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今日のアウトテイク#3「書くということ 他」【メンバーシップ特典】(2023-11-21)

<アウトテイク>
FacebookやTwitterに投稿する前に、いや、やっぱりやめておこう、と思ったり、ブログ記事として仕上げる前にメモったりした、思索の断片。

#1

コワーキングマネージャーはコンサルタントであることが望ましい。
ひとつは、もちろんコワーカー(利用者)に対して。
彼らのビジネスをいろんなフェーズでサポートする。

そしてもうひとつは、オーナー(経営者)に対して。
いかにして利用者を集め継続利用していただくかを、現場の最前線にいる者として企画して提案する。

マネージャーでありコンサルタント。
その意識を持てれば、プロのコワーキングマネージャーになれる。

#2

このグラフは判りやすい。で、そう考えると、この当時に打つべき政策を打ってなかった政権の責任は重いなぁ。あとのことなんか考えてなかったのかな、というか、考えてなかったのだろうな。

#3

阿部昭『散文の基本』の冒頭「書くということ」に、こういう一節がある。

「なんらかの方法で自分を表現したい」というのと「文章で書きたいことを書く」というのとは、見かけはともかく、内容にはずいぶんへだたりがある。それどころか、この二つの事柄はまったく似て非なるものだ。両者の結果だけを見ても、文章を書きたい人間ははたからいわれなくてもいずれ黙って書き出すのに、自分を表現したいなどと曖昧なことをいってる連中はいつまで経っても一行も書きはしないからである。

そして、自らもかつてはそういう曖昧な時期があったことを認めつつ、

私が結局、小説家というものになったのは、文章を書くことが「なんらかの形で自分を表現する」などということとはまるで別なことであると、遅まきながら痛感するにいたったからであり、もともと好きにちがいなかった文章を書く習性だけはいつまでもずるずると、またほそぼそとやしなっていた結果であるに過ぎないような気がする。

とした上で、問題はだから、「自分を表現する」ためにどうすればいいのかということになるだろう、しかし、それは現にこうして書いている自分にもわからない、と続けてこう書いている。

「自分を表現する」ということは、ふつう、なんとなく「自分」という薄暗がりのような漠々とした部分がどこかにあって、それをレントゲン写真か何かのようにそのまま透視してみせることのように思われている。だが、これも、実はまったく逆のことで、私どもは自分が形をあたえてやるもの、一本の木とか一人の女とかいった自分以外のものに自分の言葉を託すことによってしか「自分」というものを表せないのである。それが、書くということの意味なのだと思う。
したがって、その考えで行けば、私どもは何について書いても、自分を書いたことになるし、むしろ、どこまで行っても自分以外のものは書けるはずがないとさえいえる。一本の木、一人の女についてどんなふうに書こうと、それが自分の文体でとらえられたものであるかぎり、その木、その女のすみずみまでが私だ。

溜まっている原稿ネタを横目に、どんな文体(あるいは形式)がこれから書こうとしているものに相応しいか、悶々と思いあぐねたまま、手を付けられずに徒に時間を過ごしていたが、これを読んでサーっと霧が晴れた。つまり、書きたいように書けば、それが自分の文体を形づくる。そんな当たり前のことを忘れていた。

もともと書くのが好きでブログをはじめて、一時は2年間、毎日、700本以上書いていたが、原稿料をいただいて書くようになってから、他にないものをと肩に力が入るようになり(ギャラをいただく限りは誰しもそう考えるだろう)、量も質も、そして文体も意識するようになり、長文化し、それをなんとかかんとか推敲、調整して世に送り出すことが多くなった。正直、一本書くのにへとへとになる。

要するに気負いだ。

文体は作ろうとして作らない。 自分流で書いてるうちにできる。 好きなように書けばいい。 賢ぶらず、偉ぶらず、カッコつけず、自然体で、 筆が進むままに書く。まずは流れを止めずに書いてしまう。 あとで整える。それも最少の範囲内で。  あくまで自分流がベスト。そもそも、それがために注文が入るようになったことを、すっかり失念していた。

そして、阿部氏のように「ずるずると、またほそぼそと」書き続ける、ということ。これだ。

この本はものを書く人に多くのことを教えてくれる。全文、写経したいくらいだ。

#4

昨日から、この話題で持ちきりだが、単なるお家騒動でないのは、彼らが開発しているAIというプロダクトが、将来的にこの社会にとてつもない変化をもたらすから。

だけど、ぼくもまさか、ここでMSが登場してきてかたを付けるとは(まだついていないみたいだけど)想像していなかった。この記事にもあるように、プロダクト開発(特にAIのそれ)という意味ではMSの時代ってとうに終わってる感があったのだけど、ビジネス・アライアンスの面ではしっかり石を打ってきてたわけで、そりゃそうか、と。

Satya NadellaがSam Altman、Greg BrockmanをMSに最終的に引き入れるかどうか、この数日で決するのだろうけど、この記事を読んでつくづく思ったのは、世の中を変えるのは「何を」ではなくて「誰と」と問うた時に起動する、ということ。

Sam Altmanひとりの謀反かと思ったけれど、彼は彼なりの思想があり、そこに群れ集う者がいて、あるいはそこに手を差し伸べる者が現れる。もちろん、ビジネスが前提だろうけれども、ひとりの人間の意図することに賛意を表明する者がいるから、コトが勃発する、動き出す。

このメカニズムは、こんなに大きな話でなくとも、日頃、コワーキングでも起こり得ることで、そういうつながりを作っておくことが大切だと思う。簡単に言えば、コラボだ。

そのためには、自分は何者であり、何をどう考えているか、を表明しておく必要がある。いわゆるパブリック・ナラティブ。その表明を他人ゴトではなく自分ゴトにする人もまた、そこにいる可能性があるからだけど。

かつ、それを目ざとく感知しておくのもコワーキングマネージャーの役割のひとつ。

#5

12月は長崎の福江島にコワーキングツアーに行くのだけれど、このところ人気らしく、ネットで検索しても宿がなかなか取れない。

で、思い立って、とあるホテルに直接電話してみたら、

「満室近くになってきたらネットには出さないようにしてるんですよ。えーと、12月5日からですね、ちょっと待ってください…あ、ご用意できます」

な〜んや。ま、よかった。

ちなみぼくは、コワーキングツアーなんかで知らない土地に行く際、Googleマップを開いて町全体(今回は島全体)を俯瞰して、どこに何があるかをざっと見て、いろいろ想像を巡らせる。

次に気になったところにストリートビューのカメラを置いて、バーチャルで通りを歩いてみる。その想像の裏付けを取るように検索して情報を集め、アポ取りのメッセージもしくはメールを送り、返事がないところへは電話する、というパターンで行程を組む。(実は電話のほうが話が早いことが多い)

この行程を考えている時間が、めんどくさいけれども、結構楽しい。この日は、何にも予定入れないで「余白」にしよう、とか。

あ、そうそう、「離島コワーケーション」はシリーズ化しそうです。

ということで、今日は引用が長かったので、このへんで。

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