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『水滸伝』の英雄豪傑①~宋江

中国明代の長編小説『水滸伝』には、数多の英雄豪傑が登場します。
その中から代表的な人物を何人か選んで取り上げます。

第1回は、宋江(そうこう)です。

『水滸伝』については、以下をご参照ください。


宋江

宋江は、北宋末に反乱軍の領袖であった実在の人物である。

正史『宋史』に、

宋の徽宗きそうの宣和年間(北宋末)、宋江そうこうら36人の盗賊が山東で叛乱を起こし、一時大いに官軍を悩ましたが、のち降伏した。

という内容の簡単な記述がある。

小説『水滸伝』では、宋江は、渾名を及時雨きゅうじう、または呼保義こほうぎと言い、梁山泊りょうざんぱくの頭領の役割を担っている。好漢108人の筆頭である。

宋江は、地主の家の出身で、もとは県の小役人であった。風采の上がらない色黒の小男であったが、義を重んじて財を軽んじ、誰に対しても公平な態度で接したため、周囲の人々みなから敬愛されていた。

晁蓋ちょうがいらがさい太師の誕生祝いの財宝を強奪した事件を見逃すが、この件を知って宋江を脅した妾の閻婆惜えんばしゃくを殺してしまい、逃亡を余儀なくされ、流浪の末に梁山泊に落ち延びる。

のち、梁山泊の頭領となった宋江は、「替天行道」(天に替わって道を行う)をスローガンに掲げ、これが梁山泊の義侠の指針となった。

『水滸伝』の思想傾向には明らかな矛盾がある。物語の前半では、英雄豪傑たちの反抗のさまを痛快に描いて読者の共鳴を得る一方、後半では、宋江らが朝廷に帰順して各地の反乱を平定するさまを延々と克明に語っている。

こうした矛盾が起こるのは、実は決して不思議ではない。中国の統治者は、人民の反抗に対して、古来「討伐」(武力弾圧)と「招撫」(懐柔)の二つの手段を巧みに用いてきた。時には強硬に、時には柔軟に、臨機応変に両者を使い分けているのである。

「乱は上よりおこり、官せまりて民反す」と言うように、世の乱れは為政者に起因し、役人が抑圧すれば民衆は反抗する。しかしながら、当時の社会では、庶民が皇帝の権力を否定するような思想を持つことはありえない。悪徳官吏に反抗するだけで、皇帝には反抗しない。これが、時代が『水滸伝』に与えた限界である。

『水滸伝』では、帰順の結末が実に悲惨に描かれている。108人の英雄豪傑たちは、各地の反乱の平定に駆り出され、戦死したり負傷したりして離散してしまう。

作者は明らかに彼らに同情を示す描き方をしている。これは『水滸伝』の成り立ちを考えれば当然のことである。『水滸伝』は、『三国志演義』と同様に、元は盛り場での講釈であった。したがって、そこには庶民の判官贔屓の心情が反映されるのである。

一方、高俅こうきゅう蔡京さいけいら悪徳官僚らは敵役として、徹底的に醜悪に描いている。しかしながら、こうした奸臣を重用したのは皇帝であるから、いかに悪辣であっても官僚に対する批判は、間接的に体制批判でもある。

とすると、体制側の立場からは、『水滸伝』は、無頼の徒を擁護し、体制に反抗する者を鼓舞激励するものということになる。『水滸伝』が、しばしば「誨盗かいとうの書」(盗賊になることを教える書物)と見なされ、禁書の筆頭に挙げられた原因も正にそこにある。

『水滸伝』の思想の矛盾は、宋江の人物形象に集約的に見ることができる。
宋江は、無名のまま郷里に埋もれることに甘んじることができず、いつかは政界で活躍したいと願っていた。

やむを得ない情況に追い込まれて梁山泊に仲間入りしたのであるが、それでも終生盗賊を続けるつもりはなかった。李贄りしが『忠義水滸伝』の序文で、

宋江は、身は水滸の中に置けども、心は朝廷にあった。ひたすら帰順勧告を待ち望み、国のために尽力するつもりでいた。

と述べているのは、宋江のどっちつかずの態度を言い当てている。

梁山泊の英雄豪傑たちがその名を天下に轟かせたのは宋江の功績であるが、彼らを帰順へと導き、結果的に悲劇を招いたのもまた宋江であった。

宋江(年画)




粤劇「宋江怒殺閻婆惜」


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