【中国の思想と文化】「佯狂」の哲学
要旨
はじめに
「佯」は、『玉篇』に「詐(いつわ)るなり」とあり、詐る、欺く、うわべを装うなどの意味である。「佯言」(嘘をつく)、「佯睡」(寝たふりをする)、「佯酔」(酔ったふりをする)、「佯死」(死んだふりをする)、「佯病」(仮病を使う)、「佯尊」(うわべだけ尊ぶ)などと用いる。
概して、正体や本心を隠して難を逃れる、関わりを避ける、わが身を安全に保つ、という意味内容である。
「佯狂」とは、狂気を装うことをいう。狂気(医学的な意味での精神異常)を持たない者が、あたかもそうであるかのように偽装することである。
「佯狂」は、多くの場合、有徳者や志を抱く者が、困難な状況において、韜晦的な手段として用いる保身の所作であったり、不如意な事態に陥った際に、それを回避するための方策であったり、あるいは、俗世を離れた高雅な境地を狂態によって示そうとする文人精神であったりするものである。
一 箕子と接輿
(一)箕子
殷王朝の末、紂王の暴政下にあって、それぞれ異なった道を選んだ微子・箕子・比干らを孔子は「三人の仁者」と称えた。
『論語』「微子」篇に、次のようにある。
三人は、その所業と運命は大きく違えど、いずれも、国情を心から憂えた至誠の人であったとしている。
この「三仁」について、『史記』「殷本紀」は、次のように記す。
微子は、殷の帝乙の長子、紂王の庶兄。紂王の治世、王の無道を諫めたが聞き入れられず、国外へ亡命した。
比干は、殷の帝乙の弟。紂王のおじに当たる。同じ頃、比干は、自らの命をかけて王を諫め、ついにその胸を割かれて死んだ。
そして、箕子は、殷王朝末期の賢人。紂王のおじ(一説に、庶兄)。箕子は、比干の末路を見て恐れ、狂人を装い、奴隷の身となった。
以上は、亡国の悲運に遭遇した時の、臣下の身の処し方として対比される三つの典型である。
「殷本紀」では、箕子が恐れをなして狂気を装ったとしているのみであるが、「宋微子世家」では、そのいきさつが詳しく述べられている。
箕子は、紂王が初めて象牙の箸を作った時に、その奢侈がエスカレートするのを危惧した。酒食に溺れる紂王の荒淫無道を諫めたが、聞き入れられず、紂のもとを去るべきとの助言を受けるが、それでは主君の悪を天下に明らかにして、自己弁護をすることに等しいとして、ついに「被髪詳狂」して奴隷の身となった。
「被髪」とは、髪を結ばず、冠もかぶらずに、髪を振り乱すさまであり、未開の異民族の風俗、または、礼法に反した所作をいう。
こうして、箕子は、狂人を装って禍を逃れようとしたが、紂王に捕らえられて、幽閉される。
のちに、周の武王が殷を滅ぼし、武王が箕子のもとを訪れて政治について問うと、箕子は、その該博な学識を以て王道論を説いた。そこで、武王は、箕子を尊び、周の臣下とせずに、朝鮮に封じたという。
『貞観政要』巻七「論礼楽」貞観十四年の項に、
とあるように、箕子は、古来、人々の称賛を得ており、「狂」を装って逃れ隠れた彼の生き方は、非とされてはいない。
司馬遷は「太史公自序」で、
と賛嘆し、『楚辞』「天問」は、
と歌い、紂王を忠直に諫めて塩漬けにされた梅伯と並べて、箕子を「聖人」と呼ぶ。
(二)接輿
箕子と並んで、「佯狂」の系譜の最初に位置づけられる人物が、楚の接輿である。接輿もまた『論語』「微子」篇に登場する。
接輿は、朱熹『論語集注』に、「接輿は、楚人。狂を佯りて世を辟く」とあるように、乱世を避けて狂人の真似をしている隠者である。
乱世に道を説いて回る孔子の前を通り過ぎ、「鳳兮歌」を歌ったとされる。孔子を鳳凰に喩え、聖君が世に現れる時に舞うはずの瑞鳥が、この乱世に現れて鳴くとは、鳳凰も落ちたものだと嘆き、今の世で政治に関わるのは危ないことだ、と孔子を戒めた。
また、『韓詩外伝』巻二に、次のような逸話がある。
ここでは、楚王からの出仕の要請を嫌い、妻と共に逃れて身を隠した接輿の逸話が語られている。
接輿は、おそらく、実在の人物ではなく、伝承上の架空の隠者であろう。これを楚人と設定しているのは、南方の未開で野蛮という含意を持たせることによって、斉魯や中原など北方の文明の地からの距離を置くためと考えられる。
(三)明哲保身としての「佯狂」
箕子と接輿は、同じ類の賢人として、その名を並べて文献に登場することがしばしばある。
例えば、『史記』「范雎伝」に、次のようにある。
「漆身爲厲」は、身体に漆を塗って皮膚を損傷させ、厲(癩病)のように見せかけること。これも「被髪」と同じく、「佯狂」の具体的行為をいう。
また、同じく『史記』の「鄒陽伝」に、
とあり、さらに『荀子』「尭問」篇にも、次のようにある。
狂人を装って世を避けるという箕子や接輿の生き方は、乱世において身の安全を保つ一種の「明哲保身」の処世術にほかならない。
「明哲保身」という言葉は、『詩経』「大雅・烝民」に、「既に明にして且つ哲、以て其の身を保つ」と見えるのに由来するが、こうした世の大勢に逆らわず、賢明に物事を処理して、我が身を災禍から守る、という生き方は、箕子や接輿のみならず、古来、政治に携わる者が、しばしば選んだ道であった。
前掲『荀子』「尭問」篇の上文に、
とあるように、「明哲保身」は、時運に恵まれない者の弁明として用いられる場合が少なくない。
中国人の伝統的な処世観からすると、こうした生き方は、時勢に拘わらず頑なに自己の主張を貫き通す生き方よりも、むしろ評価される傾向にある。古来、比干よりも箕子の方が称えられる所以である。
実は、こうした処世の法は、接輿に諭された孔子自身が、己の生き方として良しとしていた道でもあった。
『論語』「泰伯」篇で、孔子は、次のように語っている。
そして、『論語』の中では、さらに、甯武子・南容・蘧伯玉らに言及し、「明哲保身」の生き方を讃えている。
甯武子の「愚」については、漢・荀悦「王商論」の中でも、接輿の「狂」と並べて言及されている。
口を閉ざしても身を隠しても禍が及ぶような世の中にあっては、「愚」や「狂」を装うのが、唯一残された道であるとしている。
これらは、決して消極的な生き方ではなく、戦乱の絶えることがない中国において、危うい時代を生き抜くために、知識人たちが経験的に培ってきた知恵である。
いわば「折れるよりなびけ」という考え方である。正義を振りかざして、折れてしまうより、流れに逆らわずに、自分の身を安全に保つ方が賢明である、とするのである。
このように、世の中を達観し、時代に即して柔軟に立ち回って自らの進退を見極めるという処世術は、したたかで芯の太い生き方として、古来、中国の人々が認めてきたものである。
『論語』「微子」篇における孔子と接輿との関係は、『楚辞』「漁父」における屈原と漁翁との関係に置き換えることができる。
漁翁が屈原に語った言葉、
そして、漁翁が屈原のもとを立ち去る時に口ずさんだ歌、
これらは、清廉高潔の余り死を選んだ屈原とは対照的な漁翁の達観した物の見方を示すものであり、まさに上に述べた「明哲保身」の処世術そのものである。
前掲の荀悦「王商論」の下文に、
とあるのも、「狂愚」に甘んじることなく乱世を生きながらえることの困難をいうものである。そうした道を選ばずに、汨羅の淵に沈んだ屈原と、立木を抱いたまま枯死したという鮑焦の末路を悼んだものである。
二 荘子における「狂」
(一)『荘子』の中の接輿
『荘子』「人間世」篇の中には、『論語』「微子」篇に見える接輿の話とほぼ同じ話が収められている。
ここでは、天下が太平ならば、聖人は世に出て事業を成就し、天下が乱れていれば、隠れて生命を保全するとあり、隠者接輿の処世観が明白に述べられている。太平の世には太平の世なりの、乱世には乱世なりの生き方があるということである。
この一節は、前掲の『論語』「泰伯」篇に、「天下に道有れば則ち見われ、道無ければ隠る」とあるのを踏まえている。孔子自身が本来心得ているはずの生き方が実践されていないことを揶揄する語気を含むであろう。
「畫地而趨」(地に線を引いて小走りに進むこと)というのは、規範にとらわれ、まっすぐ進んで時勢に逆らうことをいう。そうした危うい儒家流の生き方を否定する一方で、「郤曲」(退いたり曲がったりすること)して難を避けながら生き延びるという道家流の生き方が賢い、と主張している。
上記の「人間世」篇の一節は、さらに次のように続く。
荘子が「無用の用」を説いている寓話の一つである。
狂者として乱世に生きることは、「無用の用」に徹して、不必要な禍を自ら招かないようにする知恵にほかならない。古代賢人の処世術として尊ばれてきた「明哲保身」の道を、荘子は、その独自の哲学思想の中に取り込んでいるのである。
さて、接輿は、「逍遥遊」篇にも登場する。
ここで接輿が語ったとされる藐姑射の神人の話は、超俗の境地を説いた荘子独特の寓話である。世俗の常識にとらわれた人間には、これが理解ができず、大げさで際限のない荒唐無稽な話としてしか聞こえない。そこで、肩吾は、接輿の言を「狂」とみなして信じないのである。
ここの「狂」は、表向きの意味としては「狂」字の原義に近く、常軌を逸して虚妄であることをいう。しかしながら、これが、まさに荘子流の逆説(パラドックス)である。世俗の人間が「狂」とするものにこそ、荘子は、本当の価値を認めているわけであり、気違いじみて聞こえる「狂言」こそが真理を言い当てた「至言」にほかならないのである。
「応帝王」篇でもまた接輿が登場し、肩吾に聖人の道を教えている。
中始は、伝統的な儒家思想を代弁する架空の人物であり、君主自らが常法・規範となって民を教化するという孔子の徳治主義を唱える。接輿は、これを実現不可能な「欺徳」(嘘偽りの徳)として退ける。
ここでは、接輿は、聖人の治は「外」(天下)を治めることではなく、「内」(自己の内面)を正しく修めることが根本である、という荘子の中核的思想を語る役を担っている。
(二)「猖狂」
さらに、『荘子』の中には、上で述べてきたものとはやや異質な独特の「狂」の用例が見られる。
「山木」篇には、無為自然を実践している理想の国のことが、次のように語られている。
『老子』第八十章の「小国寡民」の共同体と相通ずる社会である。儒家の唱える「義」や「礼」とは無縁であり、人々は勝手放題に振る舞い、それでいて、大いなる道を踏みはずすことがないという。
ここでいう「猖狂」とは、自由気まま、思うがままの意であり、こだわりやとらわれのない無心の境地をいう。
「在宥」篇に、鴻蒙の言として、
とあるのと同じで、老荘の哲学理念を感覚的にとらえた言葉であり、儒家の価値観に対峙するものとして、肯定的な意味が賦与されている。
また、「庚桑楚」篇では、老子の弟子庚桑楚が、「至人」(至徳の聖人)についての伝聞を次のように語る。
ここでの「猖狂」も、無為の治が実現されている世において、民がどこへ行こうという当てもなく、ただ思うがままに振る舞うさまをいい、悠然とした自由自適の境地を表す。
さらに「山木」篇には、太公任が至人の道を説き、功名にとらわれている孔子を諭す場面がある。
至人たる者は、功績や名声を求めることなく、「純純常常」(ぼんやりとして思慮を用いないさま)として、「狂」のごとくであると語っている。
ここでいう「狂」は、狂愚のさまを装って、自らの徳を顕現しないようにカモフラージュするものであると同時に、「狂」という心のあり方自体に、自由気ままで、無欲無心、という道家の価値観における肯定的な意義が認められる。
「知北遊」篇の冒頭に、「無為謂」(道の体現者)に次いで道を得た者として、「狂屈」という架空の人物が登場するが、この命名もまた同じ認識によるものである。
接輿に冠されている「狂」の字についても、『荘子』の中に置かれている場合には、やはり同様の視点で捉えるのが妥当であろう。つまり、『荘子』に登場する接輿の「狂」は、「佯狂」であることに加えて、さらに、それにも増して「猖狂」の意味合いを強く持つと考えられるのである。
広く言えば、道家思想の中で語られる時、「狂」は、危難を避ける目的の保身を意味するだけではなく、何物にも束縛・制約されることのない、思うがままの心の状態を意味するものである。ひいては、個人の安心立命、絶対的自由の精神という荘子の中核的思想に繋がっていく概念が含まれるものと考えられる。
このことは、「佯狂」の系譜上にある後世の文人たちの中に、阮籍や李白など、道家的な思想傾向の強い者が多く見られる所以でもあろう。
三 阮籍における「狂」
南朝宋・劉義慶の『世説新語』は、魏晋の際のさまざまな人間模様を克明に描いている。
「任誕」篇をはじめとする諸篇には、自由奔放に振る舞い、礼教や世俗に反した奇行・狂態を以て真の人間らしさを追求した文人たちの姿を垣間見ることができる。
世に「竹林の七賢」と呼ばれる名士たちがその典型であり、中でも阮籍が代表的な存在である。
『晋書』「阮籍伝」に、
とあり、その奔放不羈な性癖をよく伝えている。当時の人々は、彼を「痴」と呼んだという。
魏晋は、老荘思想が盛行した時代であり、阮籍にも「大人先生伝」「達荘論」など、老荘思想に基づく論著がある。
阮籍には、反礼教的な韜晦の処世態度を物語る逸話が多い。特に、酒にまつわる話が多く、母親の葬儀で泥酔して足を投げ出したまま弔問客に応対したという話(『世説新語』「任誕」篇)は有名である。
この他にも、「司馬昭が息子の司馬炎のために阮籍の娘を嫁に迎えようとしたが、それを嫌った阮籍は、六十日間泥酔し続けて、縁談を切り出す機会を与えなかった」という話、「司馬昭の座にあって、ただ一人あぐらをかいて酔っぱらって平然としていた」という話、「気の向くまま、どこまでも馬車を奔らせて、行き止まりになると大声で泣いて帰ってきた」という話などがよく知られている。
これらの奇行・狂態は、一種の自己防衛であり、狂気を装うことで、自分に対する風当たりをなくそうとしたものであるとされている。魏晋の際に、曹氏から司馬氏へと権力が移ってゆく不安定な政情の中、陰惨で血腥い出来事が相次いだ厳しい時代における処世術である。
前掲「阮籍伝」の下文に、次のようにある。
生命を全うすることができなかった名士とは、嵆康らのことを指している。嵆康は、道士孫登に「君才は則ち高し、保身の道は足らず」(『世説新語』「棲逸」篇)と言われ、これが、のちの刑死を予言することになった。 阮籍が、日々酔態を呈したのは、こうした時代の危うさゆえであった。
『世説新語』「徳行」篇に、
とあるように、阮籍の庇護者であった司馬昭は、阮籍のことを「至慎」(きわめて慎重)と評している。
阮籍の一連の奇矯な行動は、根っからの奔放で偏屈な性癖によるものではなく、その裏には、彼なりの緻密な計算があってなされているのである。
阮籍のこうした振る舞いは、単に消極的な逃避や自己防衛としてなされたものではなく、一種の積極的な自己主張、自己表現でもあったと考えた方がよいであろう。
儒家の倫理道徳に相反する奇行・狂態は、道家流の生き方を実践しようとするものであり、老荘的な自由の境地を追求するものである。
当時、こうした奇行・狂態そのものが、世俗を超脱した高雅な文人精神を寄託した士大夫の行動様式として、もてはやされる時代風潮があった。そうした風潮の中で、「狂」や「痴」は、決して誹謗の言葉ではなく、むしろ、一種の褒め言葉であった。
阮籍が、母親の葬儀で見せた狂態は、まさに荘子の妻が死んだ時の寓話(『荘子』「至楽」篇)を実践したようなものである。
裴令公(裴楷)の言にあるように、阮籍は「方外之人」を演じているのである。「方外之人」は、礼教道徳に基づいた規範・常識といった枠から外れた人間をいう。そこには、我は世俗を超越した世界に遊んでいるのだ、という自負がある。
さらに、『荘子』「田子方」篇に、宮廷に召されても、礼儀作法に従わず、裸で足を投げ出して、一心不乱に絵を描いた者を、君主が「真の画者」と呼んだ、という寓話がある。
『荘子』に見られる、こうしたとらわれのない自由奔放な狂態に真の人間のあり方を追求するという審美観は、阮籍ら魏晋の文人たちの超俗的行為の裏に隠された文人精神につながっている。さらに、以後長く明清に至るまで続く狂態の書家・画家たちの芸術精神にも相通じているのである。
おわりに
常人と狂人を分かつ基準が、社会への適応の可否にあるとすれば、尋常な社会生活を営めない者を人々は狂人と呼ぶ。その一方で、尋常な社会生活の価値に疑念や嫌悪を抱く者は、自らをあえて社会生活の規範の外に置くことによって「狂」を自任するのである。
その多くは、文人・思想家・芸術家である。「狂」を自任することは、体制や日常に対して疑問符を打つことであり、世俗への同調を拒む自己意識や人生美学の表明である。
その拒み方が、「狂狷」と「佯狂」の間では、極めて対照的に表れる。「狂狷」は、自らの身を世俗の中に置きながら、それに立ち向かい、打ち砕こうとする姿勢である。これに対して、「佯狂」は、自らを世俗の外に置いて、それとの距離を保ち、関わりを避けようとする姿勢である。
両者は、いわば「反俗」と「超俗」の違いであり、その意味では、基本的に、「狂狷」は儒家系、「佯狂」は道家系の概念である。
元来、「狂狷」と「佯狂」には、このような明白な差異が認められるが、いずれも、形骸化した規範や因習など、抑圧的な世俗の桎梏・束縛を嫌い、そうした締め付けから解放されたいという最も原初的、本質的な欲求の表れであるという点においては、軌を一にするものである。
やがて、「狂狷」と「佯狂」は、特に区別されることなく、両者が綯い交ぜとなって、一つの「狂」の精神として、文人が好んで自任するスタイルやポーズとなっていく。そして、思想・文学・芸術の各領域において、中国の伝統的精神文化の支柱の一つを形成するに至るのである。
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