中国古典インターネット講義【第5回】陶淵明~田園詩人・隠逸詩人の虚像と実像
こんにちは!
今日は、東晋の詩人陶淵明についてお話しします。
今回引用する作品の多くはすでに投稿していますので、この記事の中では、主に、原詩と日本語訳のみを記します。詳しい語釈や背景説明については、各詩の記事をご参照ください。
陶淵明の時代
陶淵明の生きた時代は、六朝の前半、貴族文学が全盛期を迎えようとしていた時代です。
その頃の詩文は、思想や情感よりも形式的な技巧に力が注がれる傾向を強めていました。
詩人たちは、修辞の上手さを競うようになり、その結果、詩風は華美で繊細なものになり、しだいに空虚で生気に欠けるものとなっていきます。
こうした時代風潮の中にありながら、陶淵明は、平明古朴な言葉の中に人生の真理を求める独自の清遠な詩の世界を築きました。
陶淵明の経歴
陶淵明(365~427)、名は潜、字は淵明、東晋の詩人です。
潯陽(江西省)の出身で、大司馬(中央の軍事長官)陶侃(とうかん)の曾孫に当たります。
29歳で江州(江西省)の祭酒(学政を掌る長官)として仕官しますが、ほどなくして辞任します。
数年後に再び仕官し、はじめは桓玄に仕えましたが、後に母の喪で官を辞して郷里に帰ります。
その後、鎮軍将軍劉裕(のちの宋の武帝)の参軍(幕僚)となり、翌年、建威将軍劉敬宣の参軍に転任します。
41歳の時に彭沢(江西省)の県令となりますが、わずか3ヶ月足らず務めたのみで辞任し、その後、郷里に帰り、時の政治に関わることなく、悠々自適の隠居生活を送りました。
「歸園田居」
「歸園田居」(園田の居に帰る)は、五言古詩の五首連作です。
義煕2年(406)、帰隠した翌年、陶淵明 42 歳の作です。
ここでは、五首の中の第一首を読みます。
――若い頃から、俗世と調子を合わせるのが苦手で、
生まれつき、丘や山の自然が好きだった。
ふと誤って、俗世のしがらみの中に落ち込んだ。
ひとたび郷里を離れてから、三十年もの歳月が過ぎてしまった。
「塵網」は、俗世の束縛。しがらみの多い役人生活を指します。
「三十年」は、長い年月をいう概数です。古くは「人生六十年」ですから、三十年は人生の半分の歳月を言います。
――籠に繋がれている鳥は、もといた林を恋しく思い、
池の中に飼われている魚は、もといた川の淵を懐かしがる。
南の野原の辺りを開墾して、
不器用な生き方を守り通そうと、故郷の田園に帰ってきた。
「羈鳥」と「池魚」は、本来は大空を飛び回り、川を泳ぎ回っているはずの鳥や魚が、その自由を奪われている姿を言います。役人として窮屈な生活をしていた陶淵明自身を喩えます。
「拙」は、愚直で世渡りが下手なこと。要領の悪い生き方ではあっても、小賢しい知恵を働かさない、世俗におもねらない、という信念を持った生き方を言います。
――宅地は、十畝あまりの広さがあり、
草ぶきの家屋は、八つか九つほどの部屋がある。
ニレやヤナギが家の裏の軒先を覆って生い茂り、
モモやスモモが座敷の前に立ち並んでいる。
――遠くの人里が、ぼんやりとかすんで見える。
村の家々から、炊煙がゆらゆらとたなびいている。
イヌは奥まった路地裏で吠え、
ニワトリは桑の木の上で鳴いている。
犬と鶏の鳴き声は、平和な自給自足の農村風景を象徴します。『老子』第80章、「小国寡民」の章に、「隣国相望み、鶏犬の声相聞こゆるも、民老死に至るまで、相往来せず」(隣の国がすぐそこに見え、鶏や犬の声が聞こえてくるほど近いのに、民は老いて死ぬまで互いに行き来しない)とあります。
――敷地内には、俗世のごたごたと煩わしい雑事はない。
閑寂な部屋には、あり余るほどのゆったりとした時間が流れている。
ずいぶんと長い間、不自由な籠の中にいたが、
やっとまた本来の自然な生活に立ち返ることができた。
「自然」は、「自(おの)ずから然(しか)り」、ありのままの状態、本性を歪めたり無理をしたりしない自由な生き方を言います。老荘思想の「無為自然」に基づく言葉です。
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