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私のプロフィール

先週初めてチェロの演奏依頼の話をもらい、引き受ける事にした。

小さな演奏会だけれど、考えてみれば、依頼されて全く知らない人達の前で一人で弾くというのは遊びで弾くのとは違う。

なじみの場所で、私に好意的で寛大な友人ばかりの中で遊ぶのとは全く違うのだ。

ということは、これは仕事も同然。
気軽な気持ちで出来るものでは無い。

それに気づいた時、一度話をストップさせた。
ごく親しいミュージシャンの友人達に、どう思うか聞く。

考えても分からないから、占いで決めてしまおうと、長らく使っていなかったタロットカードを引き出しから取り出し、カードを引いた。

タロットカードは昔、誕生日に友人がくれたものだ。
解説本を読みながらでないと読み解けないけれど、引いたカードは一つのストーリーの様に見えた。


(私なりのカードの読みだけど…
恐れで固めた心のガードを開き、楽しみを思い出して決断すること。
決断することによって動き出し、新しい種をまき、さらに遠くへ行く冒険となること。)

「やろう!」
決めて返事をした瞬間、自分の中で何かが変わった気がした。

今まで私は自分自身に、たくさんの言い訳をしてきたことに気づいた。

楽器を始めた年齢が遅いから。
ピアノも弾けないから。
楽譜読むのも苦手だから。
音楽教育を受けてきていないから。
仕事や家庭で忙しいから。
普通は小さい頃からやってないとマスター出来ない楽器だから。

・・・だから普通は、プロにはなれない。
上手くなるのだって難しい。
アマチュアな事を楽しもう。
そう思ってきた。

でも、「やります!」と答えた瞬間、これからはもう、そういう言い訳が出来ないと思った。
「やる」と答えた時点で、
もうアマチュアでは無いんだと思った。
プロとも言えないかもしれないけれど。

「信頼されて依頼されたという時点でもう仕事だから、どんなレベルでも、周りがとやかく言ってもやるしかないんだよ」

ミュージシャンの友人がそう教えてくれる。

話を進める前に、自分の先生にも相談してみた。
先生からもGOサイン。
「演奏は有料で。その値段分のプログラムを作っておいで」
と言われる。
とにかく、今の自分の精一杯のベストを尽くすのみだ。

***

まず、最初に用意してほしいと言われたのが「プロフィール」だ。
そうか、プロフィール!
ミュージシャン友達の多い私は、人のプロフィール文を考えるのを頼まれた事はあっても、自分のプロフィールを考えた事が無かった。

普通、音楽家のプロフィールで見かけるのは、
「○才よりピアノ、○才よりチェロを始める。○○音楽大学卒業後、
○○へ留学。○○コンクール第一位。
現在、○○などで活躍、後進の指導に当たる。
○○、○○の各氏に師事」

といったところだろうか。

ところが私自身の経歴といえば、音楽より他のことをやっている方が長い。

チェロを始めたのは30代後半。
それまでは長らく音楽に無縁どころか、世の中の音楽にも疎く、聞くのは子供達と一緒にアンパンマンの歌、という調子。

チェロを始めた時は、クラッシックのCDもチェロのCDも、一枚も持っていなかった。

「どれくらいの長さの文章で、どんなプロフィールが要りますか?」
と聞くと、
「どれくらいでも。自分がどんな人か伝われば。SNSで紹介します」
と言われた。

なるほど。

頭の中だけで考え始めると、自分の生い立ちから始まり、膨大すぎてまとまらない。

四六時中考えてしまうので、途中から仕事のある平日は考えるのをあきらめて本職の仕事と練習に専念した。

いや、夜は動画にはまっていた。
今週、どこをクリックしたんだったか・・・ミュージカルのオーディション講座というのをやっていて、それにはまっていたのだ。
ミュージカル・・・
やってた時があるんだよなぁ。

それもプロフィールに入れた方が良いのか、もしかしたら音楽に影響があるかもしれないとか・・・
などと考えながら。

さて、この文章を書こうと思いついたのは、
「文章を読むのを楽しみにしています」
と、今日は思いがけず直接、知人に言われたからだ。

実をいうと最近、あまり文章を書こうという気力が起きなかった。

仕事して家事して練習したらもう深夜。
体力的な事もあるけれど、書いても読む人いるのかなぁ、意味あるのかなぁ、と思ってしまって。

だけど楽しみにしているなんて声をかけられると、嬉しくて調子に乗り、
「一人でも読んでくれる人がいるなら書こう」
と思う。

何を書こうかと考えた時、「頭の中にある駄文を書けば良いのだ」と思いついた。
だから今日のお題は「プロフィール」としてこの文章を書き始めている。

***

私のプロフィール・・・

音楽にまつわる原点を思い出すと、最初はこんなシーンだ。
3つ下の弟がまだ生まれていない時だから、私はたぶん三歳。

父が古賀政男の「影を慕いて」という曲をよくギターで弾いていた。
それを見ていた私は、目と耳で覚えてしまい、ある日
「私も弾ける。ギター貸して」
と言い張った。

「弾けるわけがない」
と父も母も笑ったが、私があんまり言い張るので、とうとう父が貸してくれた。

その時、「弾ける」と信じている私は全く自分を疑うこと無く、「影を慕いて」のイントロを弾いた。
父と母の驚いた顔を、今これを書きながら、おぼろげに覚えている気がする。

歌うのも好きだった。
好きだったけれど、母が「下手だ」と毎度茶化した。
大人になって聞くと、本当は上手だと思っていたらしい。
けれど、三才だった私は言葉通り信じてしまった。
それはけっこう長い間・・・子供時代のほとんどの期間に影響した。

幼稚園に入ると、その幼稚園ではハーモニカが音楽の授業として配られた。
ハーモニカには夢中になった。
ほぼ毎日吹いていたと思う。

それから、家になぜか誰も聴かないクラッシックや映画音楽のレコードがあった。
ある日、祖父母の家から大きなスピーカーをもらってきた。
父がレコードをかけるのを見ていた私は、使い方を覚えた。
そのうち父が自営業を始め、家庭が大変な状況になっても一人レコードをかけて踊っていた。
私にとっては、すごく良い影響だったと思う。

それと、父の実家に住む従兄弟の部屋にはエレクトーンがあり、そのエレクトーンで遊ぶのが大好きだった。

だから母に「ピアノが習いたい」とせがんだ。
父の商売が少し落ち着いてきた小一になる頃の一年間、ピアノを習った。
ずいぶん無理して習わせてくれたのに、初めて習いに行った初日にピアノの先生が嫌いになった。

そのうち、先生だけでなく「ピアノも大嫌い!」と言い、バイエルの途中でやめた。
身体が拒否反応して、本当にもう嫌だと思った。

以来ピアノが怖い、弾けない、そしてピアノが弾けないと音楽も出来ないと思い込み、
コンプレックスになった。

おまけに、大変な内弁慶で、まれに声を出すとからかわれるので、外では全く喋らない子だった。

今なら「場面寡黙症」などと病院で診断名がつくだろう。
喋らないから歌えないと思われて、音楽の成績もそんなに良くなかった。

今思えば、本当は音楽が好きだったにも関わらず、
自分には音楽をする才能は無い、音楽は特別な人がするもの、と思って育った子供時代だった。

代わりに何をしていたかというと、絵をよく描いていた。
絵も文章も学校の先生が書き方を教えてくれた。
全く喋らない私が人とコミュニケーションを取る方法は、絵と文章だったのだ。

それから、8才の頃から習字を始めた。
唯一の習い事だった書道は、先生が亡くなる28才まで続いた。

習字が好きだったのでは無くて、先生が好きだったのだと思う。
たくさんの先生がやってくる教室で、先生達の先生だった。
その書家の先生のお宅で、毎週末を何時間も過ごした。

音楽をどこで習ったかと聞かれると・・・
もしかしたら、その書家の先生から、と答えて良いかもしれない。
先生の文字を書くリズムは、私の身体に染みついている。
「リズムと休符」
と、よく教えてくれていたが、晩年になって先生の奥様から
「社会人のスタートは書家ではなく音楽の先生だった」
と聞いた。
それで納得がいく。
「書は紙の上の音楽」
だと、いつも思っていたのだ。

***
音楽らしい経歴といえば、高校の二年間だけ、吹奏楽部に入り、パーカッションを担当した。
友人と音楽室に行ったらカッコいい先輩がいて、入部を決めた。
パーカッションなのは、それが好きだった訳ではなく、どの楽器を吹いても音が出せなかったからだ。
ちょうど世の中はバンドブーム。
二年生の時だったか、顧問の先生がドラムセットを買ってくれた。

初心者でコンクールにも何も出られなかった私は、皆がコンクール向けの練習をしている間、ドラムでこっそり遊んだ。
時々、ライブハウスに行っては叩き方を見て覚えた。

ある日、先生の縁で「音楽座」という生演奏付きのミュージカル劇団のドラマーさんという方が学校にやってきた。
そのドラマーさんからミュージカルのチケットを買い、衝撃を受けた。

社会人になり、一年間ほど、ミュージカルの団員になった。
仕事帰り、週に5日はダンスレッスンに通い週末は劇の稽古で缶詰の日々。

だけど、私には持病があった。
側湾症という背骨の病気があって、12才から20才まで、コルセット生活だったのだ。
ダンスをしていたのは、コルセットが外れた21才。
夢中になったが、一年経つと自分の身体的な限界が分かるようになり、内心挫折した。

その頃、仕事の方もストレスで毎日の様に微熱を出すようになっていた。
私生活も上手くいっていなかった。
どんなにダンスに夢中になっても、当時別れた彼氏の事が吹っ切れなかった。

とにかく、何もかも捨てて私の事を誰も知らないところでやり直したくなり・・・
22才の時、カナダに渡った。
その頃は何でカナダまで行かなくちゃいけないの?と人に聞かれても、自分でも理由が分からなかったけれど。

8ヶ月暮らして帰国すると、日本は就職氷河期。
仕事は本当に決まらなかった。
一人で生きていく自信が無かったから翌年お見合い結婚した。

これが、結婚までのプロフィール。

もちろん、こんな長いプロフィールを演奏会用のプロフィールにはしないけれど。
もしかしたら、経験してきた事全てが音楽に影響しているかもしれない。

文章が誰かの心に響いて、それが対価になって、それを元手にさらに経験を積んで文章など色々な表現で還元出来たらと思い続けています。 サポートお待ちしております♪