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【心に響く漢詩】李白「早發白帝城」~千里の江陵、一日にして還る

    早發白帝城   早(つと)に白帝城(はくていじょう)を発(はっ)す
                         唐・李白(りはく)
   朝辭白帝彩雲閒
   千里江陵一日還
   兩岸猿聲啼不住
   輕舟已過萬重山

 朝(あした)に辞(じ)す 白帝(はくてい) 彩雲(さいうん)の間(かん)
 千里(せんり)の江陵(こうりょう) 一日(いちじつ)にして還(かえ)る
 両岸(りょうがん)の猿声(えんせい) 啼(な)いて住(や)まざるに
 軽舟(けいしゅう) 已(すで)に過(す)ぐ 万重(ばんちょう)の山(やま)

 唐代を代表する詩人、李白の七言絶句「早發白帝城」です。

 李白については、こちらをご参照ください。↓↓↓


 天宝十四載(七五五)、 安史の乱が勃発し、唐王朝を揺るがします。賊軍が都長安に攻め入り、玄宗皇帝は蜀に逃れます。

 乱が起きた当時、李白は宣城(安徽省)にいましたが、翌年、廬山(江西省九江市)に移ります。

 同年、李亨(粛宗)が帝位につき、元号の改まった至德元載(七五六)、李白は永王(李璘、粛宗の異母弟)に招かれ幕僚となります。

 ところが、永王は兄の粛宗と不和を生じ、永王が統率していた軍隊は反乱軍と見なされ、討伐を受けることになります。

 永王の軍は敗れ、李白は捕らえられて潯陽(江西省)の獄に繋がれます。のちに、夜郎(貴州省)への流罪になり、長江を西へと遡りますが、夜郎へ赴く途中で大赦に遇い、無罪放免となります。

 「早發白帝城」は、ちょうどこの時、思いがけず自由の身となって長江を下る際に歌った詩です。乾元二年(七五九)、李白五十九歳の作です。

李可染行書

朝(あした)に辞(じ)す 白帝(はくてい) 彩雲(さいうん)の間(かん)
千里(せんり)の江陵(こうりょう) 一日(いちじつ)にして還(かえ)る

――朝焼け雲がたなびく白帝城に別れを告げた。遥か千里彼方の江陵まで、一日のうちに帰っていく。

 「白帝」は、白帝城。今の四川省奉節県にある古城。
 漢代、蜀に割拠した将軍、公孫述が築いた城です。三国時代、蜀の劉備が呉との戦いに敗れ、丞相の諸葛亮に後事を託して病没した地としてよく知られています。

 白帝城は、長江三峡の最西端に位置します。三峡は、上流から順に、瞿塘峡・巫峡・西陵峡と続きます。白帝城は、瞿塘峡の西の山上にありました。現在は、三峡ダムの建造によって、島になっています。

 「彩雲」は、朝陽に赤く染まった雲。「白帝」と「彩雲」、白と赤の色彩的イメージの対比が鮮やかです。

 「江陵」は、今の湖北省江陵県。唐代は、荊州の治が置かれていました。白帝城から江陵までは、千二百里といわれています。

両岸(りょうがん)の猿声(えんせい) 啼(な)いて住(や)まざるに
軽舟(けいしゅう) 已(すで)に過(す)ぐ 万重(ばんちょう)の山(やま)

――両岸から猿の鳴き声が、どこまでも途絶えることなく続いている。
その鳴き声がまだ耳に残るうちに、軽快に下る舟は、すでに幾重にも重なる山々の間を一気に通り抜けていった。

 三峡の周辺は、かつて野猿が多く棲息していました。野猿の鳴き声は、「キー、キー」という、甲高く伸ばす鋭い声です。古典詩においては、この音色は、物悲しいものという象徴性があります。

 そのため、転句で、重苦しい気分が添えられて、結句で、逆に舟の軽快なスピード感が増幅される、という音響的効果をもたらし、詩全体にメリハリを与えています。

 この詩は、舟の上で即興で作られたものであろうと言われています。
 快調なテンポで、臨場感、躍動感に溢れる詩です。舟が三峡の急流を瞬く間に下っていく壮快なシーンと、恩赦にあって晴れ晴れとした李白の爽快な気分とが見事にマッチしています。

 一気に詠み上げたような勢いのある詩ですが、細かい技巧も施されています。「白」と「赤」の色彩のコントラストに加えて、「千里」と「一日」、「兩岸」と「萬重」というように、大小の数字のコントラストをさりげなく効果的に使っています。

 以下、少々細かい話になります。

 白帝城から江陵までの距離を一日で下るというのは、李白流の誇張表現なのでしょうか?
 
 この詩は、この地域に関する古くからの言い習わしに基づいて作られています。

 北魏・酈道元の『水経注』という地理書の巻三十四に、王の命令を受けて使者として舟で長江を下る状況が、次のように記されています。

 朝に白帝を発すれば、暮れに江陵に宿す。其の間千二百里、奔(はやうま)に乗り風に御すと雖も、以て疾(はや)しとせざるなり。
(朝、白帝城を出発すれば、その日の暮れには、江陵に到着する。その距離は、千二百里、早馬に乗って駆けても、風に乗って飛んでも、舟に比べたら速いとは言えない。)

 つまり、三峡はそれほど急な流れで、馬を走らせるより舟で下る方が速いというわけです。

 李白の詩は、三峡を下った実体験に基づくものですが、詩の表現においては、この『水経注』の記載にあるような伝承を踏まえているのです。

 ちなみに、「千二百里」は、当時の度量衡では、約600キロに当たりますが、地図で見ると、実際には、350キロ程度です。
 昔の舟旅は、必ず早朝あるいは夜明け前に出発しますから、丸一日休まずに下れば、相当な距離を進めることは確かですが、果たして、本当に一日で江陵まで下ることが可能かどうかは、定かではありません。

  中国のSNS上には、これが可能かどうかを検証するため、白帝城から江陵までの距離、舟の航行速度、風速、風向きなどのデータを合わせて考察しているサイトがいくつかあります。結論としては、どのサイトも、「計算上は可能」と推定しています。

〈李白从重庆白帝城到湖北江陵,一天行进千里可能吗?〉https://kknews.cc/other/yvbvqlb.html

〈千里江陵一日还,李白有没有吹牛?〉
https://kknews.cc/culture/5vb5b9k.html

 しかし、いずれにしても、こうした計算や考証は、詩を鑑賞する上では、あまり重要なことではありません。
 仮に、三日かかる行程であったとしても、ここを「三日にして還る」などと言ってしまっては、間が抜けて詩になりません。
 「千里」と「一日」というコントラストから醸し出されるスピード感、そして、一刻も早くという李白のはやる気持ちを表現するには「一日」でなくてはならないのです。

 喜び勇んで長江を下った李白ですが、その後は、重用されることもなく、江南の地を転々と寓居する生活を送ります。

 最後は、当塗(安徽省)の県令をしている親類の李陽冰を頼って老病の身を寄せ、宝応元年(七六二)、六十二歳で没しました。

 その死については、長江に舟を浮かべて遊び、酒に酔って、川面に浮かぶ月影をすくいとろうとして、舟から落ちて溺れ死んだ、という言い伝えがあります。酒と月を愛した詩人李白を象徴するかのような伝説です。

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