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【ネタバレ考察】『進撃の巨人』とはどういう物語だったのか?

遂に完結した『進撃の巨人』。電子書籍で初めて読んだ漫画が進撃の巨人で、それから約10年、遂に完結。

しかし、3回読み直してもよく分からない。笑

20巻あたりから世界の構造が急激に複雑化して、「始祖の巨人」や「進撃の巨人」の能力が難解でとにかく混乱する。

でも、細部にまで神経の張り巡らされた綿密な設計と、その設計が物語にしっかりと実装として落とし込まれている(散りばめられた伏線や、台詞やコマ使いの機微として表現されている)、ということは何となく感じる。

というわけで、ネタバレ全開で、書きながら自分の頭を整理してみる。



以下、盛大にネタバレ。
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物語全体の構造

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『進撃の巨人』全体の物語の特徴は、対峙する「敵」がどんどん変化していくという点。

{壁の内側・外側}という軸と、{巨人・人間}という軸でマトリックスで整理してみると、

・序盤は(壁の外側 x 巨人)との戦い
・そこから王政打倒という(壁の内側 x 人間)との戦いに展開し
・ウォール・マリア奪還戦からは(壁の外側 x 人間)との戦い
・最後はエレンの地ならしという(壁の内側 x 巨人)との戦い

という風に整理することが出来そう。

そしてこの全体をMECEに網羅することで「全員被害者で全員加害者」という構図が出来上がる。現実世界でも起きているこの無限のバッドループにどういう結論を出すのかというのが最終盤の最重要ポイントで、恐らく、作品そのものの主テーマになっている。

無限のバッドループの内部構造

『進撃の巨人』では次のようなモチーフが主語を変えながら執拗に繰り返し描かれている。

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1. 欲望と愛が暴力を生み出し
2. 愛と恐怖が正義を生み出し
3. 正義が暴力の行使を肯定する
4. 暴力が対極の恐怖を生み出し
5. その恐怖と愛が別の正義を生み出す
6. 愛と欲望が別の暴力を生み出し、正義に肯定され行使される
7. 4に戻る

そして、巨人は「暴力」の象徴として、人間は「正義」の象徴として機能している。

この構造で、全体の流れを整理すると、

(壁の外側 x 巨人):あちら側の暴力との戦い
(壁の内側 x 人間):こちら側の(別の)正義との戦い
(壁の外側 x 人間):あちら側の正義との戦い
(壁の内側 x 巨人):こちら側の暴力との戦い

と捉え直すことができ、さらに、この「欲望と愛と恐怖が織りなす正義と暴力の連鎖」という構造が、各ストーリーの中でもフラクタル構造のように埋め込まれている。

この「欲望と愛と恐怖が織りなす正義と暴力の連鎖」という構図を、人物や立場を変えながら繰り返すことによって物語全体を構成し、「全員被害者で全員加害者」の出口の見えない無限のバッドループ構造を作り上げている。

時系列で物語の流れを整理

抽象的な構造論だとわかりにくいので、作中の時系列に沿ってこの構造を整理してみる。

初代フリッツ王と始祖ユミル:

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始祖ユミルは偶然「有機生物の起源」と接することで巨人の力を得る。それを初代フリッツ王のために奮いエルディア国は世界を蹂躙する。始祖ユミルの「愛」に、初代フリッツ王の「欲望」が掛け合わされ、「暴力」が生まれた。この暴力による「恐怖」がその後の悲劇のバッドループの通奏低音となる。

巨人対戦による内部崩壊:

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145代フリッツ王は、1700年にわたる暴力によるエルディア国の支配の歴史に絶望し、終止符を打とうと考えた。マーレ国のダイバー家と共謀し、巨人対戦という内戦を引き起し、エルディア国を内部崩壊させ、マーレ国の復権を果たす。
この内戦は、巨人という暴力をあちら側とこちら側に分断させることにより、恐怖と欲望(と恐らく愛)を原動力にした正義と暴力の連鎖という構造を意図的に引き起こされたことが作中で示唆されている。

壁による分断:

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エルディア国の支配に終止符を打つことに成功した145代フリッツ王は、パラディン島に巨人の壁を築き、自身に従うエルディア国民と共に壁の内側に引きこもった。

「壁」は外→内、内→外という双方向の往来を完全に絶ち、確実な分断を実現するための暴力装置として建てられた。

外→内には、壁の巨人による「地ならし」への恐怖という形で牽制し、
内→外には、記憶改竄による壁外への恐怖と無関心化という形で牽制した。

なお、壁内人類の記憶の改善と王家の不戦の契という枷により、「地ならし」は実質的に発動出来ないという仕掛けが施されていたため、実態的には145代フリッツ王の選択は緩やかな集団自殺であると捉えられる。

しかし、この外→内の侵入を牽制させるための暴力装置が、マーレ国の恐怖を温存・助長し、第一話の壁の破壊へと繋がっていく。

壁の破壊:

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マーレ国から送り込まれた超大型巨人(ベルトルト)らによる壁の破壊。これは、壁の巨人(地ならし)への恐怖、家族や友人への愛、帰郷したいという欲望が原動力となり、始祖の巨人の奪還という正義に向けた暴力へと接続される。

壁の外側 x 巨人との戦い:

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壁外の巨人への恐怖、家族や友人への愛、ウォール・マリアを取り戻したいという欲望が原動力となり、巨人の駆逐という正義のもと、兵器(立体機動装置)とエレン(進撃の巨人)という暴力が無垢の巨人に対して行使されていく。

その過程で、巨人の正体が人間であることや、アニ・ベルトルト・ライナー・ユミルが巨人化出来る人間であること、壁の破壊がユミルを除く3人によって人為的に引き起こされたものであったことが明らかになる。

壁の内側 x 人間との戦い:

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巨人の謎や裏切り者の正体を明らかにしようとする調査兵団に対して、現王政は様々な手段でそれを妨害をしようとする。その攻防の中で、現国王が偽物であることが判明し、偽王を打ち倒し真の王家に政権を取り返すという大義名分を得た調査兵団はクーデターを起こし現王政を打倒する。

これは、結果的には、145代フリッツ王の企図した「緩やかな自殺」を砕き、壁外人類との殲滅戦への不可逆的な駒を進めることになった。

ここでは、エレン達調査兵団の、壁外巨人(この時点では壁外人類の存在は明らかでないため壁外巨人と巨人化出来る人間という捉え方)への恐怖、家族や友人への愛、謎を解明したいという欲望が原動力となり、145代フリッツ王が構築した「分断」の仕組みをクーデターという暴力により破壊した。

壁の外側 x 人間との戦い:

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ウォール・マリア奪還作戦に乗じて、マーレ国から潜入したライナー・ベルトルト・獣の巨人(ジーク)・車力の巨人(ピーク)は始祖の巨人(エレン)の収奪を目論み、全面衝突する。上述の各々の正義によって肯定された暴力の衝突という構図。結果、壁内人類の勝利に終わり、ライナー・ジーク・ピークは撤退する。

この壁内人類の暴力の勝利が、壁外人類の恐怖を煽り、家族や友人への愛、マーレ国の武力増強への欲望により織りなされる正義と暴力により、壁内人類の殲滅が計画される。

時を同じくして、壁の内側でも、壁外人類からの暴力に対する恐怖と、壁内人類への愛、平和への望み(欲望)により、壁外人類への暴力も行使される(レベリオ襲撃)。

そして、壁内の正義と壁外の正義の衝突が深刻化し、そこに更にジークの安楽死計画(145代フリッツ王の緩やかな自殺の別の形での完遂)の推進も入り乱れ、混戦に突入する。

壁の内側 x 巨人との戦い:

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混戦の中、始祖の巨人(エレン)と、王家(ジーク)の血が揃ったことで、始祖の巨人の力を行使可能になったエレンは、壁外人類の殲滅のため「地ならし」を発動し、壁の巨人を率いて壁の外の人類を踏み潰していく。

エレンの虐殺を止めるため、かつて対立し殺し合い、憎しみ合った登場人物達が結束し、最後の戦いへと駒を進める。

ここでも、「地ならし」という暴力に対する恐怖、それによって奪われる家族や友人への愛に各々の欲望が原動力となり、虐殺兵器と化したエレンの打倒という正義の暴力の行使に向かっていくという構図が取られる。

このように「欲望と愛と恐怖が織りなす正義と暴力の連鎖」という構図を繰り返し描くことで、全員加害者で全員被害者の出口のない無限ループを作り上げている。

エレンの選択

最終盤、主人公であるエレンは、「地ならし」によって壁外人類の殲滅を断行する。

この虐殺は、暴力の連鎖から壁内人類を解放することが第一義的な目的。これは壁内人類への使命感というよりは、半径数メートルの大切な人を守りたいという個人的な愛、そして、それが壁外人類によって脅かされる恐怖が原動力。

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自身が壁外人類の8割を虐殺するという巨大な加害者となることで、これまでの被害を相対的に矮小化し、
その巨大な加害者を壁内人類が打倒することで壁外人類が救済されることで、被害と加害のデッドロックから抜け出し、壁内外人類の和解と協調を導く。

更に、壁外人類の持つ兵器や文明を物理的に破壊し、破壊や人口減により争いや報復の余剰を奪い、(ミカサが望むなら)巨人という暴力装置をこの世から消滅させることで、人類から徹底的に暴力を奪い、それによって「自分の大切な人達」が、再び暴力の恐怖に脅かされることなく日常を取り戻す、という選択。

これは、対立する正義による暴力の連鎖を断ち切る手段が他に見つけられなかったという消極的選択であると同時に、「自由」への渇望というエレンの根源的な欲望が圧倒的な暴力により昇華されたという積極的選択でもある二重性を持つ。

ミカサの選択と始祖ユミルの救済

ヒロインであるミカサは、9歳の時に誘拐犯から救ってくれたエレンを偏愛している。ミカサにとってエレンは、唯一の家族であり希望であり光であり温もりであり救済で、そのアイコンがマフラーとして第一話から最終話まで一貫して描かれている。

最終盤、ミカサは、「エレン(=愛)」「虐殺を止める(=正義)」という究極の二択を迫られる。

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結果的に、ミカサは、愛を「暴力の否定」に昇華することで、エレンを失ってでも虐殺を止めるという選択をする(選択肢2を選ぶ)。

かつて始祖ユミルは、愛の呪縛に縛られ、暴力の肯定に与する選択をした(これがこの悲劇の無限ループの起点となった)。そして2000年の時を経て、「愛の昇華としての暴力の否定」というミカサの選択に救済を見出し、初代フリッツ王への愛とそれが引き起こした悲劇への苦しみという呪縛から解放され、巨人をこの世から消滅させるというミカサ(とエレン)の願いを実現させた。

エレン(=愛)を失ったミカサにはマフラー(=救済)が残され、ミカサの個人的な救済が人類の救済に昇華された、というのが「マフラーを巻いてくれてありがとう」という最後の台詞の含意なんじゃないかと思う。

「いってらっしゃいエレン」の意味

第一話と最終話を接続する最も重要なシーンだけどこれも解釈が難しい。

「いってらっしゃい」ということは、「帰ってくる」ことを前提にしているはず。ところがこれが永遠の別れのシーンで発せられている。これはどこへ帰ってくることを意味した台詞なのか。

今の所の自分の解釈:

ミカサが「未来視した過去のエレン」に向けて、「この結末に戻って来れるように」という意味合い。
(それが、ミカサとエレンが、全てを投げ出して逃げたというIFの未来のミカサから発せられているのは、到達すべきは「ここ」ではないという含意)

また、第一話で、まだ進撃の巨人の力を得ていないエレンがこれを見たのは、始祖ユミルの最後の力の行使によって、ミカサ(アッカーマン)の中に眠る巨人の力を通じて少年のエレンに未来視をさせた、という仮説。

第一話は、超大型巨人に壁が破壊され世界が一変した日であると同時に、「地ならし」の発動に向かうエレンが「道」を通じて初めて過去に干渉した日でもある(父に始祖の巨人を食わせ、ベルトルトを死なせないために無垢の巨人と化したダイナを母のもとに向かわせた)。

そういう意味でも「エレンの旅」はここから始まっており、そこからこの結末に到達=帰ってこられるように「いってらっしゃい」という台詞が発せられ、それを始祖ユミルが届けたのではないか?という考察。

まとめ:『進撃の巨人』とはどういう物語だったのか?

・分断と対立が行き着く悲劇の物語である
・全員加害者で全員被害者の物語である
・欲望と愛と恐怖が織りなす正義と暴力の連鎖の物語である
・暴力の連鎖を断ち切るための様々な選択の物語である

整理してみての所感

壮大なテーマ、それを説得力を持って語るエピソード、散りばめられた伏線や謎、独特な絵柄、台詞回しやコマ割りといった細部にまで行き渡った演出、、等など、整理しながら読み返してみて、改めて凄いと感じた。語彙力が貧困だけど、「凄い」以外思いつかない。

現実社会でも深刻化している分断と対立に対して、『進撃の巨人』の世界では8割の人類が虐殺されるに至ってようやくある種の解決を見出すことが出来た。現実の人類は、その選択に至る前に、別のより良い解決を見出すことが出来るのか?というのが『進撃の巨人』が投げかけている問なんじゃないかと思う。


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