「長恨歌」が語らない楊貴妃の話
楊貴妃と「長恨歌」
中国の「四大美女」と言えば、
の4人とされています。
「世界三大美人」という言い方もよく聞きます。
この3人ということになっていますが、これは、日本人が勝手にそう言っているだけで、3人の中に日本人を入れているのは、自国贔屓です。
いずれにしても、中国からは楊貴妃が選ばれているわけですから、日本人の目からは、楊貴妃が「中国第一の美女」ということになります。
楊貴妃の事跡については、正史の『旧唐書』と『新唐書』共に、「列伝」で「楊貴妃」の項が設けられています。
唐代の詩人白居易の「長恨歌」は、玄宗皇帝と楊貴妃の情愛の物語を歌った長編叙事詩です。
この小説版として、唐・陳鴻撰『長恨歌伝』があり、さらに宋代に至って、楽史撰『楊太真外伝』があります。
「長恨歌」については、以前記事を書いたことがあります。↓↓↓
「漢皇」と「傾国」
「長恨歌」の冒頭は、こう歌い起こしています。
「漢皇」は、字面では、漢の皇帝のことですが、実際には、唐の玄宗を指しています。
玄宗が崩御したのは上元2年(762)、白居易が「長恨歌」を作ったのは元和元年(805)です。「長恨歌」は、半世紀ほど昔のことを歌ったものですが、白居易の生きた時代は、まだ同じ唐王朝です。
玄宗と楊貴妃の色事は、国を滅亡の危機に晒したわけですから、王朝の歴史の上では汚点です。「唐」を「漢」に置き換えているのは、唐王朝に憚っての措辞です。
また、冒頭の句では、美女を表すのに「傾国」という言葉を使っています。
かつて漢の宮廷楽士李延年は、自分の妹を武帝に売り込もうとして、その美貌をこう歌いました。
為政者が夢中になって国を傾けてしまうほどの美人という意味で、これが「傾国」の典拠になっています。
ですから、「長恨歌」で「漢皇」と呼ばれている漢の皇帝は、具体的には、武帝(劉徹)を指していることになります。
さて、李延年の売り込みが功を奏して、妹は「李夫人」となり、武帝の寵愛を得るようになります。
李夫人は若死にしてしまいますが、武帝は夫人を愛慕して忘れられず、道士に魂招きを命じます。道士が「反魂香」を金の炉で焚き上げると、煙の中に夫人の姿が見えたと言い伝えられています。
「長恨歌」の後半、玄宗が道士に命じて亡くなった楊貴妃の魂を捜させますが、これは李夫人の伝説に着想を得たものです。
また、「長恨歌」が作られた3年後に書かれた張鴻の「長恨歌伝」では、楊貴妃の容貌と物腰を「漢の武帝の李夫人の如し」とはっきり語っています。
そう考えると、玄宗と楊貴妃の物語は、武帝と李夫人の物語のパロディと見ることもできるのです。
「長恨歌」が語らない「玄宗との邂逅」
天下に美女を捜し求めていた玄宗は、ついに楊家に育った絶世の美女楊玉環(のちの楊貴妃)に巡り会います。
「長恨歌」は、楊貴妃の入宮をこう歌っています。
そして、玄宗との出会いと初めてのお伽を次のように歌っています。
このように、「長恨歌」では、楊貴妃が天子の寵愛を受けるようになった経緯を「楊家の女が玄宗に侍る女官として後宮に入り、華清宮で初めてお伽をした」と語っています。
ところが、「長恨歌伝」の伝えるところはまったく異なり、次のように語っています。
このように、「長恨歌伝」では、もとは息子の寿王李瑁の妃であった楊玉環を玄宗が奪い取った経緯が述べられています。
さらに、宋の楽史が著した「楊太真外伝」では、その略奪の方法について、次のように語っています。
このように、「楊太真外伝」では、「楊玉環に息子との縁を切らせるため、一旦女道士として出家させ楊太真と名乗らせ、5年後、寿王には別の妃を与え、楊太真を還俗させて天子の後宮に入れ、貴妃に立てる」という手の込んだやり方で息子から嫁を取り上げています。
「長恨歌」では、こうした経緯はまったく歌われず、それを暗示するような表現もなく、事実が伏せられたり、曲げられたりしています。
白居易が事実を隠した理由は、上に述べたように、唐の玄宗を「漢皇」と呼んでいるのと基本的に同じで、時の王朝に憚って、天子の醜聞をあえて語らなかったからでしょう。
しかし、そうした政治的な配慮によるものと考えるまでもなく、「長恨歌」は文学作品ですから、そもそも史実通りに歌う必要はありません。宮廷の恋愛絵巻として美化するには、こうした醜聞をわざわざ織り込むのは野暮として切り捨てたのかもしれません。
なお、息子の嫁を奪うという行為は、現代社会ではとんでもない不道徳ですが、肉親を処刑することすら躊躇わない古代の専制君主にとっては、これがどれほどの醜聞に当たるのかは疑問が残るところです。
「長恨歌」が語らない「楊貴妃の容姿」
「長恨歌」では、楊貴妃の美しい容貌や姿態を表す言葉が随所に盛り込まれています。
上に引用した詩句の中でも、楊貴妃の美貌を讃えて、
「天生麗質」(天が与えた麗しさ)
と語り、また、湯上がりの姿を、
「凝脂」(きめ細かな白い肌)
「嬌無力」(艶めかしく力が抜けたかのよう)
など、官能的な表現で語っています。
「長恨歌」の中では、他にも以下のようにさまざまな美辞を駆使して楊貴妃の美しさを歌っています。
このように、「長恨歌」では、楊貴妃の容貌の美しさを歌った言葉が数多く見られます。
一方、「長恨歌伝」や「楊太真外伝」では、容姿に関する描写は、ほとんど無いと言ってよいほど少なくなっています。
但し、一つだけ「長恨歌」ではまったく語られず、「長恨歌伝」と「楊太真外伝」で語られているのが、楊貴妃の体型についてです。
「長恨歌伝」には、次のような描写があります。
肉付きが程よい、と言うのは、原文では、
「繊穠中度」(繊穠度に中る、つまり痩せても太ってもいない)
となっています。
また、「楊太真外伝」では、次のような挿話があります。
太めの体つき、と言うのは、原文では、
「有肌」(贅肉がある、太っている)
となっています。
ここでは、玄宗が趙飛燕を引き合いに出して、楊貴妃がぽっちゃり型であると言っています。
ちなみに、中国では、美人の体型を語る時、豊満な楊貴妃と細身の趙飛燕とを比べて、両者の姓で「楊肥趙痩」、名で「環肥燕瘦」という言い回しがあります。
なお、知名度の高い楊貴妃が太めなので、「中国古代の人々は太めの女性を好んだ」云々と言われることがありますが、これは正しくありません。
春秋時代の西施、漢の趙飛燕、清代の小説『紅楼夢』のヒロイン林黛玉など、歴代の美人はむしろ細身の女性の方が多く、楊貴妃に代表されるように唐代のみが特殊で、太めの女性を美しいとしたようです。
こうした状況は、絵画や壁画の肖像を見ても察しが付きます。
なお、奈良の正倉院所蔵「鳥毛立女屏風」は唐代の女性を描いたものですが、これを見ても、唐代が太めの女性を美しいとしていたことが窺えます。
ちなみに、後世、楊貴妃は神格化されて牡丹の花神として祀られています。
富貴の象徴である牡丹が楊貴妃と関連づけられているのは、楊貴妃の豊満さによるところが大きいでしょう。
楊貴妃の肖像画には、決まって牡丹の花が描かれています。
また、牡丹の品種名には、「貴妃紅」「貴妃深酔」「酔玉環」「酔楊妃」「太真冠」など、楊貴妃にちなんだものが多くあります。
「長恨歌」が語らない「楊貴妃の人柄」
「長恨歌」では、楊貴妃の美貌、湯上がりの艶めかしい姿態、霓裳羽衣の舞を舞う風情など、容姿や身のこなしなど外面的なことについては多く語られていますが、人格や性癖など内面的なことにはまったく触れていません。
一方、「長恨歌伝」では、次のような記述があります。
ここでは、楊貴妃の言動について、原文では、
「才智明慧、善巧便佞」(知恵があって賢く、言葉巧みでずる賢い)
というフレーズを使っていますが、これはあまり聞こえのいい言葉ではありません。
さらに「楊太真外伝」では、次のような挿話があります。
結局、玄宗がすぐに楊貴妃のことが恋しくなってしまい呼び戻しているのですが、ここでは、楊貴妃の性格について、原文では、
「妬悍」(嫉妬深く気性が荒い)
という語を使っています。これは、悪妻を形容する時の典型的な言葉です。
また、別の挿話では、このようなことが記されています。
この一件で、楊国忠が玄宗に詫びを入れて、「貴妃は女でありますゆえ分別がございません。万死に値しますが、宮の外で辱められるのは哀れでございます。どうか宮中にて死を賜りください」と平伏して情けを誘い、事無きを得ます。
赦された楊貴妃本人は、免罪の御礼にと編んだ髪を一握り切り取って玄宗に献げたため、かえって以前に増して恩寵を受けるようになります。
このように、楊貴妃は、敏感に玄宗の反応を見越して故意に注意を引こうとする小賢しい知恵を働かせています。
「楊太真外伝」における楊貴妃の描写は、総じて、好意的なものではなく、小利口で、あざとく、性格の悪い女として描かれています。
「長恨歌」では、こうした楊貴妃の人柄の負の面が一切語られていません。これは、白居易がことさら伏せたと言うより、そもそも詩という文学作品であるので、物語の美化を阻害するような事柄にはあえて触れないのがむしろ自然であると解釈するべきでしょう。
「長恨歌」が語らない「楊貴妃の最期」
さて、玄宗が楊貴妃を傍らに侍らせ、歌舞に酒宴にと遊興三昧の日々を送るうちに、都長安に突如暗雲が立ちこめます。
楊国忠と対立した節度使安禄山が反旗を翻し、かの安史の乱が勃発します。
都が陥落すると、玄宗は楊貴妃を帯同して宮殿から逃げ出し、軍隊に守られながら蜀を目指しますが、その道中で悲劇が起きます。
楊貴妃の死について、「長恨歌」ではこのようにあっさりと歌っていますが、「長恨歌伝」では、そのいきさつを次のように語っています。
このように、「長恨歌伝」では、国が滅亡の危機に瀕する事態を招いたのは楊氏一族のせいだとする声が上がり、楊貴妃が殺害されるに至る一部始終が記されています。
そして、「楊太真外伝」では、大筋は「長恨歌伝」と同じですが、さらに次のような詳細な記述が加わっています。
「楊太真外伝」の玄宗批判
「長恨歌」は、玄宗の醜聞や失政、楊貴妃の死などの詳細は伏せて、玄宗と楊貴妃の情事を恋愛絵巻として美化しています。
白居易の「長恨歌」は、玄宗に対して表立った批判はしていませんが、宋の楽史の「楊太真外伝」は、すでに王朝が代わっているので、何も憚る必要はなく、美化する必要もなく、玄宗を痛烈に直截に批判しています。
「楊太真外伝」の末尾には、「史臣曰く」として、次のような著者の見解が述べられています。
このように、玄宗が儒家の教えである「礼」を軽んじ、女色に溺れて国政を怠ったこと、人倫道徳に反する醜態を晒したこと、楊氏一族の横暴を許して国を乱したことを譴責し、禍を招く道理を説くことが自らの著書の執筆動機であることを明らかにしています。
後世、楊貴妃の評価は、肯定と否定にはっきり分かれます。
それは、「長恨歌」の冒頭にある「傾国」の含意を「国を滅ぼすほど魅力のある美女」と取るか、「国を滅ぼしてしまう有害な悪女」と取るかによって分かれるところです。
言い換えれば、玄宗と楊貴妃の情事を「詩人白居易が美化して歌ったフィクション」として見るか、「唐王朝の存立を危うくした歴史的事実」として見るか、つまり、文学として鑑賞するか、歴史として考察するか、という視点によって異なってくるものと言えるでしょう。
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