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中国古典インターネット講義【第16回】『十八史略』『蒙求』~初学者のための歴史教材
前回は、『史記』と『資治通鑑』についてお話ししました。
今回は、『十八史略』と『蒙求』です。
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『十八史略』
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『十八史略』の構成
『十八史略』の著者曾先之は、字は孟参、宋末元初の人です。
『十八史略』は、初学者向けの歴史教材です。太古の神話伝説の時代から南宋王朝滅亡までのことを記しています。
『史記』以下の「正史」は、人物の伝記を中心に構成する「紀伝体」で書かれています。
紀伝体の史書は、歴史の中の一人一人の人物について詳しく知るには優れた記述方法ですが、ある時代全体の動向や、特定の歴史的事件の推移を大きく把握するには少々不便です。
しかも、中国の歴史を初めて学ぶ者にとって、正史はあまりにも膨大です。
そこで、『十八史略』は、中国数千年の歴史について、必要最小限の知識を簡潔に記述し、かつ人口に膾炙した故事を織り混ぜて、面白く読めるように工夫されています。
『十八史略』は、文字通り、18種の史書のダイジェストです。
その18種とは、以下のものを指します。
『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『陳書』『後魏書』『北斉書』『周書』『隋書』『南史』『北史』『新唐書』『新五代史』(以上、17種の正史)、および、18番目の史料として、当時未完の『宋史』に代わる史料として用いられた『続宋編年資治通鑑』『続宋中興編年資治通鑑』『宋季三朝政要』など。
但し、宋以前の記述については、直接正史に拠らず、司馬光の『資治通鑑』に拠ったものが多くなっています。
『十八史略』の刊本
『十八史略』の刊本には、元代に編纂された二巻本と、明代に改編された七巻本の系統があり、現在通行しているのは七巻本の方です。
両者の間には、巻数だけでなく、記述内容にも大きな違いが見られます。
例えば、南宋末期に元王朝に抵抗した文天祥らの事跡について、二巻本では、時の王朝である元に憚って簡単に記しているのに対して、七巻本では、これを意図的に大きく取り上げています。
また、魏・呉・蜀の三国の記述においても、二巻本は魏を正統とするのに対して、七巻本は蜀を正統としています。魏と蜀のどちらを正統と見なすかは時代によって度々入れ替わっており、明代は『三国志演義』がそうであるように、蜀を正統の王朝としています。
これは、前回(第15回)で述べたように、成立した時代によって記述内容が変わるという中国史書の「体質」を端的に表す例です。
『十八史略』の価値
『十八史略』は、いわば他書からの抜き書きをつなぎ合わせたダイジェストであり、歴史に対する独自の見解を示しているわけでもなく、史書としての評価は低いものです。
『十八史略』の価値は、ひとえに簡便さにあり、中国よりもむしろ日本において、中国史の入門書として古くから親しまれています。
特に江戸時代に大流行し、今日でも漢文教材として広く使われています。
現代中国では、全く顧みられておらず、ほとんど無名に近い書物です。
「臥薪嘗胆」を読む
『十八史略』の「春秋戦国・呉」の巻から、「臥薪嘗胆」の歴史故事を抜粋で読んでみましょう。
春秋時代、長江下流域の2つの大国、呉と越は、絶えず激しい戦いを繰り返していました。
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「臥薪嘗胆」の故事
呉は姫姓なり、太伯・仲雍の封ぜられし所なり。十九世にして寿夢に至り、始めて王を称す。寿夢の後、四君にして闔廬に至る。伍員を挙げて、国事を謀る。員、字は子胥、楚人伍奢の子なり。奢、誅せられて呉に奔り、呉の兵を以いて郢に入る。
呉、越を伐つ。闔廬傷つきて死す。子の夫差立つ。子胥復た之に事う。夫差讎を復せんと志す。朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰く、「夫差、而は越人の而の父を殺ししを忘れたるか」と。
呉は(周王室と同じ)姫姓であり、太伯と仲雍が封ぜられた国である。それから19代を経た寿夢の時に初めて王と称した。寿夢から4代を経て、闔廬に至った。闔廬は伍員を重用し、国政を諮った。伍員は字を子胥といい、楚の人である伍奢の子である。父の奢が楚王に殺されたので、伍員は呉に亡命し、後に呉の軍隊を率いて楚の都の郢に攻め込み父の仇を討った。
その後、呉は越を攻めた。その戦いで、闔廬は負傷して死んだ。子の夫差が位についた。子胥はまたこの夫差にも仕えた。夫差は仇討ちをしようと決心した。そこで、朝夕薪の中で寝起きし、そこを出入りする際に臣下に命じてこう言わせた。「夫差よ、お前は越の人間がお前の父親を殺したのを忘れたのか」
周の敬王の二十六年、夫差、越を夫椒に敗る。越王勾践、余兵を以いて会稽山に棲み、臣と為り妻は妾と為らんと請う。子胥言う、「不可なり」と。太宰伯嚭、越の賂を受け、夫差に説きて越を赦さしむ。
勾践、国に反り、胆を坐臥に懸け、即ち胆を仰ぎ之を嘗めて曰く、「女会稽の恥を忘れたるか」と。国政を挙げて大夫種に属し、而して范蠡と兵を治め、呉を謀るを事とす。
周の敬王の二十六年、夫差は越を夫椒で破った。越王勾践は、敗残兵を率いて会稽山に立てこもり、自分は臣下となり妻は召使いとなるから命だけは助けて欲しいと懇願した。子胥は「だめだ、赦すべきではない」と進言した。ところが、越から賄賂を受け取っていた宰相の伯嚭が、夫差を説得して越王を赦させてしまった。
勾践は国に帰り、苦い胆を寝起きする部屋につるし、その胆を仰いでなめ、「お前は会稽で受けた恥を忘れたのか」と自らを叱咤した。国の政治はすべて大夫の文種に任せ、范蠡と兵の訓練に当たり、呉を倒すことに専念した。
越十年生聚し、十年教訓す。周の元王の四年、越、呉を伐つ。呉三たび戦い三たび北ぐ。夫差姑蘇に上り、亦成を越に請う。范蠡可かず。夫差曰く、「吾以て子胥を見る無し」と。幎冒を為りて乃ち死す。
越は10年間人口や物資を増やして国力を高め、10年間兵を教育・訓練した。周の元王の四年、越は呉を攻めた。呉は三度戦い、三度とも敗れた。夫差は姑蘇台に逃げて登り、今度は自分から越に和睦を願い出た。しかし、范蠡は聞き入れず、越王は和睦を受け入れなかった。夫差は言った、「私は子胥に合わせる顔がない」。そして、死者の顔を覆う布を作って、それをかぶって自害した。
『十八史略』は、このように複数の国に跨がり、登場人物が多い話の場合、その経緯をコンパクトに知るにはとても便利です。
しかし、そうなると当然のことながら、話を省略したり短縮したりということが多くなりますので、正史など元の文献に当たらないと十分な理解ができなかったり誤解してしまったりということが起きます。
「臥薪嘗胆」の話でも、例えば、伍子胥が父の仇を討つ場面は、「奢、誅せられて呉に奔り、呉の兵を以いて郢に入る」と簡単に記されていますが、伍奢を誅殺したのが楚の平王であることも書かれていませんし、またその息子伍子胥が郢に攻め入った時、平王はすでに死んでいたので、伍子胥はその墓をあばいて屍を取り出し、300回鞭打って父の仇を討った、という迫力あるエピソードも削ぎ落とされています。
つまり、『十八史略』は、とりあえずざっと粗筋だけつかむというごく初歩的、入門的な歴史書であると言えます。
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