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自治体のコワーキングが無料であることの功罪について:今日のアウトテイク#252(2024-07-27)

<アウトテイク>
・SNSに投稿するのではなく、これを自分SNSとした投稿
・記事として仕上げる前の思索の断片、または下書き
・一部、筆が乗ってきて文字数多いのもあり〼
・たまに過去に書いたネタを展開する場合も
・コワーキング関連のネタが多め
・要するに「伊藤の現在地点」
・いずれKindle本にまとめる予定


#今日のBGM

#今日のコトバ

"ぼくにできることはぼくであることだけだ。
たとえそれがどんな人であろうとも。"
(ボブ・ディラン)
"All I can do is be me, whoever that is."
(Bob Dylan)

#自治体のコワーキングが無料であることの功罪について

ちょっと昨日書いたコミュニケーション・ロスのことを続けたい。

なんでそういう「コミュニケーションとかコミュニティとか要らない」という人が来るのかなぁ、とツラツラ考えた。(先に書いとくが結論らしいものはない)

実は、昨日は書き漏らしたけれども、このコワーキングは自治体の施設なので利用料金が無料だ。

「なので」とつい書いてしまったが、そもそもこの「無料」が元凶ではないか。「行政がやってるので無料で当たり前」というマインドセットが、施設側にも、また利用者側にも災いとなっている気がする。

以下、特にこのコワーキングということではなく、自治体の運営する無料コワーキングについて思いつくまま書いてみる。

無料というのは、 誰でも無料ということだから(当たり前だが)、言い換えると「利用者を選んでいない」ということじゃないだろうか。

行政が利用者を選ぶなんてとんでもない、どなたでもどうぞどうぞ、税金で整備した施設ですから皆さんは無料で利用できる権利があります、というロジックが働いているのは聞かなくても判る。

しかし、コワーキングは大なり小なり特徴や個性があって、それに共感する利用者が集まって共用する。それは、いつもの「コワーキング曼荼羅」に示されるいくつかのテーマである程度カテゴライズされ、かつ、これらが相互に絡まり合ってそのコワーキング独自のカルチャーが醸成される。

何それ?という方はこちらを。

つまり、コワーキングが、「そこに集まる利用者によってなんらかの個性を纏う」ことで、意図するかしないかは別として、結果的に利用者を選んでいる。つまり、ブランディング。(これ、非常に大事なことなので、別稿であらためて書くとする)

そうしてそこで同じような世界観、価値観を持つ者同士がつながり、コミュニケーションが起こり、コミュニティとして組成されていく。その過程で、そこに参加する者のそれぞれのカツドウ(仕事にしろ何にしろ)をサポートしていく。それが、コワーキングたる大大前提だ。

ハコだけ作っても、人がつながらなければコミュニティなんか起こるはずがない。誰でもどうぞ、というと、さもオープンで開かれた環境と思いがち(思わされがち)だが、実際はつながるための取っ掛かり、きっかけ、つまり共通項がないまま、孤ワーキング(孤独のコワーキング)で終わるのがオチだ。

ただの作業場でいいのならそれでも構わない。ぼくなんかがとやかく言う筋合いではない(そうだそうだ)。しかし、仮にもコワーキングと標榜するなら、この肝心なところが抜け落ちていてはいけないと思う。

コワーキングはひとつとして同じものはない。たとえ既存のコワーキングの設備をお手本にしても(それはいい)、そこでカツドウする利用者が違う人格である限り、違うコミュニティとして存在する。

ここを行政は判っていないのではないか。だいたい、デスクと椅子、電源とWi-Fi、要は設備さえ整えればコワーキングなんかどこでも同じだろ、と考えているフシがある。というか、そもそも、コミュニティとも思っていない気配がある。

でもそうではない。

万人共通を前提にすること自体に無理がある。なのに、行政はそこに執拗にこだわる。そんな必要はない。万人にと言うのなら、バリエーションを増やせばいいだけだ。そのために有効活用されていない公民館や空き家や空き店舗を使えば一石二鳥だ。

ということは、つまり、無料にすること自体が、コミュニケーションを否定してしまっている、ということではないかしらね。

もうひとつ。

一方で無料であることが、もしや利用者にプレッシャーになっているのではないか。

「無料」ということが、誤解を恐れず言えば、利用者の心の何処かで引け目を感じさせているのではないか。もっと言うと、その人の自尊心を傷つけてしまっているのではないか。その心理的なストレスが、コミュニケーションという行為を遠ざけているのではないか。という疑念。

もちろん、日々の生活、仕事の中で、人との関わりに煩わしさを感じて、できるだけそういうことを排除したいという人もいるだろう。また、「無料」であることが最大の経済的メリットと考える人がいてもなんら不思議ではない。

しかし、ほんの数秒の立ち話も拒否するような人であっても、本来はそうではなかったはずだと、ぼくには思えるのだが。

コミュニケーションは余計というより、無料なのだからハナから期待していない。だから、話しかけられることの心の準備ができていない、それで狼狽える、それが真相ではないか。

今思ったが、それは、曼荼羅のメンタルヘルスケア(健康)にも絡んでくるのかもしれないな。

いずれにしても、やっぱり「無料」であることがマズイと思う。

もしコワーキングを整備することで市民生活に利するサービスを提供するのが自治体の目的ならば(そのはずだが)、ただハコを設えるのではなくて、市民それぞれの目的達成のための人的ネットワークをサポートすることにフォーカスすべきだ。

そのつながりを作るためにも、「無料」でないことが前提になる。

無料は民業圧迫だという非難の声もあるが、本来、コワーキングが提供すべきことが自治体運営であるにも関わらずできていない、むしろそのことのほうが重大だと思う。

ちなみに、昨日、話題になったコワーキングは対象とする利用者のセグメントが明確にできていて、共通項がしっかりとある。それだけに、コミュニティとして成り立つはずなのに、という想いがあって悩ましい。

と、ここまでとりとめなく書いてきたが、いろんな想念が湧いてきてうまくまとまりそうにないのでいったん終わるとする。このテーマはまた折を見て書くことにします。

ということで、今日はこのへんで。

(カバー画像:Annie Spratt

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