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子どもたちに伝えたい「裁判」の話

去年からずっと楽しく参加している読書会で、久しぶりに「法」について話す機会がありました。
何気なく話しながら、私の「法」に対する探究が、大学時代の法学系の一般教養の授業で『13階段』を課題図書に指定されたことからはじまったのを思い出したんです。

『13階段』に出会い、裁判について学ぶことが、留学に行く前に済んでいたらなぁと思うほど、良い探究ができたと思っています。

また留学の話も改めて書きたいなと思っているんですが、端的にいうと、留学生活をする上で一番すべき準備は「日本を知ること」です。
留学者はどこに行っても国の代表扱いされるし、自分も国の代表のように振る舞ってしまうという特徴があるから。
その前提でいくと、留学生活で、日本代表として「死刑制度」について問われることが少なくないと私は思うんです。

今世界で「死刑制度」が残っている国は、事実上廃止されている国などを含めると、圧倒的に少なくて、その中でも先進国、と考えるとほぼない。
例えば、アメリカは制度は残っているものの、州ごとに死刑制度にスタンスは違い、ずっと議論されいて、実際に死刑自体が圧倒的に執行されなくなっているので、私がアメリカに留学している頃、学生たちの議論にもよく上がっていました。もちろん、私の意見もよく聞かれました。
何なら授業中、みんなの前で発表させられそうになったこともあります。
本当に何のベーシックな知識もないときだったので、「まじで勘弁してくれ!」というのが本音。笑

『13階段』に出会ったのも留学後ですから、そりゃあもう何で誰も教えてくれなかったんだ!と思ったもんです。
それからマイケル・サンデルのハーバード白熱教室なんかが流行ったこともあり、正義とか公正とか、倫理ってなんだとか、話す相手のないことを悶々と考えていたわけですね。
私も一端の哲学者だったわけです。

そんなわけで、小さな哲学者たる子どもたちには「裁判とは、悪い人に罰を与えるもの」ではないと知ってほしいと思います。
「罪を憎んで、人を憎まず」というやつです。

読書会のメンバーのお子さんが「なぜ我慢をしなくてはいけないのか?」という話をしていた流れで、「人を殺したら、死ぬべきだ」という「目には目を、歯には歯を」のハンムラビ法典の方式ではなぜダメなのか、と言ったそう。

確かに今の日本の裁判では、人間を一人殺しただけではすぐ死刑になったりしないです。2人だとかなり高確率で、3人だと確実に死刑かな、という感じ。
(そんなこと言ってるから、新幹線殺傷事件みたいなことが起こるんだと思うけど。)
「遺族は報われない」みたいなこともよく言うが、残念ながら「裁判とは、悪い人に罰を与えるもの」ではないし、「遺族に報いるためのもの」でもないんです。

じゃあ何かと言えば、「罪を憎むためのもの」だと思っています。
「結果として生まれた悪い状況」が罪であり、その背景を追求して、その状況を2度と再現しないためのものが裁判なんです。しいて言うなら「状況を罰するためのもの」です。
「自然発生的に生まれた悪い状況」(=天災)については裁判をしませんよね。
と言うことは、罪には必ず引き金となる「人の意図」が存在します。その意図を意識的であれ、無意識的であれ、持ち合わせているのが、裁判における被告です。
だから裁判では被告人の計画性や心情、その後の反省などをいちいち確かめたりします。その状況の生むのにどれくらい被告が関わってるかを見極めて、罰を決めるためです。

メディアではよく裁判で「無念を晴らす」ようなことが言われますが、人の気持ちを平等に晴らすことはできないと人類は歴史の中で嫌というほど学んでいます。
恨みや憎しみは呪いです。終わりのない負のスパイラルです。
どこかで断ち切らないと末代まで祟る羽目になります。

皆さんご存知の「ロミオとジュリエット」で対立するモンタギューとキャピレットがなぜ対立しているか、知っていますか?
そこまで細いことは書かれていないのですが、代々対立していたため、かなり政治的なことだったろうな、と推察するしかありません。しかしそれは、ロミオとジュリエットにとっても同じことです。
身に覚えの無い憎しみを強要されて、死んでしまいました。
そして物語は、両家が和解して終わります。
果たして本当に憎しみはここで終わったでしょうか?
政治的な対立は、子どもたちの死への悲しみという「情」が上回って、和解させることができましたが、新たに生まれた憎しみはここで終われるはずがないんです。
例えばそれぞれの両親、兄弟や片思いの相手なんかが、個人的な憎しみを新たに生み、家を転覆させてやろうとか、同じ死の苦しみを、と思ってもおかしくありません。
負のスパイラルとはそういうものです。

だから人類は人を裁くのではなく、罪を裁くシステムを作り上げた。
それが裁判です。
そう思うと、現代の裁判というのは結構よくできたシステムです。
憎しみを断ち切って分散するには、上手く機能していれば、人類史上最高なシステムです。

まず当事者同士に解決させないというところ。
結局のところ「情」が一番厄介なので、憎しみのやりとりをしている限りは解決しないどころか、周りに伝染してしまい、要らぬ新たな憎しみを生むことになります。
当事者が受けた苦しみと悲しみを測ることは誰にもできないし、当事者もこのくらいの罰を受けてくれれば同等だということは計り知れない。
だったら、その感情に付き合って罰を下すより、純粋に状況だけを判断して、罰を導き出すことは至極、妥当だと思えます。

そして罪を扱い、裁くのを利害関係が一切ない裁判官にさせることで、これ以上憎しみを大きくすることなく分散させているところ。
彼らは税金で雇われてますから、国民の代表な訳です。
裁判の結果は、間接的に国民の総意になります。
細かく分散された憎しみの責任は国民一人一人が背負うことになるわけです。

システムとしては最高でも、最適な運用にはまだまだ課題はあります。
裁判システムはまだ発展途上なわけです。
その問題や課題の一つ一つが「死刑制度」であったり、今の「検察庁法改正案に抗議します」のムーブメントだったりするのだと思っています。

そういう風に法学や裁判を捉えていくと、私たち一国民や小さな哲学者たる子どもたちにも、倫理問題として考えることが様々あるのだと改めて思うわけです。

さて、今回もまた超大作なnoteになってしまったので、わかりづらい部分も多かったことと思います。
また時間ができたら、本当に子どもたちにもわかりやすく編集したいものです。

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