中国古典インターネット講義【第9回】杜甫~詩聖、国を憂い我が身を愁う
杜甫の経歴
唐代の詩人杜甫は、「詩聖」と称されています。
「詩仙」と呼ばれた李白と並んで、中国歴代の詩人の双璧です。
杜甫(712~770)は、字を子美、号を少陵野老、鞏県(河南省洛陽の東)で生まれました。
父親は、奉天(陝西省)の県令、祖父杜審言は、高名な宮廷詩人という由緒ある家柄です。
卓越した詩才に恵まれ、7歳にして詩文を作り、神童ぶりを謳われたといいます。「開元の治」と呼ばれる玄宗の治世に少年時代を過ごしました。
しかし、仕官への道は平坦なものではありませんでした。24歳の時に科挙の試験を受けますが落第し、のちに、長安で制挙(皇帝が詔して臨時に行う特別任用試験)に応じますが、これにも落第します。
その後、都長安でおよそ10年間、有力者に詩を献じて自らを売り込みながら官職を求める生活が続きます。
天宝14載(755)、44歳の時、初めて官に就きます。右衛率府兵曹参軍(東宮護衛軍の武器係)という低い官職ですが、ともあれようやく念願が叶いました。
ところが、同年、安史の乱が勃発します。久しく太平の夢をむさぼっていた唐王朝に突如として嵐が差し迫ります。
この時、杜甫は、家族を連れて鄜州(陝西省)に避難します。
いよいよ都長安に危機が迫ると、玄宗は蜀(四川省)に逃れ、その間に太子の李亨が即位します。
これを知った杜甫は、新帝粛宗の行在所に単身で馳せ参じようとしますが、途中で賊軍に捕らえられ、長安に連れ戻されて幽閉の身となります。
「春望」
五言律詩「春望」は、こうして長安で軟禁生活を送っていた至徳2載(757)の春、杜甫46歳の作です。
――国は破壊されてしまったが、山や河は昔のままの姿を留めている。
荒れ果てた都にも春が訪れ、草木がこんもりと茂っている。
乱れた時世に心を痛め、春の花を見ても悲しくなり涙を落とす。
家族との生き別れを悲しみ、鳥の声を聞いてもハッと不安になる。
冒頭の2句は、人間界の儚いさまと自然界の悠久たるさまを対比して歌っています。
戦乱が続き、興亡の激しい人の世、そうした目まぐるしい人間社会の変転とはまるで関わりがないかのように、自然の山河は超然として存在し、四季の運行は永続的に営まれていきます。
平時であれば目を喜ばすはずの美しい春景色を眺めても却って悲しくなり、耳に心地よいはずの鳥のさえずりを聴いても却って不安で気が落ち着かなくなります。
――戦乱はやまず、のろしが何ヵ月も続いている。
なかなか届かない妻からの便りは万金にも値するほどだ。
白髪頭を掻けば、髪はますます薄くなり、
冠を留めるかんざしもまったく挿せなくなろうとしている。
当時、成年男子は、人前では必ず冠をつける習わしでした。かんざしが挿せないほど髪が薄くなったというのは、ただ年を取ったことを表すだけではなく、役人でありながら社会の基本的な礼儀作法を守ることすらままならない我が身の情けなさを哀しんだものです。
「春望」は、荒廃した都長安の光景を目の前にして、人の世の無常に感慨を抱き、戦火のやまない国情を憂い、音信の絶えた家族を案じ、そうした状況の中で何一つできずに老い衰えてゆく我が身の零落を嘆いた詩です。
この詩は「公」(天下国家)と「私」(自分と家族)が表裏一体となって、同じ問題として並べて歌われています。
頷聯・頸聯では、時世の惨状と個人の窮状とが上句と下句で交互に歌われ、首聯で国や都のありさまを以て歌い起こし、尾聯で我が身のありさまを以て結ぶという構成になっています。
天下の事を我が事とする儒家的な使命感の表れなのでしょう。杜甫が後世「詩聖」と讃えられる所以です。
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