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平凡と不謹慎

電車は緩やかに減速する。まもなく、地下鉄の終点駅に到着する。やっと外の空気が吸える。胃の底から迫り上がってきたぬるい吐き気を、大げさな欠伸で誤魔化すと、目の前のガラス窓に、大口を開けて唇の端の紅を滲ませたアタシと、それを横目でうかがう男の姿が映る。慌てて右手で口元を押さえ、言い訳がましく小さく咳払いをする。気恥ずかしそうな自分の顔の向こう、窓の外に『新宿』の文字が白く浮かぶ。


熱帯夜の人いきれ、原色に輝くネオンの光が、退屈そうに煙草を吹かすマコトの横顔を染めている。マコトの少し紫がかった唇から吐き出された白い煙を透かして、大通りいっぱいに広がった仲間たちが締まりのない笑い声が聞こえる。安いサワーの飲みすぎで甘く乾いた喉を、コンビニで買った水で潤す。

「どうすんの、この後」

尋ねると、マコトは目だけでアタシを見上げる。短くなった煙草を携帯灰皿に差し込み、首をねじって「ああ」と少し掠れた声で言う。マコトのまつ毛の先端が、安っぽい夜の光に浸されている。星も見えない東京の濁った空に、マコトが吐いた煙の名残が立ち上っていく。

「あっちはカラオケ、そっちは居酒屋。どっちにする? ――― 終電、もうないでしょ」

二つの塊にわかれた集団を順番に指さすと、マコトは喉の奥で小さくげっぷを吐き出す。あたしが顔をしかめると、マコトはあははとわざとらしく声を上げて笑う。いつもの奴らといつもの店で飲み会、代り映えのしない噂話と、温いビールと薄いハイボール。特別楽しいわけでもないのに、何となく帰るのが惜しくてダラダラと居座り続けて終電を逃す。あたしも、マコトも。それがいつものパターン。

「ぶっちゃけ、どっちも飽きたよね。飲みに行っても終盤みんな眠いしか言わなくなるし。カラオケも。結局みんな歌わないし」
「まあそうだけど……、でも終電ないんだから仕方ないでしょ」

マコトは「一口」とだけ言って諫めるあたしの手の中のペットボトルを奪う。ラベルを剥がした透明なペットボトル越しに夏の予感が迫る。

「あ、ちょっと。一口でかい。飲みすぎ」

一瞬見惚れた自分を誤魔化すように、マコトからペットボトルを奪い返す。マコトは気にした様子もなく、濡れた唇で、もしも、と切り出す。

「世界が終わりを迎えたり。何か原因不明のパンデミックが起こったり。隕石がもうすぐ衝突したり。そういうことがあったりして」
「ちょっと、不謹慎」
「でも、そう思うでしょ。アンタも。もしもこの平凡な日常が壊れたらって」

マコトはどこか弾んだ声でそう言い、集団から背を向けて歩き出す。

「ちょっと、どこへ」
「どっか。どこでも良いけど」

慌ててマコトの背を追う。人だらけ、アルコールのにおいが充満したゴミみたいに汚い街で、マコトの姿だけが光っている。特別な色に見える。目の端に見慣れたいくつもの風景が現れては消えていく。始発を待つためのカラオケも居酒屋も、すべての平凡を置き去りにする。

「新宿のビールってさ、ぬるくて不味いんだよね。もううんざり」

マコトが言う。いつもビールばかり飲んでいるくせに。二軒目でも三軒目でも。そうやっていつも喉を乾かしているマコトのために水を買っているのに。前を行くマコトの短い後ろ髪が様々な色に光る。酔った誰かの体が右肩にぶつかる。日付が変わって少し経った、新宿の街。人だらけなのに誰もいないように感じる、マコトと二人だけのように感じる、空っぽの街。マコトは歩みを止めない。どこまで行くのだろう、考える隙もなく、あたしはただ後を追う。マコトに手を伸ばす、届かない指先から順番に透明になっていく。

「でもさ、また飲みに来よう」

ぬるいビール。マコトの声が、あたしの耳を通り抜けて雑踏に溶けていく。ビールを飲んでいるのはマコトだけだよ。そう言い返したくて、あたしはまたマコトに手を伸ばす。世界がどんなになっても、一緒にいることを特別になんてしたくない。それこそを平凡と呼びたいのだ。伸ばした手が、マコトの汗ばんだ手をしっかりと握った。

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