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月のかけらを拾いあつめて

「お月見って、今年は何日だっけ?」

母とふたり、カレンダーを見上げる。

「うーん、9月の真ん中ぐらいじゃないの?」

毎年日付が変わる節目って分かりにくいよねぇ、と言いながらスマホで「お月見 2020」と検索する。

「今年の十五夜は10月1日です、だって」

母がマジックペンを取り、カレンダーの10月1日の枠の中にもくもくと雲を描く。もちろん、そこからちらりと覗く真ん丸お月さまも忘れずに。

ブリキのペン立てにからん、とペンを戻しながら、母が眉を下げる。

「今までもっときちんと、季節の行事したほうがよかったかな?」

我が家では昔から、それぞれの節句を「おかず一品」で表していた。土用の丑の日は、うな重ではなくておかずに鰻が数切れ。冬至には、ほくほく甘いかぼちゃの煮物。それからお月見には、白玉だんごにきなこをたっぷりかけて。

季節感を気にして一生懸命作ってくれたと私は思うけれど、それが「完璧な」かたちでないことをずっと気にしていたのだ、と母は零す。自分は料理をするときにひとつのメニューに全力を注いでしまうから、栗ご飯があって、けんちん汁があって、おだんごがあって、というような食卓を作ることができなかった、と。

確かにうちの食卓は、品数が決して多くない。餃子の日には餃子が、ハンバーグの日にはハンバーグが盛られたお皿を母が「全力投球しましたー!」と言いながら、ばばーんとテーブルに置く。他はご飯とお味噌汁。それがいつもの、見慣れた食卓だ。

だから全然気に病むことなんてないのに、と私は思う。

確かにたった一品だったけれど、踏み台の上に乗って母とおだんごを丸めたことを覚えている。父と近所を散歩したとき、空き地のすすきを一本、ぷちりともらって帰ったことも覚えている。満月じゃないけど、と言いながら家族で見上げた月の形だって、覚えているのだ。

おだんごが茹るとお湯の中でふわんと浮いてくること。すすきの葉は手が切れやすいから気を付けないといけないこと。月のカーブが「うえ」の「う」の向きのときは上弦の月、「した」の「し」の向きのときは下弦の月だということ。母がお月見をしてくれなければ知らなかったことが、きっとたくさんある。

母は完璧ではなかったと言うけれど、そこにはいつもきらりと光るかけらが落ちていた。そしてその小さな輝きを確かな手掛かりにして、私はいまを生きている。

だから「そんなことないよ」と言う。何度でも言って、私の中にある柔らかな記憶の蓋を開ける。覚えている。そう伝えると、母はにこにこ笑うのだ。

「今までもっときちんと、季節の行事したほうがよかったかな?」

母の下がった眉を思い出すと、胸がきゅ、と痛くなる。

私も一品作るようにしたら、品数が増えて母の理想のお月見が近づくかな、と思う。けれど、結局ふたりで一緒におだんごだけ作ってしまいそうな気もする。

でも、それが我が家の食卓だ。

「全力投球しましたー!」

今年もきっとそう言って、きなこの優しい黄色がお月さまみたいな丸いお皿を、食卓に並べるのだ。

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こちらの企画に参加させていただきます。

はじめまして。どうぞよろしくお願いいたします!

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