理解のある彼君なんていない。自分で理解しろ。

久々になんでもない文章を書いてみた。

原稿も大いにためている。投稿予定の論文の手直しもあと少しのところで手がつけられていない。週末の自宅取材に向けての片付けもしてないし、見るべき映像が10時間以上分も残っている。

仕事が終わって電車に揺られて家に帰ってきたばかりである。

文章を書く理由は書きたいからだ。「書かなければいけない」をこなしているうちに「書きたい」という気持ちを失うのが怖いのだ。

私は作家だが、圧倒的な才能があって見出されて求められてなった作家ではない。書きたくて書きたくて、最後まで可能性にしがみついた結果なった努力賞みたいな作家である。書きたいもの全部原稿料もらって書ける訳ではないので、自分で勝手に書いていかなければ、いつの間にかなくなってしまうのだ。

28歳という若いと言うこともできるけど、完全に若くはない年になってみて、かつて、年を重ねてよかったと書いていた諸先輩方に続けそうである。身ひとつで生きている今のところ、年取るごとに人生は楽になり、楽しくなっていっている。

健康診断に引っかかる人間とかはボチボチ出始める。趣味の文章を書けないくらいに忙しい理由はキラキラした仕事や未来に続く学問ばかりではなく、普通に再検査だったりする。

昔は一番苦しい時に文章を書いていた。昔の自分の文章を読んでいると、文字ではなく血が滲んでいるようで、苦しそうだなと他人事のように思う。

抱えていた苦しさの何割かが容姿コンプレックスなので幸せになったというと誤解されるのだが、結婚に救われた訳ではない。当然、結婚したことは一点の曇りもなく幸せではあるけれど、結婚くらいで救われるなら、私の人生にはいくらでも救われるチャンスがあったので。重版の方がレアリティ高い。

それはそうとして、恋愛、大手のコンテンツというだけで過大評価されすぎ。1mmも楽しくなかった。突如始まる苦痛なゲーム。生涯愛する人とセット売りしてるように見せるな。エンドロール流れてよかった。1円でブックオフに売ってもいい。

10代20代前半は溺れて流されるようにもがいていて、20代後半でいつの間にか泳げるようになってどこかの岸に辿り着いたという感じがする。

何かを言われて、傷付かないこともだいぶ増えた。嫌なことを言われる回数自体はすごく変わるものではないと思う。多分当分のところ減らないんじゃないかなと思う。80代とかになったら減るんだろうか……。有識者の人、知ってたら教えてください。人生のネタバレ許容派です。

それでは、嫌なことを言われた時にはどう構えればいいのか。


どうしたん?笑

話聞こうか?笑


である。

幸せなのに人に嫌なこと言う人はほとんどいない。だってあまりに意味がないから。苦しい最中に自分の苦しさに向き合うことは重すぎて、苦々しい気持ちを排出するためにどうにかこうにか形にしたのが誰かに投げかける心無い言葉の正体なんじゃないかなと思っている。きっと、昔、嫌なことを言ってきた人たちも同じように溺れていたのだと思う。私が書いてきたものも、言われた言葉も同じうめき声なのだと思う。私は常軌を逸した人見知りという一点で文字媒体の独り言という違う形をとったけれど、本当は同じ海で隣にいたのかもしれない。いつか自分の岸にたどりつけるといいねと心の優しさを司る部分で本気で思っている。

あと20代前半までは赤ちゃんだった頃の価値観がだいぶ抜けきってなかったので、自分の裁量を誤っていて、他者をもっとコントロールできると勘違いしていたように思う。今は他者なのだから、それは嫌なことも言うよなあと思っている。私の容姿を馬鹿にしたのと同じ口で、自分が誰かから眉毛や髭の手入れを勧められたたことに対してセクハラって怒っているのを見て、腑に落ちない気持ちになったって、やっぱり、他者なのだ。人に言ってはいけないことは当然存在する。それを言う人もいる。「言ってはいけないこと」なのだから「言う人がいる」こともなくせるとどこか思っているとしんどい。

自分の快・不快を中心に世界が回らないのを真に骨の髄まで納得できたのも割と最近である。これからもまだたまに分からなくなると思う。そういう時にはまた黄昏泣きみたいな文章を書きたい。


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