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【老子】「道の道うべきは常の道に非ず」~わからないということがわかればよろしいという話


謎の老人~老子の正体

老子、言わずと知れた道家の祖である。
孔子と並んで中国思想界の双璧である。

ところが、この人物、何もかもよくわからない。

まず、名前がおかしい。

そもそも「老」という姓はない。
「老」は、老人。「子」は、先生。
「老子」は、老先生、偉いお爺さん、という意味だ。

『史記』では、

老子は、姓は李、名は耳(じ)、字は聃(たん)。

とある。

李姓だとわかっているなら、なぜ「李子」と言わないのか、
よくわからない。

『史記』では、続いて、

楚の苦(こ)県、厲(れい)郷、曲仁里の人。

とある。

「楚」は、いばら。「苦」は、苦しい。「厲」は、たたり。
「曲仁」は、仁を曲げる。儒家の「仁」を曲げている。

これは、どう考えても、実在の地名ではない。
司馬遷がでっち上げた地名だ。

よくわからない人物だから、いっそのこと、よくわからない出身地にした。
司馬遷は、思いのほか、幽默を解する人だったのかもしれない。

『史記』は、さらに、こう続く。

老子は、周王室の図書管理の役人となった。かつて孔子は、老子に会見を求めて、礼について教えを乞い、その人物の偉大さに驚嘆した。のち、老子は周の衰微を見定めるや、都を去り旅立った。途中、関所の役人尹喜(いんき)の求めに応じて書を著し、いずこへともなく立ち去った。

老子と会見した後、孔子が弟子たちに向かって、

「老子は風雲に乗じて天に昇る龍の如き人物だ」

と語った、という尾ひれが付いている。

この話も、明らかなでっち上げだ。

老子と孔子は、同時代の人間ではないから、
そもそも会見できるはずがない。

この会見の話は、老荘思想を継承する人々の間で、
儒家への対抗意識から、老子を持ち上げたものだ。

つまり、

「儒家の開祖孔子を教え導いたのは、我が派の開祖老子様だ」

と言いたい。

よくわからない話は、さらに続く。

いずこへともなく立ち去った後、

「老子は、旅を続けてインドへ行き、釈迦になった」

という話だ。

「老子化胡説」といい、道教信者が、まことしやかに語り継いでいる。
こちらは、仏教への対抗意識からだ。

ここまでわけがわからないなら、いっそのこと、いなかったことにしよう、
という説も出てきた。

老子の実在を否定し、道家の学派が作り上げた架空の人物である、
とする学説で、いちおう信憑性はある。

いずれにしても、老子の実像は、よくわからない。

老子

シュールな格言集~老子の著書

さて、関所の役人の求めに応じて著した云々という書物は、
『老子』と呼ばれる。

上下二編、上編「道経」と下編「徳経」を合わせて、
『道徳経』とも呼ばれる。

字数は、わずか 5,000 字あまり、いずれも断片的な章句から成る。

『老子道徳経』

『老子』の文章は、対句と比喩を多用し、
パラドックス(逆説的論法)を巧みに用いている。

固有名詞が一つもなく、抽象的な概念が並んでいる。
いつ、どのような場で、誰が、誰に向かって語ったものなのか、
さっぱりわからない。

簡潔な文句の中に、深遠な思想が凝縮されている。
シュールな格言集のような書物である。

謎めいていて、難解で、奥深い。
読んでもよくわからないから、ますます奥深い。


「道」(タオ)~老子の思想

老子の思想の中核は「道」に集約される。
中国語の発音で、Tao とか「タオ」とか呼んでいる。

老子の説く「道」は、儒家の説く「道」とは、まったく異なる。

儒家の「道」は、人間社会について言うものである。

修養論としては、人が踏み行うべき「道」、つまり倫理的規範である。
政治論としては、為政者が拠るべき「道」、つまり政治的理念である。

「人の道」「武士道」「人道主義」「道ならぬ恋」など、
日本語でも使う「道」は、おおむね儒家の言う「道」と同じなので、
わかりやすい。

一方、老子の「道」は、宇宙自然について言うものである。

「道」は、万物を生成消滅させながら、生滅を超越した唯一普遍的な存在、つまり、宇宙自然のあらゆる現象の根底に潜んでいる原理、法則をいう。

形而上的な実在、すなわち具体的な形はないが、確かに存在するもの、
天地自然の根源、宇宙万物を生み出すエネルギーである。

というわけで、何だかわかったようで、よくわからない。

「道の道うべきは常の道に非ず」


さて、わからないのを覚悟で、『老子』第一章を読んでみる。

道の道(い)うべきは常の道に非ず。
名の名づくべきは常の名に非ず。


これが「道」であると言葉で表せる「道」は、永遠不変の「道」ではない。
これが「名」であると名付けられる「名」は、永遠不変の「名」ではない。

名無きは天地の始め、
名有るは万物の母なり。


「名」が無いのが、天地の始めで、
「名」が有るのが、万物の母である。

故に常無は以て其の妙を観んと欲し、
常有は以て其の徼(きょう)を観んと欲す。


ゆえに、天地開闢前の「無」の状態では、「道」の霊妙な働きが観察され、
万物が生成される「有」の状態では、「道」の末梢的な現象が観察される。

此の両者は同じく出でて名を異にす。
同じく之を玄と謂う。
玄の又玄、衆妙の門。


両者(「無」と「有」)は、出てくるところは同じで「名」が違う。
同じく「玄」と呼ぶ。
奥深く、また奥深いところ、そこが諸々の霊妙な働きが生まれる門だ。

「無」も「有」も同じである根源的な状態、
「無」が「無」、「有」が「有」と呼ばれる前の原始の状態、
それを「玄」と呼ぶ。

「玄」の原義は、天の色である。
黒をイメージさせるが、人間の色彩感覚を超越した、
天空の果ての果て、奥の奥の色のことをいう。

派生して、人知を超えた、言葉で表せない、暗く深遠なもの、
つまり、奥深すぎて、もう何だかよくわからないものをいう。

ここで、老子は、宇宙の始まりを説いている。

森羅万象が生まれ出てくる根源、それを「衆妙の門」と呼んでいる。

老子が考えた「初期特異点」(Initial Singularity)は、
「門」、つまり、ゲートであった。

『老子』の第一章は、難解な『老子』の中でも、
とりわけ抽象的で、難解だ。

何だかよくわからないが、
宇宙万物を生み出した「道」が、いかに偉大なものであるか、
を言いたい、ということだけはわかった。

わからないとモヤモヤするものだが、
わからなすぎて、かえってすっきりするから、
老子は、偉大だ。


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