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『聊斎志異』「黄英」~菊の妖精

清代の文人蒲松齢が著した怪異小説『聊斎志異』五百篇は、妖しげな雰囲気の中で、神仙・幽鬼・妖精らが繰り広げる怪異の世界が展開されています。

その中から、菊の妖精の話「黄英」を読みます。

馬子才は順天府(北京)の人であった。代々の菊好きという家柄だったが、子才に至って最も甚だしかった。良い品種があると聞けば、何が何でも手に入れようと、千里の道も厭わなかった。

ある日、家に泊まっていた金陵
(南京)の客人が、自分の親類が北方にはない品種をいくつか栽培していると言うので、馬は大喜びですぐさま旅支度を整え、その客人と共に金陵へ向かった。

その人がいろいろ手配をしてくれたお蔭で、苗を二株手に入れることができた。馬はそれをまるで宝物のように大切に包んで帰った。

帰る道中、一人の若者に出会った。驢馬に跨がり、婦人用の牛車のあとに従っていた。その風采は瀟洒で垢抜けていた。

馬が近寄って言葉を交わすと、若者は自ら陶と名乗った。風雅で教養のありそうな話しぶりだった。

どこから来たのかと聞かれて、馬が良い菊を求めているいきさつを話すと、陶は、「品種に良し悪しなどありません。育てる人間の育て方次第です」と言う。そこで、二人は菊の栽培法をあれこれ語り合った。

大いに意気投合し、馬が陶に「どちらへ行かれるのですか」と尋ねると、「姉が金陵に飽きてしまって、河北
(黄河の北)に引っ越すところです」
と言う。

それを聞いた馬は言った、「わたしは貧乏でぼろ屋に暮らしておりますが、客人を泊めるくらいはできます。粗末な所でよろしければ、どうぞわたしの家にいらしてください」

陶が牛車まで進み寄って姉に相談した。車中の姉は二十ばかりの絶世の美人だった。姉は簾を押し開いて返事をした、「家は粗末でも構いませんが、庭は広くないといけないわ」

馬は「それならご心配なく」と即座に請け合い、さっそく二人を連れて帰路に就いた。

馬の家の南側に荒れた畑があり、そこに三、四間だけの小さな家があった。馬が案内すると、陶は喜んでそこに住んだ。

陶は、毎日北側の庭にやって来て、馬のために菊の栽培を手伝った。すでに枯れているものでも、根から抜いて植え替えると生き返らぬものはない。

陶たちの暮らしぶりは清貧で、毎日馬と飲食を共にしていて、姉弟の住む所では炊事の煙が上がらなかった。

馬の妻の呂氏は陶の姉を気に入り、時折食べ物を届けてやっていた。

陶の姉は黄英と言い、話し上手で、たびたび呂氏の所にやって来て、一緒に裁縫や機織りをした。


ある日、ふと陶が馬に言った、「あなたの家はもともと豊かではないのに、毎日のようにご馳走になっているわけにはまいりません。そこで考えたのですが、菊を売ればわたしも生計が立てられると思います」

馬は意固地な性分だったので、陶の言葉を大いに卑しんで言った、「わたしはあなたが風流高雅の士で、貧乏暮らしに安んじることのできる方だと思っていました。なのに、そんなことを仰ったら、東籬(陶淵明の庭)を市場に変えてしまうようなもの、菊を辱めるというものですよ」

陶は笑って言った、「自分で働いて食べていくのは貪欲ではないし、花を売るのを仕事にするのが卑俗とは言えないでしょう。人はむやみに富貴を求めるべきではありませんが、かと言って、わざわざ自ら望んで貧乏になる必要もないでしょう」

馬が黙ってしまったので、陶は立ち上がって出て行った。

その日以来、陶は馬が棄てた傷んだ枝や不良の株を拾い集めて持って帰るようになった。馬の所で泊まったり食べたりすることはしなくなり、わざわざ呼べばやって来るくらいになった。

しばらくして菊の花が咲く季節が近づくと、南の屋敷の門がまるで市場のように騒がしくなった。

不審に思って様子を見に行くと、買い入れに来た花屋が、車に積んだり背負ったりして道に列を成している。


その花を見ると、どれも珍しい品種で、見たことのないものばかりだった。馬は心の中で陶の貪欲を嫌い、「絶交してやる」と思う一方、「あんな珍しい品種を隠していたのか」と恨めしくも思い、一言文句を言ってやろうと陶の家の扉を叩いた。

陶が出て来て、馬の手を取って中に引き入れた。見れば、半畝ばかりの荒れ地だった庭はすべて菊畑に変わり、小さな住まい以外には空き地もない。

抜いた跡には別の枝を折って挿してある。まだ蕾のままで畑に植わっているものは、どれもこれも見事な株だったが、よく見ると、すべて馬が棄てたものだった。

陶は家から酒や肴を持ち出して、畑の傍らに席を設けて言った、「貧乏には勝てず、清貧の戒めに従うことができませんでしたが、幸いここ数日いくらかの実入りがあったので、なんとか一献差し上げられます」

間もなく、部屋の中から、「三郎さ~ん」と呼ぶ声がして、陶が返事をして中へ入って戻ると、念入りに作られたご馳走を運んで来た。

「姉上はなぜまだお一人なのですか?」と馬が尋ねると、陶は、「まだその時が来ていないのです」と言う。「その時とは?」と問うと、「四十三ヵ月後です」と言う。「それはどういう意味ですか?」と問い詰めると、陶は笑うばかりで答えない。

その日、二人は存分に飲んで歓を尽くして別れた。


翌日、馬がまた訪ねると、新しく挿したばかりの枝がすでに一尺余りに伸びていた。

馬は何とも不思議だと思って、ぜひその術を教えて欲しいと頼むと、陶が言った、「これは言葉でお教えできることではありません。しかも、あなたはこれで商売するわけでもないのですから、お教えする必要もないでしょう」


数日後、客足が減ると、陶は残った菊を蒲のむしろに包み、数台の車に載せてどこかへ出掛けて行った。

翌年、春も半ばになろうとする頃になってようやく帰って来た。南方から珍しい品種を車に積んで持ち帰り、都の街中に露天を出すと、十日で売り尽つくし、また家に帰って菊を育てた。

去年陶から花を買った人に聞いてみると、その根株を残して置いても年を越すとみな駄目になってしまうので、また陶の所で買ったのだと言う。

そういうわけで、陶はだんだんと裕福になり、一年で家を建て増し、二年目には豪勢な屋敷を新築した。これらの工事を陶は思いのままに進め、家主の馬には何の断りもなかった。

そのうち、以前は花畑だった所がすべて家屋に変わってしまったので、外に畑を一区画買い、四方に土塀を築いて一面に菊を植えた。

その秋、また花を車に載せて出掛けたが、それっきり次の年の春が過ぎても帰って来なかった。

その間に馬の妻が病で死んだ。馬は黄英に思いを寄せていて、後添えにしたいという意向を人を介してそれとなくほのめかした。黄英はにっこりと微笑んで承知したようだったが、ともかく陶の帰りを待って事を進めようということになった。

一年余り経っても陶は帰って来なかった。黄英は下僕に指図して菊を育てていたが、そのやり方は陶とまったく同じだった。

お金を儲けるとますます手広く商売をし、村はずれに肥沃な畑を二十けいほど買い入れ、屋敷はますます立派になった。


ある日、東粵(広東)から来た旅人が、陶の手紙をことずかってきた。開いてみると、「姉を娶って欲しい」との内容だった。手紙が書かれた日付を見ると、それはちょうど妻が死んだ日だった。また、かつて陶と庭で酒を酌み交わした日から数えると、四十三カ月目になっていた。馬は大いに不思議に思った。

手紙を黄英に見せて、「結納はどこへ届けたらいいだろうか?」と聞くと、黄英は「そんなものは要りません」と言った。

そして、馬の家は狭いから南の屋敷に住むよう言ってきたが、馬は、「それでは婿に入るみたいではないか」と憤慨して承知せず、吉日を選んで、しきたり通りの段取りで婚礼を挙げた。


黄英は嫁いで来ると、土塀に戸を造って南の屋敷と繋げ、毎日、下僕たちの菊作りを監督しに出向いた。

馬は裕福な妻の世話になるのを恥ずかしく思い、常々南北別々の家計簿を作るように言い、両家の収支がごちゃ混ぜになるのを避けようとした。

ところが、黄英は家で必要な物があると、そのたび南の屋敷から持って来たので、半年足らずで家の中の物はすべて陶家の物になってしまった。


馬は下僕に命じて一々送り返させ、二度と持って来るなと言ったが、十日もしないうちにまた混ざってしまった。

そんなことを何度も繰り返すうち、馬もいい加減うんざりして辛抱できない素振りを見せた。すると、黄英が笑って言った、「陳仲子さん(清貧で知られる戦国時代の人)のように振る舞っていてはお疲れになりませんこと?」

そう言われて馬は恥じ入り、もう細かいことは言わず、すべて黄英に任せることにした。

黄英は職人を集め材料を調達し、大々的な増築工事を始めたが、馬はもはや口出しもできなかった。

数カ月経つと、立派な建物が連なり、南北の屋敷がとうとう一つに合わさって境目もなくなった。

その後、黄英は馬の言いつけに従って門を閉ざし、菊を売ることもやめた。それでも、豊かな暮らしぶりは豪族をも凌ぐほどだった。

こうした生活に馬は落ち着かなくて、黄英に言った、「三十年間、わたしは清貧の暮らしを貫いてきたが、おまえのお蔭で台無しになってしまったよ。今こうして生きていても、女房に食わせてもらっているのでは、男の面目丸つぶれだ。世間の人はみな金持ちになりたいだろうが、わたしは貧乏になりたいんだ」

黄英は言った、「わたしは欲張っているわけではありませんわ。ただ、少しは裕福にならないと、菊好きの陶淵明が貧乏性だったばかりに子孫が百代後まで出世できないんだなんて千年後の人たちに言われてしまいます。ですから、わが家の淵明さまが世間から笑われないようにと思っただけなのです。でも、貧乏人が金持ちになるのは難しくても、金持ちが貧乏になるのは簡単ですわ。家にあるお金は、どうぞあなたがお好きなように使ってください。全部無くなっても、わたしはちっとも惜しくありませんわ」

馬が、「他人の金を無駄遣いするなんて、これまたみっともない話じゃないか」と言うと、黄英は言い返した、「あなたがお金持ちになりたくないと仰っても、わたしも貧乏な暮らしはできません。仕方ありませんわ。別居することにいたしましょう。清い者は清いまま、濁った者は濁ったまま暮らせばよろしいですわ」

そして、黄英は庭に茅葺きの粗末な家を造って馬に住まわせ、美しい女中を選んで身の回りの世話をさせた。

馬はそれで満足していたが、数日すると黄英に会いたくてしかたがなくなった。呼んでも来てくれないので、やむなく自分から出向いて行った。

こうして一日おきに出向くのが常となると、「二軒掛け持ちで暮らすなんて、清廉な御方のすることかしら」と黄英にからかわれ、馬も苦笑いして返す言葉がなかった。

そこで、またもとの通り一緒に住むことになった。

馬はたまたま用事があって金陵へ出掛けた。ちょうど菊の季節で、朝早く花屋に立ち寄ってみると、店の中に菊の鉢がびっしりと並び、どれもみな素晴らしい花が咲いている。「陶が手がけたものによく似ているなあ」とふと思った。

そう思う間に、店の主人が出て来た。思った通り、陶であった。馬は大喜びして、久しぶりに積もる話をあれこれ語り、そのままその店に泊まった。


馬が一緒に帰ろうと誘うと、陶が言った、「金陵はわたしの生まれ故郷なので、ここで家庭を築こうと思います。いくらかお金が貯まったので、ご面倒ですが、姉に渡してください。わたしも歳末にはひとまず帰ります」

馬は聞き入れず、何が何でも帰るよう促し、「幸い家はゆとりがあるから、何もしなくても暮らしていけますよ。商売なんかすることはないよ」と言って、馬自ら店先に坐り、下僕を売り子にして大安売りしたので、数日で売り尽くした。

馬は陶をせき立てて旅装を整えさせ、舟を雇って北へ向かった。

家に着いて門を入ると、黄英はすでに部屋をきれいに掃除し、寝台や寝具もすべて用意していた。まるで弟も一緒に帰って来るのを前もって知っていたかのようだった。

陶は帰って来て旅装を解くと、さっそく下僕を使って庭園を大々的に手入れした。

陶は毎日馬と碁を囲んだり酒を飲んだりして過ごし、他の人とは誰とも付き合わなかった。

馬が嫁を世話してやろうとしたが、要らないと固辞するので、黄英が二人の下女を侍らせて夜伽させたところ、三、四年して女の子が一人生まれた。

陶はもともと酒が強く、一度も酔いつぶれたことがなかった。

馬の友人にそうという酒豪がいて、酒量は適う者がなかったが、たまたま馬を訪ねて来たので、陶と飲み比べをさせてみた。


二人は意気投合し、知り合うのが遅かったと残念がった。辰の刻(朝八時)から四更(夜中の二時)までずっと飲み続け、それぞれが百壺を空にしてしまった。

曾は泥酔してその場で寝込んでしまった。陶は立ち上がって部屋に帰って寝ようとしたが、門を出て菊畑に足を踏み入れたところで、ばったり倒れた。服を傍らに脱ぎ捨てると、地面に伏したまま菊に化した。

菊の高さは人の背丈ほどあり、十余りの花はみな人の拳よりも大きかった。

馬はびっくり仰天して、すぐ黄英に知らせた。

黄英は大急ぎで駆けつけ、菊を抜いて地面に横たえ、「こんなに酔ってしまって」と言いながら服をかぶせた。馬に一緒に帰るよう促し、「見てはいけません」と言った。


夜が明けるの待って様子を見に行ってみると、陶は菊畑に横たわっていた。

馬は、この時はじめて黄英の姉弟が菊の妖精であったことを悟り、ますます二人を敬愛するようになった。

一方、陶は正体を現してからというもの、ますます好き放題に酒を飲むようになった。自分から手紙を書いて曾を招いて飲み、無二の親友となった。

花朝節の日(旧暦二月十五日)、曾が訪ねて来た。薬草を浸した白酒のかめを二人の下僕に担がせて運び入れ、空になるまで飲もうという話になった。

甕が空になりそうになっても、二人はまだそれほど酔った様子はなかった。そこで、馬がこっそり別の酒を一瓶継ぎ足しておくと、それも飲み尽くしてしまった。

曾はべろべろに酔いつぶれ、下僕たちに背負われて帰って行った。

陶は地面に横たわり、またもや菊になった。馬はこの前見たので驚くこともなく、黄英のやった通りに抜いて寝かすと、その傍らで人間に戻るのを見てやろうと思った。


ところが、しばらく待つうちに葉が見る見る萎んできたので、慌てふためいて黄英に知らせた。

黄英はそれを聞くと驚いて、「あなた、弟を殺してしまったわ!」と言って駆けつけたが、すでに根まで枯れていた。

黄英は痛く悲しみながら、その茎をつまみ取って鉢に埋めると、寝室に持ち帰り、毎日水をやった。

馬は死ぬほど後悔し、曾さえいなければと恨んだが、数日後、曾もまた酔ったまま死んだと聞いた。

鉢の中の菊はやがて芽が出て、九月になると開花した。短い茎に白い花を咲かせ、鼻を近づけると酒の香りがしたので「酔陶」と名づけた。酒を注いでやるとますますよく育った。

のち、陶の娘は成長して名門の家に嫁いだ。黄英は、老いて亡くなるまで、何ら人と異なることはなかった。

『聊齋志異圖詠』

「黄英」は、菊マニアの男と菊の妖精の物語です。

彼らの出会いは、表面上は偶然のものとして描かれていますが、実は、男の「へき」が引き寄せた必然的なものでした。

作者蒲松齢も「十月孫聖左齋中賞菊」と題する詩に、

 我昔愛菊成菊癖  我昔 菊を愛し 菊癖を成す
 佳種不憚千里求  佳種 千里に求むるをはばからず

と歌っているように、菊マニアであることを自認しています。

馬子才が出会った若者が陶姓を名乗っているのは、言うまでもなく陶淵明を意識したものです。東晋の陶淵明は、酒と菊を愛した隠逸詩人として知られています。

菊には、清く高潔な隠逸のイメージがあり、陶淵明の詩には、しばしば菊が詠まれています。

最もよく知られている「飲酒」(其五)には、

 采菊東籬下  菊をる 東籬の下
 悠然見南山  悠然として 南山を見る

と歌っています。

陶淵明と菊

この物語の中心テーマは「清貧」です。

北宋・周敦頤の「愛蓮説」に、「菊は花の隠逸なる者なり、牡丹は花の富貴なる者なり、蓮は花の君子なる者なり」とあるように、菊は隠逸のシンボルであり、そこから清貧をイメージさせるものです。

この物語では、菊の妖精たちは、初めは貧しい暮らしをしていましたが、菊を売ることによって次第に裕福になり、馬子才の方が、貧しい暮らしを貫き通そうとします。

陶三郎が菊を売って生計を立てることを提案した時、馬子才は、それは陶淵明の家の「東籬」を市場に代えてしまうようなものだと言って陶を卑下しています。

この場面で、作者は、馬子才の性格を「介」と表現しています。「介」は、狷介の「介」です。肯定的にも否定的にも解釈できる概念で、良く言えば、節操が堅いこと、自分の信念を曲げないことですが、悪く言えば、心が狭く自分のやり方に固執すること、融通が利かず意固地であることを言います。

馬子才は、清貧に拘泥しすぎて、頑なに貧乏生活に徹しようとするあまり、滑稽でさえあります。これは、伝統的な固定観念に縛られ現実から遊離した士大夫の姿を象徴するものです。

作者の筆は、馬子才に対する揶揄を感じさせますが、しかし、冷たい嘲笑ではなく温かみさえ感じさせます。

作者が菊癖のある男を好意的に微笑ましく描いている背景には、作者自身の菊癖に加えて、明末清初の「癖」に対する肯定的価値観が働いているためと言ってよいでしょう。

一方、陶三郎は達観していて、こだわりがありません。馬子才に非難されても、「わざわざ貧乏になる必要もないでしょう」と笑いながら受け流しています。これは、洒脱で粋な文人の姿を象徴するものです。

黄英も三郎と似ていて、馬子才と黄英とのやりとりには、二人の生き方の違いがよく現れています。

「陳仲子のように振る舞っていては疲れるでしょう」と黄英が馬子才をやり込める場面があります。陳仲子は戦国時代の斉の人で、ことさら清貧にこだわり、高禄をはむ兄を卑しんで家を出たが、食べる物がなく腐ったスモモで飢えをしのいだという逸話があります。孟子は、陳仲子のことを清廉に拘泥して中庸を欠くとして批判しています。

また別の場面では、馬子才がもっぱら「貧」「富」という短絡的な価値観でそれぞれを「清」「濁」と決めつけているので、黄英は「清い者は清いまま、濁った者は濁ったまま暮らせばよい」と軽く受け流して別居することを提案しています。

「黄英」は『聊斎志異』の中でもとりわけ有名な作品です。人間の男と異類の交わりを詩情豊かに、かつどこか哲学的に描いています。同じ花妖でも、菊とは対照的な牡丹の妖精である「葛巾」や「香玉」とはまたひと味違った風趣のある作品です。


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