能力について~できないことは悪いこと?~

 みなさんこんばんは、甘太郎です。
僕は発達障害を患っているんですが、特別何ができなくて困っている、ということはあまり感じずに過ごしてきました。
むしろ他の障がい者が色々なことに四苦八苦しているのを見ては、「なんでこんな簡単なことが出来ないんだろう」と眉をひそめる側でありました。

これから障害について議論を進めていきたいんですが、その前にまず「能力とは何か」という話から始めたいと思います。
障害がある、ということは特定の能力を持っていないことだと思います。じゃあ我々を苦しめる能力ってのはどういうことなのか、一緒に考えて行きましょう。

能力とは何か。能力とは偏りである

 突然ですが、僕の好きなゲームの話をします。
 その作品は名をメギド72と言って、いわゆるソシャゲなので興味を持った方は是非触ってみてください。少しネタバレに触れますがご容赦を。

 僕の大好きなセリフとして、ルシファーというキャラクターのこんなセリフがあります

「要項を加えたものの見方は必ず偏る」というのが私の結論だ

メギド72、ルシファーキャラストより

 どういった状況でこのセリフが出てくるかと言うと、ルシファーのお友達のサタンとベルゼブブは仲良しなゲイカップル同士。ですが彼らはある日突然「同性愛は自然なのか?」という疑問を持ちます。
 色々な条件で同性愛を測り口論になった時、裁定者であるルシファーが仲裁に入ります。
 ルシファーはその疑問を持ち帰り、結論として出したのが上述の言葉です。
 この言葉は、何を以て自然とするのかとは、つまり要項を加えること。そういったものの見方は必ず偏りが生じるということ。
 ルシファーは同性愛それ自体は「罪ではない」と判断しましたが、同性愛が自然なものかという議論を行うことは、そういった偏ったものの見方で見ることとし、「罪である」と判断しました。そうしてこの議論は終幕を迎えます。

良いキャラクターでしょう。ストーリーを進めれば仲間になるので彼女を仲間にするまで頑張ってください。

 さて、本題に戻ると、「能力」というものも、偏ったものの見方の一つであると僕は判断します。
 ルシファーの意図とは少し外れますが、似通ったものがあるように僕は感じています。

 何故なら、「臆病」と「慎重」は根本的に同じ特徴であるにも関わらず、前者はマイナスのニュアンスが、後者はプラスのニュアンスが付け加えられているからです。

 基本的に能力というのは「特徴」であり、それがプラスに働くかマイナスに働くかは、環境……つまり要項によって判断されます。
 「要項を加えたものの見方は必ず偏る」という言葉通り、特定の特徴がプラスに判断されることもあれば、マイナスに判断されることもあります。
しかしそれは所詮要項次第。要項が変われば評価も変わります。

 つまり能力とは、特徴の評価であり、環境が変われば評価も変わる。
 つまり、「できないことがあっても、恥じる必要はない」「できることがあっても、よそでは評価されないかもしれない」

ここまでは、そう定義します。

第二能力とは

 ここまで述べてきた特徴にまつわる能力を、まず「第一能力」と定義します。
 というのも、第一能力だけでは説明がつかない能力があるからです。

 それは「言葉を話す」「ピアノを弾く」「計算をする」など、後天的に獲得した能力のことです。
これらを「第二能力」と呼びます。

 第二能力の特徴として、どこでもプラス以上の評価を受けることができるということが挙げられます。
「ピアノを弾ける」という能力は、プラスになることはあっても、それがマイナスに働くということは、まずありませんよね。

 第一能力というのは本人の特徴の現れだったので、評価は環境により変わります。
 しかし、第二能力は後天的に獲得した能力であり、特徴とはあまり関連していないので、持っていて困ることはまずありません。これが大きな特徴です。

 第二能力というのは、基本的には持っていれば持っているほどよい能力です。ですからそれは、裏を返せば「持っている第二能力が少ないことは恥になる」とも言えるのです。

 外資系企業で英語ができないことは、とても大きなデメリットですよね。受験において勉強ができないことは非常に大きな枷になります。
 社会が第一能力を直接求めることはありませんが、例えば絵を描ける人がイラストレーターになったり、外国語ができる人が翻訳家になったりすることは当たり前のようにあります。
 第二能力は、社会に強く求められる能力である。とも言えます。

 雲行きが怪しくなってきましたね。さっきまではどんな能力でもいい、環境次第だ、って言ってたのに。
残念、これからもっとシビアな話をします。

第二能力の修得について~何が障害なのか~

 結論を言うと、第二能力を得るためには第一能力が必要不可欠です。
脚が動かない人はサッカーのドリブルができるようになりませんし、耳が聞こえない人が音で会話を行うことは、今は不可能ではないのかもしれませんがかなり難しいです。

 もう想像つくかもしれません。社会が要請する第二能力を得るための第一能力が欠けている人は、とても生きづらい人、ということになります。

 学習障害を例にお話しましょう。あれは知能に問題がないように見えるのに、何故か識字や計算に困難を示す障害のことを言います。
 いくら頭が良くても、現代社会において識字や計算という第二能力を持っていない人は、受験や就労に困難をきたしますよね。

 これは、(知能が低いわけでもないのにかかわらず)識字や計算といった第二能力を獲得するための第一能力に問題がある。という状態です。
 第一能力は何度も言いましたが、その人の特徴です。容易に変えることはできません。
 故に学習障害は障害なのです。

 学習障害は文字を大きくしたりすることである程度改善する人もいますが、先程例外として「知能が低いわけでもないのにかかわらず」と言いましたが、シンプルに識字や計算を行えるだけの知能がない人は、知的障害と呼ばれたりしますね。

 また、「空気を読む」や「言葉の裏の意味を理解する」や「注意力を持つ」といった、いわゆる発達障害ができないこととされるものも、第一能力の問題であると言えます。

 要約すると、「社会が要請する第一能力を持たない人」のことを押しなべて障害者として扱うのです。

結論

 「できないことは悪いことなのか?」という問いをサブタイトルで投げかけました。
 結論をまとめると、「第一能力が環境に合っていないだけなら、悪いことではない」
「第二能力の不足は悪いことである」
「第二能力の修得のための第一能力の欠如」
は、これを悪いことと言ってしまうのはあまりに世知辛い。悪い、ではなく僕からは「不幸」と言わせてもらおう。

 第二能力を求め、努力することは決して悪いことではない。しかし、その努力に必要な能力が揃っていない人もいる。
 そういった人は怠慢な悪い人なのではなく、不幸な人なのです。そう考えた方が楽でしょう。

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