日には、帰るの?」
「そうだね」
「相変わらず忙しいね」
 お互いに、東京で暮らしている。彼が仕事の取材でこちらに来ていて、この時間が空いていると聞いたから、やってきた。
 わたしはそっと、彼の手に触れてみた。すこしだけ愕いたような感触があったが、柔らかい指は拒まなかった。わたしたちは、初めて手を繋いだ。
 冷たい風が頬を切るように流れていった。
 京都は良かった。寺もすこし見た。ひとり旅は初めてで、ちょうど一〇年前の修学旅行以来だ。そのときわたしは、友だちと手を繋いで歩いていたはずだ。
 ふいに、煙草のきつい臭いがした。
 わたしはこんどこそ、虚脱しそうになった。
 ヘヴィスモーカーなのに不思議だった。そもそもいちども、においを感じたことがなかったのだ。
 四条駅についた。
 わかった。
 わたしは。
 これ以上もう、無理だから。
 たいしてきつくもなかった手を離して、彼に手を振り、頭を下げる。ありがとう、がんばってね。そう言って改札に入る。よせばいいのにちょっと見てみると、彼はもう背を向けて、歩いていた。
 階段を下る膝が、折れそうだ。
 口の中に、コーヒのすっぱさがこみ上げる。
 わたしは。
 わたしは煙草のにおいが、大嫌いなのだ。



二〇一七年三月十二日

(テーマ:別離)

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