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【短編】Misfit13

 今では考えられないことであるけれど、その昔、二十五年程前、私は上場会社の正社員であった。そして、適応できなくて数年で辞めてしまった。学校に適応できず、会社に適応できず、そもそも社会に適応できず……。

 しかし小さくない会社だから、適応、不適応ということではなく、奇妙な個性の持ち主なら少なからずいた。私はどうもそういうエキセントリックな人に惹かれるし、そういう人を引き寄せる質であったらしい。格好よく言うと、はみ出し者同士ということなるか。いや、全然格好よくないか。

 たとえば、田畑課長はヘビースモーカーで、そもそも所属する部署からして違っていたのに、やはりヘビースモーカーであった私とは、喫煙所と化したトイレで一日に何度も顔を合わせたものだった。まだ四十そこそこで、中年太りや毛髪の減少に縁がなく、一見爽やかなスポーツマン風であるのに、大のフーゾク好きで、昼間からそんな体験談ばかりして煙たがられていた。
「かんやん君、女はね、顔じゃないよ」
「テクニックですか?」
「違う、そうじゃない。ここだよ、ここ」と自分の胸をぽんぽん叩く。
「胸ですか?」
「馬鹿だなあ、君は。こ・こ・ろ、心だよ」
 馬鹿はあんただろ、とは返さない。変わった人だなあ、とある意味感心している自分がいた。田畑さんは、課長会議にも出席していなかった。そのことを本人も、他の課長たちも、誰も気に留めていなかったのが、分かるような、分からぬような。そもそもなんで課長? 今思えば、有力なコネクションでもあったのだろうが、世間知らずだから、そんなことにすら気づかなかったのである。

 同じ課の先輩倉持さんも、ヘビースモーカーだった。同期が部長や取締役になっても、倉持さんだけは万年平社員なのだから、なんだか扱い辛いポジションにいた。休日出勤には、なぜか迷彩服を着てくるような人だった。

 倉持さんは、日本人なら誰でも一度は、その名を聞いたことがある殺し屋を主人公にした漫画の大ファンで、かなり影響を受けているようだった。いきなり「俺の後ろに立つな」とか、誰も握手を求めていないのに、「武器を持つ右手は人に預けない」などと呟いたりするから、驚かされた。

 同期の部長や取締役の頭髪が白いのに、倉持さんは漆黒の髪を角刈りにしていた。もちろん、架空の日系らしい超一流のスナイパーの影響である。小柄だが引き締まった体、浅黒い顔、太く男らしい眉……だけど倉持さんは、無口なスナイパーと違ってそれはもう大変なお喋りだった。

 トイレで喫煙していると、決まって「かんやん、よお」と話しかけてくる。
「全部で何巻か知ってるか?」殺し屋漫画のことを訊いてくるのだ。
「いや、全く知りません」
 当時で単行本が百巻は超えていたということだった。
「俺はね、一巻につき、読む用、貸す用、保存用と三冊ずつ揃えているんだぜ」
「すごいっすね」単純に計算すると三百冊ということになる。
「読むか?」
 これってひょっとして名誉なことなのかもと思ったけれど、興味が持てないので、「けっこうです」とにべもなく断った。が、そんなことで諦める倉持さんではない。
「コードネームの由来を知ってるか?」「13が不吉な数だから?」
「そうだ、イエス・キリストが13日にゴルゴタの丘で処刑されたことに因んでいるんだ」
 半分正解だったけど、なぜにキリスト? というか、なぜにゴルゴタ?
「今まで幾ら稼いだか知ってるか?」
「いや、想像すらできません」
「いいから言ってみな、想像でいいから言ってみな」
「ちょっと待ってください。倉持さんは、つまり計算したということですか?」
「つまり計算したということだ」
「百巻以上あるのに?」
「国家予算とか軽く超えてるぜ。日本じゃない、アメリカのな」
「この方(架空の殺し屋)は、ぼくが生まれる前から活躍してますよね。もう相当お歳を召されているのではないですか?」
「かんやん、よお。現実とフィクションを一緒くたにしちゃいけねえぜ」
 あんたもな、とは返さなかった。

 昼休みでもなければ、休憩時間でもなく、勤務時間中にトイレで並んで煙草を吸いながら、こんな会話を延々と続けていたのである。「あの人とは関わらない方がよい」とご親切にも忠告してくれる輩がいたものだ。「君、ちょっと吸い過ぎじゃないかね」と課長に小言も言われた。とにかく、倉持さんは明らかに例の漫画を通して世界を見ていたし、国際情勢、歴史から武器の取り扱いやサバイバル術まで、いやそれだけではない、もっと根本的な男の生き方や哲学を学んでいたのであった。

 そうして、なぜかそれを伝授しようとする相手が私だったのである。
「かんやん、よお。素手で相手の息の根を一瞬のうちに止める方法を知ってるか?」
「いや、知りません。知らない方がいいと思います。知ればその技、使っちゃいそうですから」
「いいか、こうやって……」と倉持さんは人の話も聞かずに、妙な型を披露する。ウィークデイの午前中、会社のトイレで。

 ある日、そんなウィークデイの午前中に、上の階から取締役が血相変えて駆け下りてきてキョロキョロしている。
「倉持君、倉持君はいないか? やはりいないか」
 どうでもいいことだが、平野取締役は、役付きではない単なる取締役だから「平の取締役」だったわけで、何となく平野取締役と呼び辛いと誰もが感じていたに違いないが、それを口に出して言う者はいなかった。この人は倉持さんと同期であった。
「どうしました? 倉持さんは今日はまだ出社してませんが」課長が訊いた。
「遅刻か休みの連絡は?」
 課長が首を振って応える。
「そうか、内密にして欲しいのだが、たった今、警察から電話があって、倉持君が痴漢で捕まったと……」
 内密も何も、しんと静まり返った中で興奮して大声を出すから、隅から隅までその情報は浸透したと言ってよい。フロア中がどよめいた。ああ、会社のはみ出し者、鼻つまみ者がとうとう逮捕か、それも痴漢行為で! 私は黙って席を立って、トイレで煙草を一本ゆっくり喫んでから戻った。

 ところである、今度は常務取締役が降りてきた。「平野さん、聞き違いだって、倉持君が痴漢で逮捕されたんじゃない、逆だよ、痴漢を逮捕したんだ。私人逮捕だよ」

 倉持さんが遅れて出社したとき、誰からともなくどこからともなく拍手が湧き起こり、しだいに広がってゆき、指笛もあちこちで鳴った。倉持さんの笑顔を見たのは、このときが初めてだったのではないか、浅黒い肌に少しばかり赤みが差しているようだった。頭をかきながら、何度かお辞儀する。

「やりましたね」と、トイレで私は鼻息荒く話しかけた、見よう見まねの型を披露しながら。「一瞬で相手の息の根を止めたのですか?」
「馬鹿野郎、だったら、相手は既にこの世にいないよ。俺は逮捕されてるだろうぜ」
「しかし、痴漢を私人逮捕とはなあ!」
「かんやん、よお。いつ何時、何があるのかわからない世の中だ、体は鍛えておいた方がいいぜ。いいか、富士山は噴火する、直下型地震はくる、テロだって又あってもおかしくない、ミサイル攻撃だってあり得ない話じゃないんだ」
「痴漢から話がずいぶん大きくなりましたね」
「サバイブするんだ。おい、何を笑ってる? 俺は真面目に言ってるんだぞ!」

 会社を辞めるときも、挨拶に行ったら、「体を鍛えておくんだぞ」と言われた。
 私が右手を差し出すと、向こうもつられてうっかりポケットから右手を出したのだから、思わず吹き出してしまった。
 しまったと慌てて差し出しそうになった手を引っ込めながら、「俺は武器を持つ……」
「はいはい、右手は人に預けないのでしたよね」

(了)

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