見出し画像

炙ったホタルイカ|連載「記憶を食む」第14回|僕のマリ

思い出すことのかたわらにはいつも、食べものがあった。
大切な記憶も、ちょっとした記憶も、食むように紡いでいく。気鋭の文筆家・僕のマリによるはじめての食エッセイ連載。
第14回は、ちょっぴり意外なあるエッセイ漫画が、著者の暗闇を照らしてくれた話。

 いわゆる名作と呼ばれる漫画を、あまり読んだことがない。『ドラゴンボール』や『SLAM DUNK』、『HUNTER×HUNTER』など、一度も読んでいないまま大人になった。『ワンピース』はぎりぎり、子どもの頃兄が持っていたから途中まで読んでいたけれど、二十巻くらいまでしか読んでおらず、いま出ているようなキャラクターがほぼわからない。人と雑談していると「何の漫画が好き?」という話になることがあるが、考えてみれば、わたしはそんなに漫画を読んでいないという事実に気づかされたのだ。子どもの頃は漫画が好きでよく読んでいたが、大人になって手元に残している漫画は極めて少ない。自分の本棚を確認すると、『ハチミツとクローバー』『プリンセスメゾン』『動物のお医者さん』は揃っていた。これらは特に好きで何度も読み返している。あとは福満しげゆきさんの漫画や近藤聡乃さんの名作『A子さんの恋人』も大切にしていて、友だちに貸すことが多いせいで使用感はあるものの、一生大事にする漫画だという確信がある。

 いままで自分の本にまつわるイベントで話したり、インタビューを受けたりするなかで、「人生を変えた本」「影響を受けた本」について聞かれることが何度かあった。これだ!という一冊もあるし、そこまで決定的でなくとも、少しずつ自分の血となり肉となった本もたくさんある。思い悩むことがいっぱいでつらかったときに読んだ小説や、自分も何か書いてみようと思うきっかけになったエッセイ、刺激を受けた書き手仲間の本など、紹介しきれていないくらいたくさんの作品がわたしの輪郭を作ってきた。しかし、自分の人生でいちばん落ち込んでいたときに助けてくれたのは、実はある漫画だった。

 会社を辞めたあと、あてもなく旅行していた時期があった。東北や関西、九州など、行ってみたかった場所にひとりで向かい、ぼんやりと考え事をしていた。先のことが何も決まっていないまま辞めてしまったので、将来に対する不安も大きかった。運良く入社できたところを辞めてしまって、資格も何もないし、もうこれからの人生、わたしには楽しいことなんてもう何もないかもしれないと、当時は結構本気で思っていた。いまになってみれば、まだ二十五歳なんだからどうにでもなるよ、と笑えるけれど、当時は切迫していて、どうしたらよいかわからない状態だった。半ば現実逃避で旅行していたが、ふとした瞬間に目の前が真っ暗になる。旅行先の美しい景色を見てもどこか心は翳っていて、どうしたらよいかわからず涙が出る瞬間も多かった。

 そんななか、新幹線で移動するときに暇だからと本屋で買ったのが、清野とおるさんの『その「おこだわり」、俺にもくれよ!』という漫画だった。作者は『東京都北区赤羽』で有名で、その作品は未読であったが、『おこだわり』のほうに先に興味が湧いて買ってみた。何がきっかけで読みたいと思ったか、どうしてそこに行き着いたかは覚えていないけれど、自身が発見した「おこだわり」を持った人たちを紹介するエッセイ漫画で、その異次元の面白さにぐいぐい引き込まれた。

「さけるチーズ」を細かくさいてブラシのようにふわふわにしてから食べる人、メロンを一玉まるごとかじり中の空洞に日本酒を注いで飲む人、自宅の鍵を通勤路の植え込みに隠し、帰り道に鍵があるかどうかを賭けてスリルを味わう人など……とにかくくだらなくて、それでいて人間の愛おしさが濃縮されたようなエピソードばかりであった。わたしは北陸に向かう新幹線の中で涙と笑いをこらえっぱなしで、現地で観光するつもりが、結局はホテルで漫画を読んで過ごした。それなりに笑った漫画はたくさんあったけれど、これほど自分の心に突き刺さる内容は初めてだった。長年エッセイ漫画を描いてきた作者のずば抜けた人間観察力がこの作品を盛り上げており、その精神は後年、わたしのエッセイにも影響を大きく与えた。

『おこだわり』がとんでもなく面白かったので、氏の代表作である『東京都北区赤羽』やグルメ漫画の『ゴハンスキー』もまとめて買って読んだ。赤羽に住んでいる珍妙な人たちの人間模様や、食べ飲みが好きな作者がゴハン愛を語る様子に夢中になって、読みあさった。東京に戻ったあと、実際に初めて赤羽に行って飲み屋を開拓したり、漫画に感化されて紹介されていた「百円ローソンのホタルイカをライターで炙り、食す」ということをやってみたりした。部屋中に漂う夏祭りのようなにおいと、炙って柔らかくなったホタルイカの身。それをつまみながらチューハイを飲んだときふと、「大丈夫なんだな」と思った。漫画も相当笑えたが、自分のいまのこの姿もなかなか滑稽で、「しょうもないことやってるなあ」と思って、憑きものがとれたように心が軽くなったのだった。本でも何でも、感動する作品を読むことで前向きになったり、心機一転したりすることはよくあるけれど、笑える漫画を読むことでまた頑張ろうと思えると知ったのは、自分にとっては大発見であった。その後も清野作品を追い続け、大晦日に開催されたトークイベントにも足を運んだ。実は、夫と初めて会うことになったのも、わたしが『おこだわり』の漫画を貸すという口実だった。この漫画がなかったら……と思うような人生の転機や縁を繋いだ、思い出の作品である。

 部屋の片付けをしていて、この頃忙しくて整理できていなかった自分の本棚を久々に掃除した。本と漫画がぎゅうぎゅうと、八対二くらいの割合で収まっている。ほこりが溜まった小口を一冊ずつ拭き取りながら、初めて読んだときの心の動きをふと思い出す。誰かが生み出した作品に触れるのはまさに仕合わせで、自分にとって大切なものや必要なものを、知らず知らずのうちに引き寄せていることに気づいた。自分のお気に入りを誰かに勧めるとき、純粋な気持ちとは別に処方箋のように届けることもある。そういう引き出しをたくさん蓄えて、自分も周りも大丈夫にしていけたら良いと願っている。

次回は8月2日頃の更新です。
次回、連載最終回です。

過去記事は以下のマガジンにまとめています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?