中国古典インターネット講義【第18回】怪異小説~「六朝志怪」「唐代伝奇」『聊斎志異』
「小説」とは?
中国の古典小説は、「文言小説」と「白話小説」に大別されます。
「文言小説」とは、文語体(いわゆる漢文の文体)で書かれた小説です。
短編で、主に怪異を扱うもので、「六朝志怪」「唐代伝奇」『聊斎志異』などがこれに当たります。
「白話小説」とは、口語体(話し言葉)に近い文章で書かれた小説です。
長編で、テーマはさまざまで、『三国志演義』『西遊記』『紅楼夢』などがこれに当たります。
「小説」とは、元来は文字通り「小さな説」すなわち取るに足らない些細な言説という意味で、古代から清末に至るまで、文学としての価値は低いものでした。
中国では、伝統的に、第一級の正統の文学はつねに「詩文」ですが、伝統的な図書分類では、小説は「詩文」という時の「文」の範疇に入りません。
小説の起源
小説の起源については諸説があります。
古代の神話や民間伝承、語り部による歴史語り、戦国時代の遊説家の言説中に見られる寓話などが、小説の前身と考えられています。
(1)神話
中国の神話は、ギリシャ神話のように一貫性を以て専門に集められたものではありません。『山海経』『淮南子』などの書物に、今日の目から神話と見なされる故事が散見していて、それらが小説の起源であるとする説です。
(2)語り部
古代王朝の宮廷には、王朝の歴史を語る盲人の専門職人「語り部」がいたとされます。語る内容は、史実と言うより神話的、物語的な色彩の強いものが多く、口頭で語られたものが後に文字化され、それらが小説の起源であるとする説です。
(3)遊説家の言説
戦国時代は、思想家たち諸子百家が自説を売り込むために諸国の王侯貴族の間を遊説して回りました。遊説は相手を説得するのが目的ですから、本題に入る前に、まずわかりやすく、面白い例え話や寓話を持ち出すことが有効な手段でした。こうした遊説家の用いた小話の名残が小説の起源であるとする説です。
いずれにしても、体系的な思想を持たない断片的な故事や寓話の類が小説の起源であると考えられています。
『漢書』「芸文志」の「小説家」
『漢書』「芸文志」(図書分類目録)の「諸子略」(思想概説)の項では、儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家の九家を列挙し、最後に小説家(「家」は思想の流派の意)を挙げています。
「小説家」については、次のように記されています。
ここに述べられているポイントは、以下の通りです。
(1)小説は、もともとジャンルとしては、文学ではなく思想の流派に分類されていること。
(2)小説は、もともとは文字ではなく口承で伝えられたものであり、それゆえに、確かなものではなく、価値が低いとされること。
(3)小説は、小道末技ではあるが、史料として存在価値は認められたものであること。
このように、元来、小説は思想や歴史の一部として扱われていて、文学作品として読んで鑑賞するようなものではなかったことがわかります。
六朝の「志怪小説」
六朝時代には、「志怪」と呼ばれる小説が数多く書かれました。
「志怪」とは「怪を志す」ことであり、怪異の事柄を記録したものです。
その内容は、吉兆・凶兆・幽霊・鬼神・妖怪・夢幻・道術・仙界遊行・異類通婚などさまざまですが、こうした非現実的な出来事や超常現象をあたかも史実のように書き記しています。
この時代に「志怪」が流行したことには、いくつかの要因が考えられます。
(1)儒教の拘束力の低下
漢代は、儒教が国教に定められ、絶大な権威を持っていました。『論語』に「子は怪力乱神を語らず」「鬼神を敬して之を遠ざく」「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」などとあるように、儒教は、現世における人間と社会だけを問題にする倫理道徳思想です。来世のことや超現実的なことには触れずに避けて通る思想です。
ところが、その儒教的価値観が、後漢末から魏晋にかけて、政治的混乱に伴って大きく後退しました。また、後漢以降、儒教自体も変質し始めました。儒家の経典を予言書として解釈する「讖緯説」や、神秘的色彩の強い「陰陽五行思想」など、正統な儒教とは異質のものが起こりました。さらに、魏晋には老荘思想が盛んになり、儒家的価値観を真っ向から否定しました。
(2)魏晋のサロンでの怪異談の流行
儒教の拘束が緩むと、価値観が多様化し、文人サロンではさまざまな談論が自由になされるようになり、「清談」と呼ばれる超俗的な抽象論や、反道徳的言動を尊ぶ「人物評」などが盛んに語られるようになりました。そうした中でまた、霊魂や幽鬼の有無、仙境や天界など別世界の話など、怪異の事柄も人々の好む話題の一つとなりました。
(3)仏教や印度文化の影響
仏教は、後漢の頃に中国に伝来したとされます。仏教は、特に中国人の来世に対する認識・信仰に非常に強い刺激を与えました。本来、中国人にとっては、現世がすべてでした。儒教は、上で述べたように、現世のみを問題とする思想です。また、道教の「不老長生」も、いわば現世を永遠に引き延ばすという発想です。そこへ、輪廻や冥土を説く宗教が入ってきたことは、中国人には大きなショックでした。
こうした仏教の伝来に伴って、印度の民間説話なども中国に伝わりました。印度はもともと幻想的、神秘的、超自然的な事柄を説く文化を持っていますので、儒教の束縛によってこうした世界への興味を抑えられていた中国人の目には、印度文化は新鮮なものに映ったに違いありません。
こうしたさまざまな要因が複合的に重なって、この時代に「志怪」が盛行するようになります。
「六朝志怪」を集めた書物には、東晋・干宝撰『捜神記』、南朝宋・劉義慶撰『幽明録』、南朝宋・劉敬叔撰『異苑』 南朝斉・祖沖之撰『述異記』などがあります。
先に、「志怪」は、元来は文学と言うより、むしろ歴史や思想に近いということをお話ししましたが、そのことと関連して、「志怪」には、次のような特長が認められます。
(1)「事実」という建前
「志怪」は、いかに荒唐無稽な話でも「事実の記録」であるという建前で書かれています。「志怪」の冒頭は、「いつの時代、どこの誰が・・・」というように、固有名詞で始まるのが普通です。「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが・・・」というような虚構を前提とした漠然とした書き方はしません。
(2)「野史」という扱い
「志怪」の作者は、自分の書いているものは歴史だという認識を持って書いています。「正史」に対する「野史」という扱いです。「志怪」の作者の多くは史官でした。例えば、『捜神記』の作者干宝は、『春秋左氏義外伝』『晋紀』などの史書を著しています。
(3)仏教的色彩
「六朝志怪」の中には、『幽明録』『冤魂志』『冥祥記』など、仏教と密接に結びつき、もっぱら仏の霊験を説いたものもあります。仏を信じていたために御利益があった、救われたという類の話があり、また一方、仏を信じていなかったために災難に遭った、地獄に落ちた、という類の話があります。
六朝の「志人小説」
同じ時代に、著名な人物の逸話を集めた小説があり、それらを「志人小説」と呼んでいます。
「志人小説」は、「清談」や「人物評」を母胎としています。
「清談」は、前述の通り、魏晋の文人サロンで流行した超俗的な言論ですが、「志人小説」はそうした「清談」の担い手たちの特異な言動、風変わりな言動を記録しています。
また、六朝の文人サロンでは「人物評」が盛んで、機知に富む粋な言動が尊ばれました。当時の貴族社会では、サロンにおける「人物評」が出世に大きく関わっていました。まだ科挙制度のなかった当時の官吏登用法は、貴族を対象とした「九品官人法」(人物を品評して九等級に分けて採用する制度)であったため、「人物評」はとても重要でした。
代表的な「志人小説」には、南朝宋・劉義慶撰『世説新語』があります。
『世説新語』は、後漢末から魏晋にかけての著名な士大夫の逸話を集めたもので、名士たちの風貌風格・才気品行を短い数行の文章のうちに捉えて、その人物を生き生きと面白く描写しています。
ある人物の一つの行動、一つの言葉を捉えて、その人物の全体像を浮き彫りにするという手法です。
また、「志人小説」の亜流として、「笑話」も誕生しました。滑稽・諧謔の類の小咄を集めたものです。
代表的な笑話集として、魏・邯鄲淳撰『笑林』、隋・侯白撰『啓顔録』があります。
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