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【短編】ジャズと現象学 中編

 それ以来、ジャズバーにたまに顔を出すようになると、他に客がほとんどいないこともあって、オーウェンさんを一人占めにすることができ、彼の人となりや来歴を知ることができたのである。他人にあまり興味がない私がマスターに関心を持ったのは、私の周囲に、たとえばセリーヌだとかヘルマン・ブロッホだとかを読んだという者が一人もいないどころか、そもそも読書家(もちろん、国民的な人気を誇ったレイプ未遂犯を主役としたギャグマンガの読書は除いておく)が一人もいなかったからであろう。次から次へと尽きることなく流れてくるジャズも聞かずに(「すいません、ボリューム下げてもらっていいですか?」)、マスターの話に耳を傾けた、というよりおしゃべりに興じたのである。

「俺は元々公務員だったんだよ」
「勿体ない。定年まで待っても店は開けたでしょうに」
「それが何もかも嫌になっちゃってねえ。福祉事務所にいたんだけど」
「あー、生活保護! ニュースになってましたね。『保護、なめんなよ』Tシャツ」
「ジャンパーな」
「夏はどうするんですか?」
「いや、うちは関係ないし」
「なんでしたっけ、ほら、生活保護を受けてる元暴力団員が人を殺して、その遺体を遺棄するのを手伝わされたケースワーカーがいたけど、あれは福祉事務所で正にその殺人犯の担当だった人でしょう。逆に保護の申請にきたやっぱり元暴力団員だったかな、拒まれるとしつこく嫌がらせをしてきて、そいつを刺したケースワーカーもいた。ちょっとこういうのは、現場にいる人間ではないと理解不能かな、と思っていたんです」
「あー、うー、それはあんまり話したくはないけれど、辛かったよ、本当に」
 嫌がらせを受けたり、脅迫されたりしたのか、人を疑ってかかることに嫌気がさしたのか、それとも何か事件に巻き込まれたのか、実際のところ何があったのか知りたかったけれども、マスターの福々しい顔がこのときばかりは曇って、それ以上の質問は控えざるを得なかった。

「この後ろの棚にある本は、マスターの?」
「読んだ本とこれから読む本と」
 店内が暗いので背表紙が読みとれず、手にとって確かめると、
「フッサールの『内的時間意識の現象学』と『デカルト的省察』がありますね」
「俺はねえ、現象学が好きなんだよな」
「ふーん。ジャズと文学が好きなのかと思ったら、哲学かあ。そういえば、遠い昔、学生の時に岩波新書の『現象学』という本を読んだけれど、全然覚えてないや。ノエシスとか、ノエマとか?」
「知ってるじゃないか」
「いや、言葉を知ってるから理解しているということにはならんでしょ。昔から哲学の翻訳の文章がどうにも苦手で、現象学が一体何のための学問なのか、ちょっと判断停止状態です」
「難しい。あー、でも、面白い。うー、正直なところ、わかんないだけどね。認識の自明性を疑ってゆくというか」
「だからデカルト的?」
「そもそもなぜ自明性が成立するのか……よくわかんないんだよ、本当は」
「ふーん、読んでみようかね、いつか」
 思うことなら誰にでもできるし、実際に読むという行為とは遠く隔たっている。

 実のところ、私はマスターの影響で図書館から借りてきてブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』を読み、さらに長年積ん読状態にあったセリーヌ『なしくずしの死』を読んだ(ただし積んでいるブロッホ『ウェルギリウスの死』にはまだ手が伸びないのは、ウェルギリウス『アエネーイス』が未読だからである)。そして、ジャズは相変わらず聞き流していたにもかかわらず、フッサールにでもチャレンジしてみるかという気分になったのは(あくまでも気分だけであるけれど)、やはりマスターの影響であろう。

「そもそも、そんなに毎日深酒して、べろべろに酔って哲学書なんて読めるんですか?」
「あー、昔は、店を開く前は、こんなに呑んでなかったさ。うー、いや、どうも最近読書量が減ってきて……」
 そのとき、カウンターにあるカバーのかかった文庫本がふと目に留まり、「今読んでる本?」と開いてみると、アメリカの酔いどれ作家ブコウスキーの小説だった。
「フッサールよりブコウスキーの方がマスターに似合ってますよ」
「あー、うー」
「あれ! この本、学生の時に読んだな。なんかアウトローで無頼な感じにちょっと憧れて。アウトサイダーを気取って、零落してる感じがね。でも、飲酒とセックスの繰り返しで退屈したな」
「この本にウォッカセブンというのが出てくるので、駅前のスーパーでセブンアップを買ってきて……あー、恐ろしく甘ったるくて、とても呑めたものじゃなかった」
「あー、それつくってください」と、いつの間にかマスターの口調がうつっている。
「うー、恐ろしく甘ったるくて、とても呑めたものじゃない。……これって、間主観性ってことで合ってる?」
「んー」

 考えてみれば、この界隈はジャズの街と称して(町興しの一貫か、それともロックの街である隣町への対抗意識か)、年に一度ジャズ祭りなど開催し(路上でのセッションも通行人である私にとっては邪魔でうるさいものでしかなかった)、ジャズのライブハウスなども少なくないらしいのに(一軒も覗いたこともなく、そもそもどこにあるのやら)、ようやく客がつきだしたオーウェンさんの店に馴染みになるのは、不思議なほどジャズに無知な輩たちだった。根っからのジャズファンにはすでに昔からの行きつけがあるのか、そもそも人口比率が極めて少ないのか、いずれにせよマスターにしてみれば寂しい限りであったろう。
 あるとき、年配の男性と連れ立って来ている黒ずくめの美女から、「八ヶ岳山麓でジャズフェスティバルがあるんですよ」とチラシを渡された。「行ってみませんか?」
「あー、彼はジャズに興味ないから」とマスター。
「あ、ジャズに詳しくなくても、昼間からお酒を呑んで、自然のなかでぼーっと音楽に耳を傾けているだけで楽しいですよ。貸切りバスで行くんですけど、バスの中から呑みはじめる人とかいたりして」
「ジャズはともかく酒は好きだけれど、昼間はクリアな頭でいたい」と柄にも私は断ったが、このときの女性が今思えばミユキさんではなかったのか。
 このジャズの街に越してくる以前、私は隣のロックの街で暮らしていて、そこで行きつけだった二軒のバーのマスターがともに六十代前半で、相次いで一人は施設送りになり、もう一人は自宅で突然死していたということもあり(この界隈では酒場のオヤジ六十歳限界説という経験則が昔からまことしやかに囁かれていたが、まさにそのとおりになってしまった)、酒浸りでチェーンスモーキングの生活もいつか改めなければと思っていたのである。そんなわけでジャズフェスティバルには行かなかったのだけれど、実際の記憶は失われたり、薄れたりするのに、なぜだか行かなかったフェスティバルの幻の記憶は逆説的に鮮やかに残って、張りつめた蒼穹を背景にしたギザギザの岩肌を見上げながら、昼間から酔っ払ってジャズを聞くともなしに聞いているというよりは、聞いている風に見せかけて聞き流していたことがたしかにあったように思われてくるのだった。白樺林に囲まれた青々とした芝生にレジャーシートなど敷いてステージ上の演奏に耳を傾ける人たちに混じり、ぼんやり寝転がっている自身の姿が浮んでくる。そして隣には、やはりぐでんぐでんのマスターがひっくり返っているのだ。その夢のような偽記憶のなかでは、来て良かったと、来るんじゃなかったとの感覚の境目が、自分でもよくわからないようだった。

(続く)

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