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好きな自分を見つけた話~パンとスープとネコ日和~


「自分探しの旅」なんて青春時代を過ごす学生の特権なんだろうけれど、いくつになっても迷うことはある。最近のわたしがそうだった。
そういう時、わたしは本当に、自分を取り戻すのが下手だなぁ、と思う。
 だけどさすがにもう、自転車に乗って夜明けの街を走りだせるような年齢じゃないわたしは、仕方なく朝も昼も夜も、いつも通りの毎日を過ごしながらじっと時が経つのを待つしかない。
 時々気まぐれに、こうしたら自分を取り戻せるんじゃないかしら、なんて思うことに手を伸ばしてみては、やっぱり違った、の繰り返し。
 大人の自分探しは、勢いに任せられない分時間がかかる。

 自分を見失うのは、ゆっくりだけどあっという間だ。
 少しずつ、少しずつ、「あれ?」と思うことが増えていって、気づけばいつの間にか「何もない」なんて気持ちになっている。

 わたしの場合、それは好きなものだった。

 幸いなことに、好きなことを仕事にしている。
 ずっと文章を書くのが好きで、それだけをして生きてきた。
 ゲーム、というジャンルには実はあまり知見はなかったのだけれど、仕事にしているうちに楽しさもわかるようになってきた。
 だけどある日突然、そういうものが全部、ふっと、まるで砂にでも形を変えたみたいに、さらさらと手のひらからこぼれていってしまった。
 
好きなものがわからない。
 好きだったはずのものに、心が動かない。
 
インプットもアウトプットも苦しくて、自分がこぼした砂でできた砂漠でひとり迷子になったような気持ちになった。

この業界にいると、というより「オタク」として長年生きていると、「好き」のパワーをとても強く感じる瞬間に出会うことが殊更多い。
仕事で出会う人はもちろん、趣味で出会った友人たちも、そのほとんどが何か好きなものを持っていて、それを力にしたり、支えにしたり、武器にしている人が多い。
そんな中で、好きがわからない、というのは、ひどくわたしを戸惑わせた。

何せ、「好き」は長年わたしの指針だったのだ。

好きなことを仕事にしているなんていいね、と、何度も言われた。
好きなことを仕事にできた自分を、心のどこかで誇っていた。
好きなものに囲まれる生活は幸せだったし、
自分で選んだ好きなものを、少しずつでも自分のものにできるのは嬉しかった。

だけど、ある日、全部、失ってしまったような気持ちになった。

よほど生気がなく見えたのだろう、夫は心配して、あれやこれや、色んな映画やドラマ、漫画なんかを勧めてくれた。気まぐれに手に取って、もちろん面白い、と思うものも中にはあったのだけれどそこで終わってしまう。いつの間にか大好きだったはずのエンタメを惰性で消費してしまっていることに気づいたときには、愕然とした。

そんな日々が続いたので、わたしはもう、「楽しもう」と考えるのをやめた。
というよりも、楽しいと思うことを、あきらめてしまった。
単純に、ただただ、疲れていたんだと思う。

起承転結も、波乱万丈もいらない。ただ穏やかな時間の中にいたい。

とはいえしんとした家の中で音も何もないのは少し寂しくて、何かは流していたい。
そう考えて久々に手を伸ばしたのが――ドラマ「パンとスープとネコ日和」だった。

「パンとスープとネコ日和」は2013年にWOWOWで放送されたドラマだけど、わたしがそれを見たのはそれより少し後、登録していた動画配信サイトでだった。
「かもめ食堂」とスタッフやキャストを同じくする作品だけあって、ゆるく、心地よく、何気ない日常が淡々と、だけど丁寧に描かれた作品。

舞台は日本の、どこかにありそうな商店街の一角にできたちょっとおしゃれなお店で、そこでは選べるパンを使ったサンドイッチと、日替わりのスープだけがメニューとして存在する。サンドイッチとスープのみ、とシンプルながらも登場する食べ物はどれもおいしそうで食欲をそそられるし、小林聡美さんの自然体で気負わない、ああ、こういう人がやっているお店に行ってみたいな、と純粋に思わせてくれるキャラクターもすとん、と胸に落ちてくる。

一度見たドラマをまた見返す、ということは実は少ないのだけれど、また動画配信サイトでこのドラマが配信されていたので、ちょうどいい、と思った。
この作品はそっと隣に寄り添ってくれるようなものだから、仕事の合間に見るのにもいいし、音や声も邪魔にならない。こちらも気負わず、いい意味でなんとなく、で見れるのだ。

以前に見た時もその空気感は好きだったけれど、今回はまた違った。あまりにも心地よく、近頃の息苦しさがすぅっと抜けていくような感覚で、自然と、もっとこの世界に浸っていたい、と思った。
けれどドラマは全4話、1話あたりも30分程度ととても短い。すべて通して見ても、1本の映画分くらい。
物足りなくなったわたしは、原作の本に手を出すことにした。
こちらも「かもめ食堂」と同じく、作者は群ようこさん。しかし調べてみたら、なんとシリーズ既刊が5冊も出ていることを知った。そのうちの最新刊は今年出たばかり。
早速、と文庫で出ている1冊め、「パンとスープとネコ日和」と2冊めの「福も来た」をまずは購入した。

長年勤めた出版社をやめて、母親の店の跡地に自分のお店を作ることにした主人公のアキコさんは、ドラマではとても背筋の伸びた、迷いのない人に見えた。けれど小説ではもっと人間らしいというか、ああ、こんなことで悩んでいたんだ、と文章ならではの深さでその人となりを知ることができる。シマちゃんはドラマよりももっとドライなイメージ。ほかの人々も、もちろんドラマと同じところも違うところもあって、けれどどちらもどこかにいそうな誰か、という感覚が不思議だった。
この街を知らないけれど知っているような、この人を知らないけれど知っているような、そんな親しみを持って読める小説。そう長い話ではないけれど気づけば夢中になっていて、買ってきたばかりのその本をわたしはあっという間に(それこそ帰りの電車の中で)読み終わってしまった。
帰ってからもそのふわふわとした気持ちは終わらなくて、寝る前にもう一冊、と手に取った。愛らしい2匹のネコの描写が愛おしくて、ほっこりとする。少しずつ近づいていく人と人の距離や、変化しつつも迷い、それでも進んでいくアキコさんの姿には、なんだか背中を押されるような気持ちにもなる。何か大きな事件があるわけじゃないし、次はどうなるの、と急いてページをめくるような展開があるわけでもない。読んでいてものすごくハッとするとか、感情を揺さぶられるとか、人生観が変わるとか、そういう類の話でもない。
どこにでもありそうな、知っている誰かの物語のような、そんな身近で、親さのある、優しくて穏やかな時間が広がっている。
でも2冊めを読み終わったとき、わたしは自然と夫に伝えていた。

「本を読んでいる時の自分は、好きだと思った」と。
突然そんな、まるで自分に酔っているようなことを言ったわたしに、
「それはよかった」と、夫は少し笑った。

 何かをしている自分が好き、というのは本当に久しぶりの感覚で、自分の中から好き、という感覚が湧いてくるのも久しぶりだった。
 だからこそ大切にしたくて、そこからは1冊1冊、続刊を買っては丁寧に読んでいる。
 自然とそこから他の本にも手が伸びるようになって、先月は久しぶりに読んだ本の冊数が二桁に届きそうになった。

 本を読む、という一番好きだったはずのことを、どうしてかものすごく疎かにしていた自分にも気づいた。たぶん少し、他人の文章に触れるのが怖かったんだと思う。

 ともあれ「好き」を一度取り戻したわたしは、また少しずつ、自分の中の好きなものを積み上げていっている。一度失ってしまったので、全部一度に戻ってくるわけではないけれど、それでも少しずつ好きなものや好きなことが見えるようになってきたし、本だけじゃなくドラマや映画にもアンテナが反応するようになってきた。

 なんとなく調べていて、「パンとスープとネコ日和」のDVD&Blu-rayが発売されたときの小林聡美さんのコメントが書かれた見出しを見つけた。

「このドラマは、ゆとりのある人に見てほしい」。

 記事をよく読んでみれば、「何も起こらないじゃないか! と言われても困るから、こういうドラマにイラっとしない、ゆとりのある人に見てほしい」という意味だったのだけど、なるほど、ゆとりのある人……とつい考えてしまった。

 たぶん今まで生きてきた中で一、二を争うくらいにはゆとりのない時期で、ゆとりのない人間だったわたしは、このドラマに救われた。
 
 そういう人間もいるんだってことを、声は小さく、そっと主張しておきたい。

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