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【心に響く漢詩】陶淵明「歸園田居」~俗世のしがらみを捨て去って

陶淵明

    歸園田居   園田(えんでん)の居(きょ)に帰(かえ)る
               東晋(とうしん)・陶淵明(とうえんめい)

  少無適俗韻  少(わか)きより俗(ぞく)に適(てき)する韻(いん)無(な)く
  性本愛邱山  性(せい) 本(もと) 邱山(きゅうざん)を愛(あい)す
  誤落塵網中  誤(あやま)りて塵網(じんもう)の中(うち)に落(お)ち
  一去三十年  一(ひと)たび去(さ)りて 三十年(さんじゅうねん)

  羈鳥戀舊林  羈鳥(きちょう) 旧林(きゅうりん)を恋(こ)い
  池魚思故淵  池魚(ちぎょ) 故淵(こえん)を思(おも)う
  開荒南野際  荒(こう)を開(ひら)く 南野(なんや)の際(さい)
  守拙歸園田  拙(せつ)を守(まも)りて園田(えんでん)に帰(かえ)る

  方宅十餘畝  方宅(ほうたく) 十余(じゅうよ)畝(ほ)
  草屋八九閒  草屋(そうおく) 八九(はちく)間(けん)
  楡柳蔭後簷  楡柳(ゆりゅう) 後簷(こうえん)を蔭(おお)い
  桃李羅堂前  桃李(とうり) 堂前(どうぜん)に羅(つら)なる

  曖曖遠人村  曖曖(あいあい)たり 遠人(えんじん)の村(むら)
  依依墟里煙  依依(いい)たり 墟里(きょり)の煙(けむり)
  狗吠深巷中  狗(いぬ)は吠(ほ)ゆ 深巷(しんこう)の中(うち)
  鷄鳴桑樹顚  鶏(とり)は鳴(な)く 桑樹(そうじゅ)の顚(いただき)

  戸庭無塵雜  戸庭(こてい) 塵雑(じんざつ)無(な)く
  虚室有餘閒  虚室(きょしつ) 余間(よかん)有(あ)り
  久在樊籠裏  久(ひさ)しく樊籠(はんろう)の裏(うち)に在(あ)りしも
  復得返自然  復(ま)た自然(しぜん)に返(かえ)るを得(え)たり

 陶淵明は、東晋の詩人です。潯陽(江西省)の出身で、大司馬(中央の軍事長官)であった陶侃(とうかん)の曾孫に当たりますが、淵明が生まれた頃には、家はすでに没落していました。

 二十九歳で江州(江西省)で祭酒(学政を掌る長官)として仕官しますが、程なくして辞任します。のち、幾度か出仕しますが、いずれも長くは続きませんでした。

 四十一歳の時に彭沢(江西省)の県令を辞した後は、俗世での栄達を断念して郷里に帰り、時の政治に関わることなく、悠々自適の隠居生活を送りました。

 陶淵明の生きた時代は、六朝の前半、貴族文学が全盛期を迎えようとしていた時代です。その頃の詩文は、思想や情感よりも形式的な技巧に力が注がれる傾向を強めていました。

 詩人たちは、修辞の上手さを競うようになり、その結果、詩風は華美で繊細なものになり、しだいに空虚で生気に欠けるものとなっていきます。

 こうした時代風潮の中にありながら、陶淵明は、平明で古朴な言葉の中に自然の興趣と人生の真理を求める独自の清遠な詩の世界を築きました。

 「歸園田居」は、五言古詩の五首連作です。
 帰隠した翌年、義煕二年(四〇六)、陶淵明四十二歳の作です。官界での不本意な生活に別れを告げ、郷里に帰って悠々自適の隠居生活を送る喜びを歌ったものです。

 ここでは、五首の中の第一首を読みましょう。

少(わか)きより俗(ぞく)に適(てき)する韻(いん)無(な)く
性(せい) 本(もと) 邱山(きゅうざん)を愛(あい)す

――若い頃から、俗世と調子を合わせるのが苦手で、生まれつき、丘や山の自然が好きだった。

 「俗に適する韻」は、俗世に適応する気質。
 「性」は、生まれつきの性分。
 「邱山」は、田園の素朴な自然を代表します。

誤(あやま)りて塵網(じんもう)の中(うち)に落(お)ち
一(ひと)たび去(さ)りて 三十年(さんじゅうねん)

――ふと誤って、俗世のしがらみの中に落ち込んだ。ひとたび郷里を離れてから、三十年もの歳月が過ぎてしまった。

 「塵網」は、俗世の束縛。しがらみの多い役人生活を指します。
 「三十年」は、長い年月をいう概数です。古くは、人生六十年ですから、三十年は人生の半分の歳月をいいます。

 ちなみに、陶淵明が初めて官職に就いたのが、二十九歳で江州の祭酒となった太元十八年(三九三)であり、四十二歳で彭沢県令を辞任する義煕元年(四〇五)までが、ちょうど十三年であるため、「三十」は「十三」の誤りだとする説があります。多くのテキストでは、詩の原文そのものを「十三」に改めていますが、これは妥当ではありません。詩は、必ずしも事実通りにきちんと数字を合わせて作るものではありません。

羈鳥(きちょう) 旧林(きゅうりん)を恋(こ)い
池魚(ちぎょ) 故淵(こえん)を思(おも)う

――籠に繋がれている鳥は、もといた林を恋しく思い、池の中に飼われている魚は、もといた川の淵を懐かしがる。

 「羈鳥」と「池魚」は、本来は大空を飛び回り、川を泳ぎ回っているはずの鳥や魚が、その自由を奪われている姿です。いずれも、役人として窮屈な生活をしていた陶淵明自身を喩えます。

荒(こう)を開(ひら)く 南野(なんや)の際(さい)
拙(せつ)を守(まも)りて園田(えんでん)に帰(かえ)る

――南の野原の辺りを開墾して、不器用な生き方を守り通そうと思い、故郷の田園に帰ってきた。

 「拙」は、世渡りが下手なこと。愚直で要領の悪い生き方ではあっても、小賢しい知恵を働かさない、世俗におもねらない、という信念を持った生き方をいいます。

 「拙」や「愚」「狂」「痴」など、一見字面の悪い文字で表される概念は、古代中国の文人がこれらを自称する場合、それは卑下や謙遜ではなく、むしろ己の生き様を表明する自己主張の言葉です。「拙」は、陶淵明の文学を理解する上でのキーワードの一つです。

方宅(ほうたく) 十余(じゅうよ)畝(ほ)
草屋(そうおく) 八九(はちく)間(けん)

――宅地は、十畝あまりの広さがあり、草ぶきの家屋は、八つか九つほどの部屋がある。

 「畝」は、面積の単位。一畝は約五アールですから、十畝は約五十アール(千五百坪)に相当します。
 そして、部屋が八つ九つといえば、我々の感覚では大豪邸です。しかし、地方長官の屋敷としては、ごく普通の広さで、特別広い方ではありません。この数字は、居心地がいい適度な広さ、というくらいのニュアンスで使っています。

楡柳(ゆりゅう) 後簷(こうえん)を蔭(おお)い
桃李(とうり) 堂前(どうぜん)に羅(つら)なる

――ニレやヤナギが家の裏の軒先を覆って生い茂り、モモやスモモが座敷の前に立ち並んでいる。

 「後簷」は、家屋の裏側の軒先。楡や柳が涼しい木陰をなしています。
 「堂」は、表座敷、南向きの広間。桃や李は花が咲き実を結ぶ木なので、通常、家の前面に植えます。

 ちなみに、陶淵明の自伝「五柳先生伝」には、家の周りに五本の柳があるので、それにちなんで自らの号とした、と記されています。

曖曖(あいあい)たり 遠人(えんじん)の村(むら)
依依(いい)たり 墟里(きょり)の煙(けむり)

――遠くの人里が、ぼんやりとかすんで見える。村の家々から、炊煙がゆらゆらとたなびいている。

 「墟里の煙」は、村落の人家から立ちのぼる炊事の煙。牧歌的な農村風景が描かれています。

狗(いぬ)は吠(ほ)ゆ 深巷(しんこう)の中(うち)
鶏(とり)は鳴(な)く 桑樹(そうじゅ)の顚(いただき)

――イヌは奥まった路地裏で吠え、ニワトリは桑の木の上で鳴いている。

 この二句は、漢代の楽府「鶏鳴」に、「鶏は鳴く高樹の巓(いただき)、狗は吠ゆ深宮の中」とあるのを踏まえています。

 犬と鶏の鳴き声は、平和な農村風景を象徴するものです。『老子』第八十章に、「小国寡民」の農村形態を描いた場面で、「隣国相望み、鶏犬の声相聞こゆるも、民老死に至るまで、相往来せず」(隣の国がすぐそこに見え、鶏や犬の声が聞こえてくるほど近いのに、民は老いて死ぬまで互いに行き来しない)とあります。

戸庭(こてい) 塵雑(じんざつ)無(な)く
虚室(きょしつ) 余間(よかん)有(あ)り

――敷地内には、俗世のごたごたと煩わしい雑事はない。がらんとして閑寂な部屋には、あり余るほどのゆったりとした時間が流れている。

 家にあるのは、樹木など自然のものばかり。そこに役人が車馬に乗ってやってくることもない。つまり、自宅の庭が、俗世の臭いを感じさせない清々しい空間であることをいいます。朝から晩まで雑事に追われる役人生活から解放された心境を歌っています。

久(ひさ)しく樊籠(はんろう)の裏(うち)に在(あ)りしも
復(ま)た自然(しぜん)に返(かえ)るを得(え)たり

――ずいぶんと長い間籠の中にいたが、やっとまた本来の自然な生活に立ち返ることができた。

 「自然」は、ここでは山川の自然物のことではなく、「自(おの)ずから然(しか)り」、つまり、本来的なありのままの状態、本性を歪めたり無理をしたりしない自由自適な生き方をいいます。老荘思想の「無為自然」に基づく言葉です。

 「歸園田居」は、俗世での役人生活を捨て去って、郷里に帰隠することを決心した時の心境を歌った詩です。

 よく知られている「帰去来の辞」という文章も、制作時期やテーマが同じものです。これには序文が付されていて、そこには彭沢県令を辞職したいきさつが詳しく述べられています。要約すると、次のようになります。

 わたしは家が貧しく、農耕だけでは生活できないので、やむをえず仕官することにした。叔父の口利きで家から百里ほどの彭沢県の知事となったが、もともと役人生活は性に合わず、しばらくすると帰郷の念に駆られた。
 自分の本心に違う生活が辛く、あと一年ほど勤めたら辞めようと思っていた。ちょうどそこへ、程氏に嫁いだ妹が亡くなったという知らせが届いたので、それを口実にきっぱり辞職することにした。知事の職に在ったのは僅か八十日余りであった。

 この序文によれば、仕官は自分の本意ではなく、生計のために仕方なくしたことであり、早々と辞職したきっかけは妹の死去である、ということになります。

 ところが、正史『宋書』の「隠逸伝」が伝えるところでは、帰隠の理由はまったく別で、次のような逸話が記載されています。

 彭沢県に監察官が訪れることになった。県の役人達は県令の陶淵明に礼装して出迎えるよう進言したが、この監察官がたまたま同郷の若造だった。
 そこで陶淵明は、「我五斗米の為に腰を折りて郷里の小人に向う能わず」(安月給のために同郷の小僧に頭が下げられるか)と言い放って、即日辞職した。

 威勢よく啖呵を切って去る姿は、陶淵明の高潔なイメージとして定着していますが、この話はどうやら作り話です。

 中国の歴史書には、この類の人物を特徴づける逸話や伝承がしばしば挿入されていて、それらは史実とは違うことがしばしばあります。

 詩文に付す序文の類も、往々にして虚飾やポーズが入りがちなので、書かれていることがすべて本当であるとは限りません。しかし、帰隠のいきさつについては、自ら事情と本音を語っている「帰去来の辞」の方が、より信憑性が高いと考えてよいでしょう。

 いずれにしても、陶淵明は、四十代前半で官界から身を引き、その後は、郷里で悠々自適の生活を送っています。

 但し、それが具体的にどのような生活であったかについては、詩に歌われていることは額面通りに受け取れないこともあるので注意が必要です。

 詩の中では、田園で荒れ地を耕す云々とありますが、これは帰隠生活をいう様式化された詩的表現であって、陶淵明自身が実際に鋤や鍬を担いで野良仕事をしたわけではありません。官界を退いたとはいえ、県令を務めた士大夫階級の人間ですから、一般庶民とはまったく身分が違うのです。

 なお、中国の隠者というのは、俗世の規範が及ばない治外法権的な精神生活を許された一種の社会的ステータスです。世を避けることによって、世にその地位を保ち、高潔な生き方を示すのです。

 ですから、田舎や山奥にこもって世間と没交渉になるわけではなく、隠者としての名声が高まり、却って土地の名士たちとの交流が頻繁になります。陶淵明の場合も、帰隠の後に、地方の有力な官僚や高名な詩人たちと親交を結んでいます。

 陶淵明の詩は、田園の日常生活に題材を取りながら、淳朴な暮らしの中で会得した人生の真情を歌っています。淡々とした地味で素朴な表現の中に、人間本来の自然な生き方を模索した思想性の強い作品を多く残しています。

 酒と菊を愛し、田園詩人、隠逸詩人の祖と称され、後世の詩人たちに与えた影響は絶大なものがあり、六朝随一の詩人とされています。

 ところが、実は、貴族文学の全盛期であった当時にあっては、高い評価を受けませんでした。門閥貴族の詩人たちの目には、陶淵明の詩は、垢抜けていない、田舎臭い、野暮ったいと映ったのでしょう。

 陶淵明の真価が見出されたのは、唐代以後、特に王維や孟浩然らが標榜してはじめて高い評価を受けるようになりました。

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