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脳を肉体化させて作品を生み出す人:今日のアウトテイク#218(2024-06-23)

<アウトテイク>
・SNSに投稿する前の推敲(もしくは配慮)なしのメモ、殴り書き
・ブログ記事として仕上げる前の思索の断片、または下書き
・一部、筆が乗ってきて文字数多いのもあり〼
・たまに過去に書いたネタを展開する場合も
・コワーキング関連のネタが多め
・要するに「伊藤の現在地点」

※日曜日はこんな感じで。


#今日のBGM

#今日のコトバ

"誰もがコミュニティに提供できる何かを持っている。誰もが。
まだ見つけていないなら、探し続けよう。きっとある。"
(Cat Johnson / June 30『The Daily Co :366 days of coworking & community』)

#cosacの説明会ビデオを公開しました

コワーキングのイベント情報の共有と収益の再分配を実現するアプリ「cosac」の趣旨説明と、簡単な操作方法の解説ビデオをYouTubeに公開しました。途中、右往左往しながら56分22秒ありますが、ぜひご覧ください。

で、ただいま、ベータ版テストに参加いただけるコワーキングスペースさんを募集しております。

#cosacベータ版リリース 、テスト参加いただくコワーキングスペース募集中!

全国のコワーキングをネットワーク化し、イベント情報の共有と収益の分配を実現するアプリ「cosac」のベータ版では、テストに参加される「コワーキングスペース」を募集しております。ベータ版テスト用アカウントは無料です。

参加ご希望のコワーキングスペースの方は、ぜひ、下記のページからお申し込みください。どうぞよろしくお願いします。

#神戸を愛する。

『あまから手帖』7月号の特集は「神戸を愛する」。神戸の古いものと新しいものがごっちゃになってるところを余す所なく見せてくれる。

高級なお店も下町のお店も満遍なく。でもどっちも奥が深い。それが神戸。

先日紹介した『神戸、書いてどうなるのか』の著者、ロック漫筆家の安田謙一氏の「素面では歩きたくない高架下の酔い面」がまた読ませる。そして神戸。

久しぶりに(ここには出てこないが)春日野道の「ひかりや」に行きたくなった。

神戸が元祖の「平壌冷麺」「そばめし」「まめ多゛」、うちの近所の隠れ家スイーツも出てきた。取材力がすごい。

それに、どの記事も文章がめちゃくちゃ上手い。当たり前ですが、これぞプロの仕事。読んでるとだんだん背筋が伸びる。ぼくにとっては関西系月刊誌の双璧をなす『Meets Regional』のノリの良さとはまた違ったキップの良さを感じる。今月も勉強させていただきました。

と思ってたら、新開地の立ち飲み屋さんのページで仕事仲間のまこっちゃんを発見。近々、あのあたりを一緒にハシゴ、いや、調査することになった。

#「横尾忠則 寒山百得」展

今日はホントはこれを観に行くつもりだった。

あれ、OGP出ないですね。これね。

昨年の9月〜 12月に東京国立博物館で開催された「横尾忠則 寒山百得」展の巡回だが、それを「横尾忠則現代美術館」でやるというので、そら行っとかな、と。が、あいにくの雨なので晴れてる日に行くことにした(子供か)。

ところで、なんで神戸に「横尾忠則現代美術館」があるのかというと、横尾さん、若かりし頃、神戸新聞社に勤務してて、この美術館のすぐ北の坂の上、青谷にアパートを借りて住んでおられたとかで。

先の章の『あまから手帖』にその頃のことを書いておられて、それが21歳の結婚当初のことらしい。ということは1957〜8年頃の話。(1936年生まれで、御年87歳。お元気!)

このコラムがまた肩に力が入ってなくていい。それも神戸。

ちなみに、青谷って神戸でない人は知らないだろうけど(そらそうか)、ぼくが通ってた葺合高校のちょっと上、神戸海星女子学院大学や松蔭高校のあるあたり。そのどのへんに住んでおられたのかなぁ。

この地図の葺合高校の下のほう、王子動物園の下に「横尾忠則現代美術館」ってあります。

まあ、それもあって、勝手に親近感を感じてるのだが、実は横尾さんの故郷、西脇には2019年の「コワーキングツアー Vol.16 〜兵庫五国連邦、その山側を往く編〜」でおじゃましている。

その際、例の「Y字路」もたくさん見てきた。ここに写真がある。

とか言ってたら、こんな記事が。

#脳を肉体化させて作品を生み出す人

もう、これぞ横尾忠則。

僕にとっては別に本は読まなくてもいいのです。大事なのは買うことです。読書ではなく買書です。買うことによって、その本の魂のようなものを吸い取れば、それは読んだことになります。

積ん読に抵抗のないぼくが激しく頷いたのは言うまでもない。が、それより、ここにビビビと来る。

読書から学ぶことは一種の観念的な行為です。頭の中で固定的に考えたものですが、模写から学ぶのは言語的体験ではなく、視覚的体験なので、言語的体験のような観念の世界とは全く別で現実的、実践的、即物的な肉眼の世界における具体的な物に即しての考えだから、実在論的といってもいいように思います。
観念というのは具体的な物事について観察などしないで自分の頭の中でそうだと決め込むので、現実に立脚しない、頭の中で組み立てた考えです。

ああ、言われてみれば。というか、ものすごい言語的表現が的確じゃないですか。
それとここ。

コンセプチュアルアートは観念思考が先行しますが、僕は観念の反対ですから頭の中を観念と言語で埋めることの反対、つまり頭から観念と言語を極力廃除して何も考えられない状態の空っぽにすることで脳を肉体化させて、肉体先行の作品を作るアーティストということになります。ある意味で最先端の美術ムーブメントからドロップアウトしたアーティストといえます。

本能のまま、いや、肉体化した脳が感じたまま絵を描いてる、というのが作品から伝わってくるのは確か。「現実的、実践的、即物的な肉眼の世界における具体的な物に即しての考え」に基づく作品のパワーたるや、ちょっと別格。どこかバランスが崩れているのだけど、それを補って余りある、迸る力を感じる。

で、問題はここだ。

人間の人格は10代でほぼ確定するといいます。

ああ、そうかも。

ぼくの10歳の頃は漫画家になりたくて毎日描きたくってた。小学6年のとき、今で言うところのZine(ジン)を作ってクラスに回してた。

中学になって音楽に目覚めてギターを始める。いわゆるフォークの時代。それは高校〜大学卒業まで続いて、楽器メーカーに就職してからもバンド活動していた。確かに10代の頃のあれやこれやが人格形成に影響している(気がする)。

本が好きなのは、漫画の延長線上だったのだろうか。逆に漫画はもうほとんど読まない。音楽にはまだ未練があって、そのうち再開しようと思ってる。そのうちって、いつか知らんけど。

まるで他人ごとのように、「こんなのが描けてしまいました」としか言いようがないのです。

カッコいいね。ドロップアウトしようがどうしようが、この人しか描けないもの、つまりこの人にしか生み出せない価値を世に送り出す。カッコいい。

横尾さんは、その半生を綴ったこれもオモシロイ。タイトルもズバリ『言葉を離れる』。

これを読んでてスゴイなぁと思うのは、時折、全然、改行のない文章が何ページも続いたりするのだけれど(それも肉体的だけど)、全然、迷子になったりつっかえたりせず、実に読みやすい。実は相当な書き手だと思うのだが。

いつかぼくも肉体化した脳を振り絞って「こんなん書けました〜」と言ってみたい、というか、言おう。

と、自分のオシリを叩いておいて、今日のところはこのへんで。

(カバー画像:横尾忠則現代美術館)


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