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先生となんこつ|連載「記憶を食む」第11回|僕のマリ

思い出すことのかたわらにはいつも、食べものがあった。
大切な記憶も、ちょっとした記憶も、食むように紡いでいく。気鋭の文筆家・僕のマリによるはじめての食エッセイ連載。
第11回は、高校時代、先生と友達と初めて食べたあの味と、再会のあの日のこと。

 夜、走っている。五月下旬は気候がちょうどよく、植物の瑞々しくて青い匂いも含めて気持ちいい。運動音痴でどんくさいわたしだが、走ることは苦手ではない。球技はセンスがゼロで戦力外だったが、走るのが意外と速いのは、遺伝と高校時代の走り込みが効いたのだと思っている。わたしの母校は普通の公立高校だが、スポーツに力を入れていた体育会系の学校でもあった。運動部の人口が圧倒的に多く、制服よりジャージ姿の生徒の方が目立った。運動に関する行事が多く、体育祭はもちろん、水泳大会や球技大会、冬はマラソン大会もわざわざ校外で開催された。普段の体育の授業が始まる前は、山の中ゆえに勾配の激しい学校の外周を1キロほど走り、腹筋と腕立てと背筋を各二十回ずつやってから授業を開始した。運動部の生徒からすればこんなの朝飯前で、雑談などしながら軽くこなしていたが、文化部で体力のないわたしにはつらい慣習であった。水泳や持久走の授業を休むと、「追泳」「追走」と称して放課後に繰り越して消化しなければならなかった。わたしは真面目ではなかったので、やや適当にこなしたことはあったけれど、それでも三年間もやっていればそれなりに走りが身につくものである。

 じっと机に向かっているのが苦手で、運動も好きではなくて、それでも卒業するまであの高校に通うことができたのは、そんなわたしを気にかけてくれる先生がいたからだと思う。技術の先生だった山川先生は、わたしの所属する軽音楽部の顧問でもあった。そして、顧問でありながら、生徒が組んでいるバンドのサポートドラムもこなしていた。家で練習できるギターやベースに比べて、ドラムは自主練のハードルが高いからか、軽音楽部はずっとドラム不足だった。山川先生はドラムとベースの腕が良く、先生が入るだけでバンドの迫力はぐっと増した。どことなく、甲本ヒロトに似た雰囲気の先生は、ひょうきんで生徒から人気もあった。わたしが高一の文化祭、憧れの先輩が組んでいたJUDY AND MARYのコピーバンドで素晴らしいシャッフルビートを叩いた山川先生に、翌日片付けをしながら称賛の声を送った。すると先生は、「昨日はステージであんなに声援を受けてドラム叩いたのに、その二時間後には家で風呂掃除してたんだよね」と笑った。

 高校三年の時、文化祭の実行委員になった。通例で、軽音楽部の部長は実行委員をやることになっていた。ダンス部の部長である親友のNと、学年の人気者であるYくんと三人でチームを結成する。実行委員長をYくん、副委員長をわたしとNが務め、奔走した。山川先生は長年の教師経験から文化祭についてたくさん助言をくれて、四人で会議をすることも多かった。夏休みも返上で集まり企画を練って準備して、文化祭の前日は日付を超えるまで学校で作業していた。Yくんの部活の顧問の先生が、夕飯に出前でカツ丼を頼んでくれたのがなんとも非日常で楽しかった。寝不足でふらふらになりながらも、文化祭は大成功をおさめ、しばらく興奮冷めやらぬ日々を過ごした。

 そんなわたしたち三人の頑張りを見て、山川先生は「打ち上げをしよう」と声をかけてくれた。先生が夕飯をご馳走してくれるというので、休みの日の夜に四人で集まった。本当はあんまり良くないことだったかもしれないけれど、先生が連れて行ってくれたのは居酒屋だった。もちろんお酒は飲まない約束で、居酒屋なら色々なものが食べられていいんじゃないか、と決まったことだった。子どもだったので当然居酒屋に行くことなんてほとんどなかったから、わたしは心底うれしかった。ジョッキに入ったリンゴジュースやウーロン茶で乾杯しながら、焼き鳥やだし巻き玉子、枝豆などをたくさん注文する。「なんでも好きに頼んでいい」と言われたからってみんなで頼みすぎてしまったが、少し味の濃い食べ物が新鮮で美味しかった。文化祭の思い出はもちろん、学年で誰と誰が付き合っているとか、くだらない話もたくさんした。わたしはその日はじめて、なんこつの唐揚げを頼んだ。当時、家でも外食でもなんこつを食べたことはなく、メニュー表に一言「珍味」と書かれていたので気になって注文した。添えられたレモンを少し絞って食べてみたらこりこりとして、クセもなかったので気に入った。いまでも好きなこの食べ物は、高校三年生で覚えた味だった。

 卒業後、山川先生に会ったのは一度だけ、Y君のお葬式の時だった。数年前の真夏のことで、突然の訃報にもかかわらず三百人ほどが集まっていたのを覚えている。彼が亡くなったことを知ったのも、新宿の居酒屋で飲んでいるときだった。数年ぶりの再会に、「こんなところで会いたくなかったな」と呟く先生の顔と、真夏の昼間の陽射しと、彼が好きだった音楽が爆音で流れているのが、悪い夢のようだった。彼が生きていたとしても四人で居酒屋に行くことなんてなかっただろうし、元気かな、とたまに思い出すくらいだったかもしれない。だけどもう会えない、それだけが確かな事実としてその場にいた全員の前に横たわっていた。先生は「自分が受け持ってた生徒が死ぬのは初めてだ」とも言った。すごく暑い日だった。

 どれだけ体育会系の学校にいても、わたしの頭のなかは音楽や本のことでいっぱいだった。覚えたてのベースでできた血豆や、バンドの練習で流した汗や、授業をサボって訪れた図書室の匂い。はみ出していた自分が楽しかったと思えた場所の、もう会えない人や会わない人のことをただただ思い出す。先生と同級生と、初めての居酒屋と。誰に話すわけでもなかったこの記憶が、歳を重ねる毎にまばゆくなってゆく。体育館で聴いた先生のドラムの音がどんなだったかも、ずっと忘れられないんだろうと思う。ステージでドラムを叩く先生の、居酒屋でジュース片手に笑う先生の、先生じゃない時の表情が素敵だった。そんなことを考えながら、わたしは今日も走っている。

僕のマリ
1992年福岡県生まれ。著書に『常識のない喫茶店』『書きたい生活』(ともに柏書房)『いかれた慕情』(百万年書房)など。自費出版の日記集も作っている。

次回は6月21日頃の更新です。
隔週金曜日に更新予定です。

過去記事は以下のマガジンにまとめています。


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