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【エッセイ】心配事のほとんどは起こらなかったのか?

 ふと、たしかマーク・トウェインに「心配事のほとんどは起こらなかった」というような言葉があったはずだが、と検索してみると、『心配事の9割は起こらない』という本がヒットした。もちろん、作者はマーク・トウェインではない。

 その本の著者は禅僧にして大学教授、庭園デザイナーという方で、『減らす、手放す、忘れる「禅の教え」』という副題から、ジャンル的には自己啓発本に入るかと思われる。売る方は「減らす、手放す」など言いながら、お金を増やすつもりであるし、買う方も本が一冊増えるわけだから、「減らす、手放す」とは当然矛盾することになるわけで、自分としては購入するつもりはない。読むつもりもない。読んだとしても、著者の勧めるとおりすぐに忘れてしまうだろうから。

 読むつもりはないけれど、内容紹介を読むと、「◎悩むより動く◎人と比べない◎前向きに受け取る◎『お先にどうぞ』……」などとある。おや、と思って今度はレビュー(ムカつくことに505件もの評価がある)を読むと、絶賛の嵐の中に「タイトルと中身がかけ離れている」「カバーと中身が違っていた」という意見もある。どうやら悪く言えばタイトル詐欺、良く言えばフワッとしたタイトルということらしい。

 考えてみると、「心配事の何割が起こり、あと何割が起こらない」というのは、一見統計的な側面がある。しかし、老人ホームに行って、高齢者にアンケートを取ってみても無駄である。なぜなら、心配事のほとんどが起こった人々は高齢になるまで生きながらえなかった可能性があるから。それに、たとえば、自分の死を常に心配している人は、生きている限り心配事は起こっていないわけであるから、「私の最大の心配事は起こっていない」と言えるけれど、「起こらない」とは決して言えないわけだ。むしろ、10割の確率でそれは起こる。

 自己啓発本のことはさておき、「マーク・トウェイン 名言」で検索し直してみる。すると「これまで悩んだことのうち、98%は取り越し苦労だった」とある。出典も前後の文脈もわからないけれど、素直に読めばこれは晩年に至り、人生を回顧したときの言葉であろう。浪費や投機により一度破産してしまいアレコレ悩んだが、振り返ってみるとわりと上手く行ったということではないのか。個人的な感慨であって、法則ではないし、ましてや統計は関係ない。

 さて、自分の人生を振り返ってみると、受験に失敗し、更には留年し、ある会社では人間関係で退職せざるを得ず、別の会社ではリーマンショック下にあってリストラされた。もちろん、これらは自分の努力不足、能力不足が原因であるが、心配事であったことには間違いない。それにその次の会社が半導体不足により赤字に転落したのは、いくらなんでも私一人のせいではない。心配していた大地震はやっぱり起こり、不安で仕方なった原発事故があり、恐れていたパンデミックが発生した。行きつけの呑み屋は潰れ、マスターの脳は壊れ、適応障がいの友だちは自ら命を絶った。想像だにしていなかった不幸な出来事が次々出来したのではない。それらは全部心配事であった。

 心配事の多くはすでに、取り返しがつかない形で、決定的に情け容赦なく起こってしまったのである。それでも9割にはまだ達しない。しかし、私は自分の起こっていない方の心配事をここに記すのはやめておこう。心配性にとっては、どうせ生きている限り悩みの種は尽きないし、不安が拭い去られることもないのである。だからこそ、『心配事の9割は起こらない』などと無責任に言われると、ちょっとムッとする。それがたとえ、タイトル詐欺であったとしてもね。

(了)

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