見出し画像

どこを見て走る

「みなさんは走っているとき、どこを見ていますか?」

マラソン大会の近づいたある冬の日。冷たい風が吹きつける校庭で、先生が問いかけた。

「ゴールを見ている人?」

私も含めて、クラスの半分以上が手を挙げる。

「どこも見ていない人?」

これにもぱらぱらと手が挙がる。走る苦しさで何も考えられない、その気持ちもよく分かる。「はい、ありがとう」と言って先生は手を下ろすよう促す。

「私は、『目の前のコーン』を見るといいと思います。あそこまで走る、次はあそこまで。そうやっていれば、いつの間にかゴールは目の前に来ているよ」


小学生の頃、私の学校には「ロードレース」という名前のマラソン大会があった。距離は確か、低学年で900m、中学年で1.5km、高学年でも2kmほど。1月に開催されるロードレースに備えて、風が冷たくなる秋の終わり頃から体育の授業はマラソン一色になってゆく。本番は近所の河川敷を走るけれど練習はいつも校庭の中で、トラックに置かれたオレンジ色のコーンをジグザグと避けながら走っていた。どこまで走っても変わらない景色、単調なコースのそれは、決して楽しいものではなかった。

一時間目は肺が痛くなるほどに冷たい空気が、五時間目には給食ですっかり重たくなってしまったお腹が苦しみを増す。いつもならさくさくと軽やかに踏みしめる霜柱も、走っているうちに溶けて校庭を泥濘るませる。お気に入りのスニーカーや紺色のソックスに残る茶色の水玉模様は、走り終えた後まで私を憂鬱な気分にさせた。

そして何より、ピストルが鳴って駆け出す最初の一歩が、私はとても苦手だった。これから確実に苦しくなる呼吸や、走っているときに感じるあの血のような味を思い出すと、1kmにも満たない距離が遠く遠く感じられるのだ。まるで蜃気楼のような、本当に手が届くのかも分からないゴール。そこに辿り着きたいと踏み出す一歩は、とてつもなく重かった。

それでも、先生の言う通り「目の前のコーン」までなら、私は確かに走ることが出来た。そのコーンを通り過ぎると、手が届きそうなところに次のコーンが立っている。そこまで走る。次。走る。次。いつの間にか、遠くまで来ている。ゴールが目の前にある。ゴールテープを切る。

そうやって「次」を積み重ねた。

ロードレース当日、少しだけ軽くなったように走れる私がいた。一冬で大きく縮んだタイムは、自信になった。


私がいま、ここで書いていること。これも、走るのと同じだ。

まずは今日書く。今日書いたら明日も書く。次。書く。次。


いつの間にか、遠くへ行ける、のだろうか。

分からないけれど、「次」を積み重ねるとそれはきっと叶うらしい。

走ることは私に、そう教えてくれた。

***

こちらの企画に参加させていただきます。

よろしくお願いいたします!







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?