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【読書感想文】小泉八雲 『耳無芳一の話』 --芳一はなぜ耳を取られたのか。

 寺に住む盲目の琵琶法師芳一は、とある高貴な人の使いに乞われて出かけ、平家物語を吟じた。
 だが後を付けた寺男によって芳一を呼び出したのは平家の亡霊であることが明かされ、身を守るために全身に経文を書きつけられたが、書き忘れた耳を亡霊にもぎ取られた。

 芳一はなぜ耳を取られたのか。

 それはもちろん相手の正体が亡霊であったからではあるのだけれども、相手が亡霊であることを知る以前は芳一は無事に解放されて戻っていたのであるから、それだけが理由ではないように思われる。とすれば、これは「見るなの禁忌」の類話といえるかもしれない。
 「見るなの禁忌」とは、「鶴の恩返し」や、イザナミ・イザナギの神話のように、相手から課せられた「見てはいけない」という約束を破ったために悲劇が訪れる類型である。

 芳一はある夜突然現れた客人に連れ出され、平家の物語の吟誦を求められる。
 客は平家の亡霊であったわけだが、盲目である芳一は客人の正体を「見る」ことはない。芳一は正体の見えぬ客人を前に、「琵琶を以て、あるいは橈を引き、船を進める音を出さしたり、はッしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ声、足踏みの音、兜にあたる刃の響き、海に陥る打たれたもの音等を、驚くばかりに出さしたりして」平家物語を吟じ、客人の「声をあげ、取り乱して哭き悲しむ」悲痛の声を聴く。
 視覚が働かない代わりに、この場面を支配するのは音である。つまり、この語りの場は、“見ない”ことによって成立し、“聴き合う”ことによって維持された空間であったと言えるだろう。
 
 “見る”とは、他者を認識することだ。
 さらに言えば、対象に対する第三者の認識の発生を意味するのであって、“見られる”ことはつまり、対他者関係の中において自己の何たるかが外形的に決定されることである。
 対して“聴く”とは、傾聴という言葉が示すように、他者に対する受容・共感理解の姿勢を示すものであるだろう。
 芳一が吟誦するこの場では、「見る」効力は最初から封じられている。盲目の芳一には、「見るなの禁忌」の代わりに、客人たちのことを「決して他者に話してはならない」という禁忌が課せられている。これはより端的に、「客観として認識する者」の排除であるといえよう。
 しかしある夜、芳一の後をつけた寺男が彼らの姿を目撃することとなる。つまり、芳一に代わり寺男が現れたことで、初めてこの場に「認識する他者」が現れた。これによって、彼らは客体としての姿を持たざるをえなくなる。ここにおいて、彼らのペルソナが―他者による外形認識に応じて―異形の亡霊として決定されたのだといえるだろう。

 そう考えると、この後に起こることはすべて認識の呼応なのである。
 当初芳一の琵琶を聞いている時点においては、彼らは何者でもないただの高貴な客人として存在した。
 だがそこに「見る」人物が現れたことによって、彼らの異形の外形が決定された。
 だから今度は、彼らは恐ろしい異形の存在として芳一の前に現れる。
 彼らが異形の者として現れるから、芳一はそれを危険と認識し、恐怖をもって彼らの目から隠れる。そのために芳一は体中に経文を書かれ、返事を禁じられる。
 芳一が応えない。だから芳一の姿を認識できない彼らは、芳一の耳だけを奪い去ってゆく。

 墓前に集う亡霊たちの認識において、芳一は熟達の琵琶法師であった。琵琶法師は鎮魂のために平曲を吟じる者であったわけだから、芳一が姿と声を消すということは、亡霊にとっては「鎮魂する者」の消滅であっただろう。
 かつての墓前の吟誦の場は、“見ない”ことによって成立し、“聴き合う”ことによって維持された空間だった。政治や社会認識による客観的な裁断ではない、耳を傾け受容し共感理解する空間だった。だが、そこに「認識」の目が介入したことによって、“見ない”ことにより成立した世界は崩れた。そして、返事を禁じられたことにより、“聴きあう”ことによって維持された共感世界も破綻した。
 “聴きあう”共感世界が破綻したその場において、芳一の“耳”が彼らにどう見えたのか。必定、芳一の耳は切り取られねばならなかったのだ。
 
 住職は、亡霊たちは必ずお前を殺すと芳一を諫めた。だが、「後六日の間毎晩」の演奏を所望し、それが終われば「御帰りの旅に上」るという彼らは、七日の法要の連想、つまり成仏を願っているようにも読み取れる。彼らは最初から祟るものとしてあったのか。どちらにせよ彼らの一連の振舞いは、「見られる」ことを境に、高貴な客人から典型的な「怨霊」へとそのまま変容してゆく。
 他者の認識によって存在自体の在り様が変わるということは、かつて平家が辿った歴史それ自体に重なって示唆的である。平家はかつては皇子を擁し、政の中心で栄華を極めた。だが中央政権を源氏に奪われることで賊軍と呼ばれ、朝敵と成ってうち滅ぼされる。彼らはまさに、中央に据えられた視点の意志によって相対的に立場が決定される世界に翻弄された者たちであったのだ。
 祟りの言伝えとは、つまりは非業の死を遂げた者への同情が生み出すものである。
 壇ノ浦を行き交う船を沈めようとし、人を海へ引きずり込もうとする怨霊の祟りを、「平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮(もが)いていた」と語るこの物語は、亡霊をただ恐ろしいものとしては描かない。物語を求め語り継いだ数多の人々の想いを、同時に、深い情をもって描写する。

 この話が最後に語るのは、芳一の怪我が治り、有名になり多額の贈り物を得て金持ちになったとの後日談である。
 芳一は富を手にはするけれども、しかし最後まで赤間ヶ関で吟誦し続ける者としてある。正体のわからぬ客人に請われるまま平家物語を吟じ、住職に言われるがまま身を隠し、亡霊のなすがままに耳を取られた芳一の在り様は、最後まであくまで受動の側であるように見える。
 盲目であることを課せられた彼は決して能動的な行為者にはならない。名と金を得ても、勝者の目線を獲得することはない。平家の亡霊に取り込まれなかった彼は、同時に現世の権力にも取り込まれずに、相対的に立場を決定される者としてその狭間に在り続ける。
 諸行無常の世において心ならず追いやられた者たちへの人々の鎮魂の願い、それが最後に芳一に齎される富に託されたものなのかもしれない。


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