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中国怪異小説⑪「董永」~孝子と天女(『捜神記』より)  

魏晋南北朝時代、「六朝志怪」と呼ばれる怪異小説が盛行しました。
その中から、東晋・干宝撰『捜神記』に収められている「董永」の話を読みます。

漢の董永とうえいは千乗(山東省)の人であった。小さい頃に母親を亡くし、父親と一緒に生活していた。

父親を手押し車に載せて田畑に出かけ、野良仕事に精を出していた。

父親が亡くなると、葬式をするお金がなかったので、董永は自分の身を売って奴隷となり、そのお金で葬儀の費用に充てようとした。

買い主は、董永が親孝行であることを知り、一万銭を渡して家に帰らせた。

三年の喪が明けると、董永は奴隷の仕事に戻るため買い主の元に向かった。

その道中、一人の女性と出逢った。

女性は董永に、「あなたの妻にしてください」と言った。

そこで、董永は女性を妻とし、一緒に買い主の家に行った。

買い主は言った、「あの金はお前にあげたのだから、働かなくてよい」

董永は言った、「お情けをいただいたおかげで、父の葬儀を済ますことができました。つまらない人間ですが、何としてもご主人様のため懸命に働き、大恩に報いたく存じます」

買い主は言った、「奥さんは何ができるのかな?」

董永は、「織ることができます」と答えた。

買い主は言った、「ならば、奥さんに絹百匹を織ってもらうことにしよう」

そこで、董永の妻は買い主のために絹を織り、十日で織り上げた。

そして、妻は門を出て董永に向かって言った、
「わたしは天の織女です。あなたが親孝行なので、天帝がわたしを遣わして借金を返す手伝いをさせたのです」

そう言い終わると、空に舞い上がって飛び去り、行方が分からなくなった。

「董永」の話は、孝子伝説と天女伝説がミックスしたものです。

物語のテーマは「善行」ですが、善行の中でも、伝統的に、つまり儒教道徳の上で、最も良いとされるのが「孝」です。

孝子の物語は、古来、中国には山ほどあります。

その中でもよく知られている話が、元・郭居敬が編纂した『二十四孝』という書物に載っています。文字通り、二十四人の孝行者の物語です。

『二十四孝』は日本にも伝来し、浮世絵に描かれたり、仏閣に彫られたりもしています。

下に挙げる「王祥」「楚僚」「郭巨」の話は、三話とも『捜神記』にあるもので、『二十四孝』の中にも入っています。 

王祥おうしょうは実の母を亡くし、継母に虐待されていた。それでも継母が病気になると、夜も寝ずに手厚い看病をした。
ある時、継母が真冬に「生きた魚が食べたい」と言い出した。王祥が氷の張った川に魚を捕りに行くと、急に冰が溶けて鯉が二匹王祥の手元に飛び込んできた。
またある時、継母は「スズメの丸焼きが食べたい」と言い出した。すると、数十匹のスズメが王祥の手元に飛び込んできた。
村人たちはみな驚いて、「王祥の孝行心が奇跡を起こしたのだ」と語った。

楚僚そりょうは幼い頃母を亡くし、継母に孝順であった。継母が腫物を患うと、楚僚は自らの口でうみを吸い出してやった。
ある時、継母の夢の中に子供が現れ、「鯉を食べたら病気はすぐに治り寿命も延びるでしょう」と言った。継母は、その夢を楚僚に話した。
時は厳寒の十二月、楚僚は川の氷を溶かすため服を脱いで氷の上に横になった。そこへ一人の子供が現れて氷を掘ると、一対の鯉が跳ね出てきた。
楚僚は鯉を持ち帰り継母に食べさせた。すると、継母の病気はすぐに治り、百三十三歳まで生きた。

孝子と継母の話は数多く見られます。実の親に孝を尽くすのは当たり前で、継母に孝行するのはさらに道徳的とされました。

郭巨かくきょは家が貧しく、母親と妻を養っていた。妻に子供が産まれると、郭巨の母は孫を可愛がり、自分の食事を孫に分け与えていた。
郭巨が妻に言った、「我が家は貧しく母の食事さえ足りないのに、孫に分け与える余裕はない。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。この子を埋めて母を養おう」
妻は悲嘆に暮れたが、夫の言には従うほかなく、三歳の子を土に埋めることにした。
郭巨が涙を流しながら地面を掘ると、黄金の釜が出てきた。釜には、「天が孝行者の郭巨に賜う」と書かれている。郭巨と妻は黄金の釜を掘り出し、子供と一緒に家に帰り、よりいっそう母親に孝行を尽くした。

『二十四孝童子鑑』「郭巨」

「孝」は、儒家思想における最高の徳目とされます。

儒家の説く人倫道徳の根幹となる概念ですが、儒家も元来は政治思想であったことを考え合わせると、「孝」は国家統治の方策でもあります。

上の者を敬えという教えは、上下関係を固定させる方策にほかなりません。
それは統治者にとって頗る都合のいい方策であって、古来儒家が正統思想の座を占めてきた所以でもあります。

むろん親を大切にし目上の者に敬意を払うことは、人の道として然るべきことですが、儒家の説く「孝」は、多分に不合理で理不尽な面があります。

親がどれだけ酷いことや誤ったことをしても、子は文句も言わずに従わざるを得ません。

儒家の儀礼にも不合理なことが多々あります。親の喪に服す三年間は、衣服も食事も粗末にし、遠方には出られず、役人であれば官職を退かなくてはなりません。

昔は、「自由」「人権」「平等」など、そういう言葉すら存在しない時代ですから、当時の人々にとっては不合理でも理不尽でもなく、それがごく当然のことでした。

日本でも、『二十四孝』が伝来した当初は、学童の道徳教材にも用いられたように、儒家の教えをそのまま無批判に受け入れていました。

近代に至って、福澤諭吉が『学問のすすめ』(八編)で『二十四孝』を痛烈に批判しています。

以下は、「郭巨」の話について述べた部分です。

父母を養うべき働きもなく、途方に暮れて罪もなき子を生きながら穴に埋めんとするその心は、鬼とも云うべし蛇とも云うべし。天理人情を害するの極度と云うべし。(中略)畢竟この孝行の説も、親子の名をただし、上下の分を明らかににせんとして、無理に子を責るものならん。

福澤諭吉『学問のすすめ』(初版)

さて、「董永」の話は、天女伝説でもあります。

中国の民間説話には、「天帝の命を受けた天女が人間界に降りてくる」というプロットの系譜があります。

天界で何らかの罪を得て俗界に謫せられる場合が多く、また人間の男と結婚したり富貴をもたらしたりする場合もあります。

『捜神後記』に見える「田螺の天女」の話は、「董永」の話によく似た天女伝説です。

幼くして両親を亡くし、真面目で働き者の男がいた。貧しくてまだ嫁がいなかった。
ある時、村はずれで大きな田螺タニシをみつけ、家に持ち帰り、かめの中に入れておいた。
その後、男が野良仕事に出て、家に戻ると家にはご飯が炊いてあって、お湯も沸いていた。
そんなことが何日も続いたので不思議に思い、早く家に帰ってこっそり家の中を覗いた。
すると、甕の中から年若い娘が出てきて、かまどで炊事を始めた。
こうして正体を知られてしまった娘は、男に言った、
「わたしは天の川から来た天女です。あなたが真面目で正直者なので、天帝があなたの世話をするようわたしに命じました。十年のうちにあなたをお金持ちにしてお嫁さんを貰えるようにしてから天に帰るつもりでした。でも、今正体を知られてしまったからには、もう留まるわけにはいきません」
そう言い終わると、突然辺りに雨風が起こり、娘は天高く舞い上がって去って行った。

善行の話は、親孝行ばかりではなく、この物語のように勤勉で正直な生き方が報われるという話もあります。

「田螺の天女」の話も「董永」の話と同様に、人の殊勝な行いに天帝が感動して福運を授けるという物語です。

庶民にとって報われることの少ない封建社会に在って、「善い行いをすれば必ず善い報いがある」というシンプルなメッセージが込められています。

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