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【心に響く漢詩】潘岳「悼亡詩」~天下一の美男、愛妻の死に打ちひしがれて

潘岳

潘岳(はんがく 247-300)、字は安仁、西晋の詩人です。

年少時、楊肇(ようちょう)に才を認められ、のちに楊氏の娘を妻に娶りました。

西晋では、太康・元康年間に、「三張・二陸・両潘・一左」と呼ばれる張載(ちょうさい)・張協(ちょうきょう)・張華(ちょうか)・陸機(りくき)・陸雲(りくうん)・潘岳(はんがく)・潘尼(はんじ)・左思(さし)ら多くの詩人を輩出しました。

中でも、潘岳は、陸機と並んで西晋時代を代表する卓越した詩人です。

潘岳は、美男子で天下に名を知られていました。

『晋書』「潘岳伝」には、「容姿が並外れて美しく、洛陽の街を馬車で通ると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車一杯になっていた」という記載があります。四字成語「擲果満車(てきかまんしゃ)」の出典です。

また、『世説新語』「容止」篇にも、「潘岳は容姿が美しく風情があった。若い時、弾き弓を小脇に抱えて洛陽の街に出ると、出会った女性達は皆手をつないで彼を取り囲んだ」という逸話があります。

中国では、男性に対する褒め言葉で、

才比子建、貌若潘安
才は子建(しけん)に比し、貌(かたち)は潘安(はんあん)の若(ごと)し

という言い方があります。
文才は曹植(字は子建)に匹敵し、容貌は潘安(潘岳の俗称)と似ている、という意味です。

今日でも「古代第一美男」などと呼ばれ、アニメやドラマに出てくる潘岳は、オーラたっぷりのイケメンに描かれています。

TVドラマ「桃花落盡與君還」

ちなみに、魏晋の時代、知識階級の人間にとって、容姿の良さは非常に大切でした。まだ科挙制度がなかったこの当時、官吏登用制度は「九品官人法」でした。

この制度は人物をランク付けするのですが、その際、家柄が最も重要でしたが、それに加えて、貴族社会での評判が出世に大きく関わっていました。

その評判の基準となったのが、文才と容姿です。潘岳の出身はほぼ中流程度の家柄でしたが、秀麗な容姿は、仕官の条件として大いにプラスになっていたはずです。

さて、潘岳には、妻の楊氏を亡くした悲しみを歌った五言古詩「悼亡詩」があります。

二人が出会ったのは、潘岳が12歳、楊氏はわずか10歳の時でした。

婚姻を結び、家庭を築き、仲睦まじく長年連れ添った愛妻を亡くしたのは、潘岳が52歳の年でした。

「悼亡詩」は、三首の連作です。その第一首を読みます。

楊氏が亡くなり、1年間の喪に服した後、再び家を離れて元の公務に復職する際に歌ったものです。

荏苒冬春謝 荏苒(じんぜん)として冬春(とうしゅん)謝(しゃ)し
寒暑忽流易 寒暑(かんしょ)忽(たちま)ち流易(りゅうえき)す
之子歸窮泉 之(こ)の子(こ)窮泉(きゅうせん)に帰(き)し
重壤永幽隔 重壤(ちょうじょう)永(なが)く幽隔(ゆうかく)す

――時はしだいに移り、季節は冬から春へと過ぎ行き、
寒さと暑さもたちまちのうちに入れ替わった。
そなたは遠い黄泉の国へ帰って行ってしまい、
幾重にも重なった土で永遠に隔てられてしまった。   

私懷誰克從 私懐(しかい)誰(たれ)か克(よ)く従(したが)わん
淹留亦何益 淹留(えんりゅう)するも亦(ま)た何の益(えき)かあらん
僶俛恭朝命 僶俛(びんべん)として朝命(ちょうめい)を恭(つつ)しみ
迴心反初役 心を廻(めぐ)らして初役(しょえき)に反(かえ)らん

――わたしの辛い胸の内を誰が知ることができようか。
いつまでも家でぐずぐずしていても何もいいことはない。
無理をしてでも朝廷の命に恭しく従って、
気を取り直して元の役職に戻ることにしよう。

望盧思其人 盧(ろ)を望(のぞ)みて其(そ)の人を思(おも)い
入室想所歴 室(しつ)に入(い)りて歴(へ)る所を想(おも)う
幃屏無髣髴 幃屏(いへい)に髣髴(ほうふつ)たる無(な)くも
翰墨有餘跡 翰墨(かんぼく)に余跡(よせき)有(あ)り

――粗末な我が家を見れば、亡き妻のことを思い出し、
部屋に入れば、共に過ごした日々のことを考えてしまう。
帷帳や屏風には妻を思い起こさせるものはなくても、
筆と墨の置かれたところには、まだ筆跡が残っている。

流芳未及歇 流芳(りゅうほう)未(いま)だ歇(つ)くるに及ばず
遺挂猶在壁 遺挂(いけい)は猶(な)お壁(かべ)に在(あ)り
悵怳如或存 悵怳(ちょうきょう)として 或いは存(そん)する如く
周遑忡驚惕 周遑(しゅうこう)として忡(うれ)え驚惕(きょうてき)す

――芳しい香りはいまだに部屋に漂い、
亡妻の衣服はまだ壁に掛けられたままだ。
恍惚として、まだ彼女が生きているかのように感じ、
うろたえながら憂え、動揺しておののいてしまう。

如彼翰林鳥 彼(か)の林(はやし)に翰(と)ぶ鳥(とり)の
雙棲一朝隻 双棲(そうせい)一朝(いっちょう)に隻(せき)なるが如し 
如彼遊川魚 彼(か)の川(かわ)に遊(あそ)ぶ魚(うお)の
比目中路析 比目(ひもく)中路(ちゅうろ)に析(さ)かるるが如し

――あの林に飛んでいた鳥が、
つがいの鳥だったのに、一晩で一羽になってしまったかのようだ。
あの川を泳いでいた魚が、
二匹並んで泳ぐ比目の魚なのに、途中で分かれてしまったかのようだ。

春風縁隙來 春風(しゅんぷう)隙(すきま)に縁(よ)りて来(き)たり
晨霤承簷滴 晨霤(しんりゅう)簷(のき)を承(う)けて滴(したた)る
寢息何時忘 寝息(しんそく)何(いず)れの時(とき)か忘(わす)れん
沈憂日盈積 沈憂(ちんゆう)は日(ひ)に盈積(えいせき)す
庶幾有時衰 庶幾(こいねが)わくは 時(とき) に衰(おとろ) うる有りて
莊缶猶可撃 荘缶(そうふ)猶(な)お撃(う)つ可(べ)きことを

――春風が、隙間から部屋に入り込み、
朝露は、軒先から滴り落ちてくる。
寝ている時でさえ、亡妻のことが忘れられず、
沈む憂いは、日ごとにますます積もっていく。  
願わくは、時とともに悲しみが衰えて、
荘子が甕を叩いて歌ったように、妻の死を乗り越えたい。
 

最終句は、『荘子』に見える「鼓盆而歌」の故事に基づいています。
「万物斉同」の思想に従って、「生」と「死」に区別はないと悟った荘周が、妻が亡くなった時、哭することなく、足を投げ出し盆を叩いて歌った、という話です。

荘子のように生死を達観することができれば、どれだけ心安らかになることだろうか、と妻の死をなかなか受け入れることのできない胸の内を吐露しています。

「鼓盆而歌」について詳しくは、こちらをご参照ください。↓↓↓

「悼亡詩」は三首の連作ですが、三つの詩は季節で繋がっています。
今回読んだ 第一首が春、第二首が秋、第三首が冬の季節を背景として歌っています。

亡くなった人を追悼する「悼亡文学」は古くからありますが、妻の死を悼むテーマの詩は、潘岳の「悼亡詩」を嚆矢とします。

潘岳以後も、悼亡詩は、漢詩の常套的テーマの一つとして、連綿と作り続けられました。

唐代の韋応物、元稹、李商隠、北宋の梅堯臣らの作がよく知られています。

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