見出し画像

雑誌『NALU』の企画書を書きながら サーフィンの未来に思いを馳せる土曜の午後


うちの前には夷隅川という川が流れている。

潮留の堰よりも下なので潮の満ち引きがあり、藤の花が咲く今頃は、引き潮になると浅瀬の川底は干上がって歩けるくらいになる。竿を持ち出して流心あたりにルアーを投げ込むと、運が良ければまぁまぁサイズのシーバス(スズキ)が釣れる事もあるんだけど、それよりも今が大潮で、潮干狩りに一番いいシーズンだということを、毎年家の前の川の状況で知ることが出来るのだ。今日はまさにそんな日だ。

いつもならこの引き潮を狙って近所の海に行き、ウェットスーツに着替えて気持ち良くサーフィンを楽しみながら夕暮れのBBQ用に潮干狩りをする。本当な漁業権があるから勝手に獲っちゃダメなんだけど、晩酌のつまみくらい、ハマグリ5〜6個くらいなら大目に見てくれる。もちろん器具を使うのはNGだし、バケツなんかも使っちゃダメだ。獲ったハマグリはウェットスーツの袖口とか裾とかに押し込んでおくのがこの辺のローカル流だ。

セットの波を捕まえてきっちりインサイドまで乗り継ぐ。プルアウトしたついでに足で砂浜をグリグリしてハマグリを探し、ひとつ見つけたら袖口にしまって、また沖へとパドルアウトする。5〜6本波に乗ったら袖口もパンパンだし、ちょうどビールが旨いくらいの程好い疲れ具合になっているという寸法だ。

そんな新緑の季節を毎年なんの特別な感覚もないまま過ごしてきたけれど、今はそれがどれだけ贅沢で特別な日常だったか思い知らされている。まさかサーフィンまで自粛しなくてはいけない日が来るとは思ってもみなかった。

サーフィンを自粛してもう一ヶ月が過ぎた。GWが終わり、サーフィンの自粛を求めていた町のサーフィン業組合やサーフィン連盟は、三密行動をしないことを条件に、駐車場の閉鎖はそのままで、ローカルサーファーや住民に対して段階的にサーフィン自粛の解除を発表した。

つまり、わかりやすく言ってしまえば、私たちは普段通り、公園に行くように、近所を散歩するように、いつものビーチでサーフィンします。でも、他の地域の方々はどうか私たちのビーチに来ないでください! ってことだ。

ちょっと話は逸れるんだけど、僕はNALUというサーフィン専門誌の編集に携わっている。そもそももう30年もサーフィン雑誌で仕事をしてきていて、どっぷりと頭のてっぺんからつま先まで日本のサーフィン業界のほぼ真ん中辺りに身を置いているのだけれど、そんな立ち位置から今のこの状況を見ていると、50年間なんとか継続させてきたこの業界の流れが、ついにここで終わるんだなって実感出来てしまった。もちろんそれは雑誌も含めてのことだと思う。それくらいこの全国的なサーフィンの自粛はこの業界にとって大きい。パチンコと横並びで批判されるのは悔しいから…。もはや話はそんな次元じゃない。

海を持つ者と持たざる者の確執は、今まで以上に大きなものになるだろう。でも、この小さなマーケットのユーザーはほとんどが海を待たないサーファーであり、ドメスティックなメーカーの生産者たちは、そのほとんどが海辺に住むローカルサーファーたちだ。そしてこの小さな日本のサーフィン業界は、そんなドメスティックなメーカーのカルテルなのである。つまりこの両者が分断されてしまっては、もう今までのシステムでは回らないってことなんじゃないのか。

日本のサーフシーンはこれからどうなって行くのだろう。いや、日本だけじゃなく世界もだけど、ウィズコロナ時代のサーフシーンはどうなって行くんだろう。そんなことを考えていたら、みんながこのことについてどう考えているのか、堪らなく知りたくなった。

ジェリー・ロペスだったらどんな話が聞けるだろう? ジョエル・チューダーはどんなことを考えているんだろう? ロブ・マチャドは? トム・カレンは? 脇田貴之だったら? 牛越峰統だったら? 千葉公平さんにも、添田博道さんにも、横山泰介さんにも聞いてみたいし、枡田琢治や中村竜、真木蔵人も面白い話が聞けそうだ。そうだ、木村拓哉くんだったらどう考えるんだろう…とかね。

いろんな意見があって、共感出来るのもあれば、全く正反対の意見も当然でてくるだろう。でもそれはすごく正常なことで、大切なのはそういった著名なサーファー達が、この時代が変わる瞬間に、サーフィンの未来について思いを巡らせた痕跡を残しておくことなんだと思う。物体として形に残る雑誌という旧メディアだからこそ価値のある、そんなNALUを作ってみたいと切実に思った土曜の午後だった。

よろしければサポートお願いします。いただいたサポートは取材などの活動費として使わせていただきます。