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何があろうと、なかろうと

積みあがる、「わからない」の山

大の前に美がつく学校に通っていたせいか、何かしら作っていないと「罪悪感」が湧く。おまけに「虚無」と「後悔」が同時についてくる。

とんだアンハッピーセットであるが、これは話してみると自分だけではないので専門系の学校を出た者あるあるなのかもしれない。

学んだのなら何かを為さねば、みたいな湿ったプレッシャーがある。

何かを作らなきゃとは思うが、今では目を見張る作品がインターネット上に剛速球で流れ、さらにはAIまで参入、いや、AIお前はなんでここにいるんやとモノ申したいけど、そのAIまですげえ作品を作るようになってきた世の中で

ここに何を作れと・・・?

足を竦ませている間に技術は下手なまま時間だけが経っていく。
さらに『これで金を稼ぐ』とか考えると余計に何かを作るのが難しくなる。

岡本太郎のような情熱が全然ほとばしらない。
「オラ、わくわくすっぞ!」と某悟空のようなセリフは出てこない。
というか、悟空があそこまで純粋にワクワクできたのは、超人的な肉体を持っていたから言えたと思う。だって彼は1000年に1人と言われた超サイヤ人なのだし。土台が違う。

じゃあ、正岡子規はどうなんだといわれると、困るけど。

色々不調を抱えているから、情熱の火も薪からシケっているのだろうか。

最近は、何をかきたいのかサッパリわからなくなった。

ドラマのような天啓はやってこない。あれは『勘違い』と『気力』と『根性』が無いと、走りだせない代物だからだ。全部揃っている10代ならともかく、30代半ばの私はほぼ、ない。
おまけに飯も食わない生活を繰り返したせいで、あったとしても全て薄墨で書いたが如く『うっすら』で、老眼で見ればそれは無いと同じだ。

いや、マジで本当に絶望的なほど、かきたいものがわからないのである。

ここで『かきたい』と平仮名で書いているのは『かく』に『描く』と『書く』が意味合いにあるからで、昔から私はこの2つが好きだったが、なんとなくこれしかないような、ベースはこれというような、でも結局は大したことも出来ないままでぼんやりしている、そんな微妙なダサいしがみつき方をまだしているのだ。

が、繰り返すが何がかきたいかわからない。

わからない、わからないと繰り返し言えば何かになるならいいが、積みあがるのは透明な『わからない』の山だけで、何がわからないのか、わかるのかを知るにはいちいち手に取って見なければならない。

それは、こんがらがった糸玉をほぐす作業に近い。

最近は、体力もじわっと回復してきたようなので、かきたいことはわからないけれど、1日5分でも筆を握りPCに向かい、時には日記でも何かをかくようにしている。
かいて、何にひっかかったのかをメモして、ちょっと工夫して、をちょっと繰り返す。

繰り返したらどこかに行けるのだろうか。

わからない。

わからないが、少しは進めたと自信を持てるのかもしれない。


ドローイング(2022/10/02)



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