日本語における中相表現と方言―アフォーダンス・唯識・空からのアプローチ

2021.07.21
2021.07.23(二訂版)
2021.07.24(三訂版)
2021.07.31(四訂版)
2021.08.01(五訂版)
2021.08.19(六訂版)
2021.08.28(七訂版)
2021.09.20(八訂版)
2021.09.23(九訂版)
2022.05.20(十訂版)
中田 耕

 北海道弁には不思議な言い回しがある。前を歩いている人が突然止まり、自分が咄嗟に手で相手の背中を押してしまった時、故意ではないという意味で「手が押ささった」と言う。言おうとした言葉とは違う言葉を発した時は「(言葉が)言わさった」と言う。或いは、書く文字を間違えた場合は「(誤字が)書かさった」とも言う。そして当然ながら、文字を書こうとしてボールペンを手に取り書き始めるも、インクの出が悪いか出ない時は「(ペンが)書かさらない」となる。この他、物が「うまく積まさる/さらない」など、無生物の(或いは無生物として扱う)主語と、おおよそ動詞の未然形に「サル」が接続する。
 筆者は北海道で生まれ育ち、屯田入植世代から数えて第五世代の母語話者である。筆者は小学三年生頃にはこの不思議な言い回しの興味深さを意識しており、中学三年か高校一年の頃には、古文の学習で扱う助動詞の種類とその活用形に触れて、この不思議な言い回しを説明出来ないかと思案したが、そもそも古文の文法を解説する教科書の言説に違和感を拭えずにいた。特に助動詞「る/らる/す/さす」の扱いが腑に落ちなかったのだが、細江逸記のボイス(相)論に辿り着き(*i)、懸案が氷解する。
 細江のボイス(相)論は、「甲より出でゝ乙に過向し、その乙を處分する」(*01)動作である過向性能相と、「行爲者を去らずその影響は何等かの形式に於て行爲者自身に反照する性質の」(*02)動作である不過向性能相、又は反照性能相として能相と中相を提示する。細江は中相の原理として(一)反照・自動・受動の法則 、(二)反照・使役・他動の法則、(三)受動・使役交流の法則という三つの法則性を挙げる(*03)のだが、法則(三)を「『す』語形の發達(略)と共に漸次その活動力を失つたと見て差支へがない」(*04)とし、「後に多少は注意したい」(*05)とは述べているが、やや軽視する。
 しかし日本語において展開する中相表現では、この「す」語形発達の先に展開する様相が極めて重要だ。具体的には北海道・東北方言である「~サル/~ササル/~ラサル」や、その他の東日本各地に点在する方言「~サル」があり、自発・可能[九訂:・→あるいは]逆使役などを表す。北海道弁は助動詞的運用が成される。そしてこの「~サル」という形式は、日本語の共通語においても確認される。まず「す」語形の発達を概観する上で、語形の発達は以下の展開として記述出来る。

 す(為)   動作動詞「す」/使役性接尾辞「す」/助動詞「す」
  する    サ変・連体形/サ行四段・連体形/サ行下二段・連体形
  せる    完了・存続/[六訂:追記:法則(二)(]他動化or勢相or使役)
                         /使役(口語)
  さる    (セラル・受動)/法則(一)(三)/―
   →される [二訂:受動→受身、尊敬](口語)/
        他動化or使役+[二訂:受動→助動詞「れる」(口語)]/―
  さす    使役/(サ入れ・使役)/使役
   →させる 使役(口語)/(サ入れ・使役)/使役(口語)

[八訂:清書:
 す(為)   動作動詞「す」/使役性接尾辞「す」/助動詞「す」
  する    サ変・連体形/サ行四段・連体形/サ行下二段・連体形
  せる    完了・存続/法則(二)(他動化or勢相or使役)/使役(口語)
  さる    (セラル・受動)/法則(一)(三)/―
   →される 受身、尊敬(口語)/他動化or使役+助動詞「れる」(口語)
                               /―
  さす    使役/ (サ入れ・使役)/ 使役
   →させる 使役(口語)/(サ入れ・使役)/使役(口語)]

 以上から読み取れるように、共通語に見られる「(~)サル」の多くは使役性接尾辞「す」の活用形に見られ、接続する動詞に対し、使役性による他動化または使役化と[二訂:受動→助動詞「る(れる)」]の組み合わせとして運用されている。これらの多くは受身と見做され、「木風に倒さる」(*06)「消防夫兵士に火事を消さる」(*07)などに加え「罪サル」「評サル」「解釈サル」などの文語表現に見られる所相形式(*08)がある。所相形式ではなく中相「~サル」として機能するものは、筆者が思いつく限りでは「あわさる(合)」「おぶさる(負)」「かぶさる(被)」「くさる(腐)」「くださる(下)」「ささる(刺)」「なさる(成)」「まさる(益)」が挙げられる。特に「あわさる」の原型である「あふ」は、細江が提示する中相の展開と「す」語形の展開を眺める上で興味深い。

 あふ(合/他)自動/ハ行四段
  あふ(和) (二)反照・使役・他動の法則/ハ行下二段/使役性中相
  あはる*ii   (一)反照・自動・受動の法則/[二訂:ハ→ラ]行下二段/
        反照性中相
 あわす    使役性接尾辞「す」による他動化/サ行四段
  あわす   (二)→助動詞「す」による使役/サ行下二段/中相
  あわさる  (一)(三)反照・自動、受動・使役交流の法則/ラ行四
        段/反照性中相

 自動詞から法則(二)の使役性を経由する動詞の他動化と、法則(一)による再帰的自動化の反照性中相、そして受動・使役が裏腹の関係である法則(三)が細江の提示する中相の基本的な展開だ。「他動四段言」(*09)「自動四段言」(*10)の展開に応じて動詞の形態が分岐し、中相、使役性中相、反照性中相として活用される動詞の性質に応じ、それぞれの接辞が「/-ar-/型」「/-or-/型」「/-e(ru)-/型」「/-i(ru)-/型」に変化する。再帰的自動化の法則(一)に関して、細江は「原始『ある』の添加に依って出来た語であると見るべく(注:原文は[二訂:『ある』→「原始」]に傍点)」(*11)と述べており、これが「(~)サル」と形式的に対応する。
 更に、前述した「す」語形発達の展開を併せて眺めると次のことが言える。古く四段に整理された動詞が「中相意識の明徴」(*12)により変化する能相と中相の並立から、動作主が人か物かという区別、そして中相が「される」と「させる」という所相と使役の区別へと至る。これは視点の所在と人による意図の存否が介在するのであり、「される」と「させる」を統合する「(~)サル」に自発や可能、逆使役が見出される。ここに受動・使役の交流が極めて重要な機能を果たしていることは明らかだが、その展開について統語論や音韻論、形態論の範疇のみで説明することは難しい。
 この受動・使役の交流を説明する上で有効であるのが、ジェームズ・J・ギブソンのアフォーダンス論だ。触媒(medium)と物質(substance)の介在する局面(surface)において知覚認識が機能する動物(animal)というギブソンの構図は、物理的環境要因が動物に動きを与える(afford)という使役性と共に、動物からの作用を受ける物理的環境要因という受動・使役の交流を提示する。[六訂:局面とは大地であり、水中であり、大気[五訂:追記:中においてそれぞれ展開するの]であり→触媒としての水や大気における物質が局面として連続的に展開し、大地や水面を基盤としつつ]、熱(光)と重力がそれぞれに作用する。動物はその[五訂:空間を生き→局面において変化を知覚し]、物理的環境要因が動物の五感を通して動きのみならず道具や言語、文化をも与える、とギブソンは主張する(*13)。
 しかしギブソンのアフォーダンス論は、自発や属性可能を説明出来ても、[九訂:逆使役→話者≠行為主の文]や「子[六訂:ども→供]が親に抱かさる」(*14)という文を十分に説明出来ない。この文は細江が指摘する「母子に泣かる=The mother had her child cry.(注:原文は英文がイタリック体)」(*15)と同等の象徴的一文である。この文では、能相と所相の対立軸から抱くのは親であり、子は抱かれる。或いは使役として子は親に自身を抱かせ、親は子を抱くか、抱かせられる。両者の意図によって意味合いが変わる。アフォーダンス論は動作主の意図に関係なく展開するが、この文意は子が親に自身を抱かせるのか。
 根本的な前提として立ち返る先は「子[六訂:ども→供]が親に抱かさる」という文中の、子でも親でもない観察者としての「私」だ。文意の焦点は、観察者が子どもと親の動きをどう捉えるか、である。想定される全く自然な親子の関係性として、親は子どもを抱き、子どもは親に抱きつく。その両者が動く中で、何れの動きにも躊躇や拒否などの不自然さや齟齬が認められないのであれば、観察者はその動態をそのまま描写すればよい。従って観察者が捉える親の子どもを抱く行為を動作として描写するにあたり、受動・使役の交流において中心となる子どもを主軸に、不過向性能相としての動作展開が最外殻から記述される。要は、観察者にとって「そのように思われる(覚ゆ)」ということだ。
 このようにして、子どもでも親でもない「私」が子どもと親の動きを捉えるとき、観察者は子どもの動態を「されるがまま/させるがまま」の様に認識しているのだ。その意味で、唯識瑜伽行派を大成した世親を読み解く宇井伯壽の、識(vijñapti)が「知らしめる」であるとする指摘(*16)が参考になる。六境という六つの知覚対象と六根という六つの知覚機能が組み合わさる十二処、そして六識という六つの知覚認識に関する表象が展開する十八界、更には六識に末那識と阿頼耶識を加えた八識が、五蘊を含む三科を統合する「唯識」という知覚認識の体系として構成され、心として宇宙が現れる。心は観察者に認識[三訂:追記:さる/]させる/されると同時に、観察者は心を認識する/させられる [三訂:/さる→削除]。可変的な意識によって動態は変化し、記述される動きが意識や意図から外れて行くにつれて中相が展開する。従って記述される動きに観察者が直接介在せずとも、被動作対象(主に無生物)を主軸として不過向性能相が展開する[九訂:削除:逆使役や]「(~)サル」という特殊な文が成立するのである。
 斯様にして人は言語に依存する。残るは言語への執着である。抜け出す道は釈迦の「空」にある。釈迦の「空」を数学的に定義した苫米地英人の「現代分析哲学とメタ数理的アプローチ」(*17)を援用すると、動作の動態は「(~)サル」が最小上界(least upper bound)として様々な動態を包摂する。細江も述べるように、恐らく動詞の活用形は四段が先に発達したと思われ、今日まで能相が主流である。しかし機能的側面から、細江が提示する中相の法則性を構成する要素の内、他動以外の全てを引き受ける「(~)サル」は能相の「する」をも包摂する。そして最大下界(greatest lower bound)が、能相・所相・勢相・使役の組み合わせから見出される能動・受身・尊敬・自発・可能・使役[九訂:削除:・逆使役]などが並立する矛盾で閉じる包摂半順序束(subsumption partial ordered lattice)として捉ることが出来る。
 能相と中相の並立関係は、能相を包摂する中相から能相が抜き出された状態である。能相は人の意図によって特定の動きにおける作用を限定し、意図を持つ人と人との関係性において能相と所相の対立が意識される。しかし、意図によって限定された動きの作用・被作用をめぐる動作対立は動態の極一部でしか無く、その圧倒的大部分は意識[七訂:追記:・意図]の外との関係性において展開し、内と外の境界に受動・使役の交流が顕れる。その必然として中相が意識[七訂:追記:・意図]の外を司り、多様な動態を内包する。対立軸は意識[七訂:追記:・意図]の内と外であり、この問題設定によって受身と使役の混乱は整理される。

[八訂:追記:
 ここで意識・意図の内と外について考えてみたい。ある行為を取り巻く環境要因に対する行為主の意識と、行為主の動きに関する行為主の意図の、それぞれに対して内と外を設定した行為主の認識に関する四象限マトリクスを想定すると興味深い構図が顕れる。

         内(意図)
 ③        ↑        ①
   条件反射  |  能動
    する   |  する
 事後認識&再帰性|事前認識&再帰性
 外←------+------→内(意識)
  中相(中動態)|  被支配
    さる   |する/させられる
 事後認識&再帰性|事前認識&再帰性
 ④        ↓        ②
         外

 ある行為を取り巻く環境要因が行為主の意識下に認識され、且つその動きが行為主の意図に沿う第一象限において、その動きは行為主の意志に駆動されていると見做され、場合によっては確信犯とも言える。一方、ある行為を取り巻く環境要因は行為主の意識下にあるが、その動きが行為主の意図に沿わない第二象限では、行為主の動きは支配と被支配の関係性による「させられる(使役の受身)」が該当する。ただ、支配と被支配の関係性において顕れる「させられる(使役の受身)」は、支配環境/者が「させる(使役)」のに対し被支配者は「する(能動)/させられる(使役の受身)」の両義性を帯びる。
 行為主が支配環境/者と同調していない場合、行為主の動きは「する(能動)」であると共に、支配/被支配の関係性と作用/被作用の関係性のどちらにおいても「させられる(強いられる/使役の受身)」である。行為主が支配環境/者と同調していないということは、ある行為を取り巻く環境要因の制限によって、または支配者と意図を異にして、行為主が意図せざる動きを強いられることを意味する。更に、この行為主が支配環境/者と同調しない構図は未必の故意が成立する。
 しかし行為主が支配環境/者と同調している場合、支配を被る行為主の動きは「する(条件的能動)」であり、使役の作用/被作用をめぐる関係性から捉えると「させられる(使役の受身)」でもある。条件的能動とは、行為を遂行する意図が条件によって規定されることであり、その規定条件については行為主自らが設定するのか外部から与えられるのかが問われる。この行為主が支配環境/者と同調する構図は第一象限の能動との間でせめぎ合い、意志なのか被支配なのかという問いが無限後退する。
 ある行為を取り巻く環境要因が行為主の意識外に置かれ、しかしその動きは行為主の意図に沿う第三象限とは何か。それは行為主が自身を取り巻く環境要因に対して意識しないか意識が乏しいものの、その動き自体は意図に沿っているのであり、反復によって無意識下にすり込む動作形式(条件反射)が該当する。競技や武術の形式的動作は、瞬時に変化する状況に対して瞬時に反応し動くための動作単位と言える。ただ、その動きを訓練する意図としては第一象限の能動と重なるが、形式的動作に組み込まれた意図を理解せず意味の分からない動きを続ける限り、行為主の認識はその形式の動きを意識しつつも形式の意図から疎外された被支配の第二象限にある。つまり、それは形式に使役されるということだ。
 そしてある行為を取り巻く環境要因が行為主の意識下に認識されず、またその動きも意図せぬ第四象限が中相(中動態)であることは論を[十訂:待たない→俟たない]が、いずれの象限に対しても、常にある作用が働く。ある作用とは再帰性であり、ある行為における動きを言語化する発話や記述は内省として再帰的自己認識を含む。従ってある行為において、行為主が自身の動きと向き合うかどうか、動きを自身の行為として引き受けるか否かが重要になる。そして、いずれの象限においても行為主が自身の行為を引き受けず外部化するならば、行為主の認識は現実否認や欺瞞を含む。意志や被支配を引き受けないのは倒錯であり、条件反射を引き受けないならば未熟である。そして中相を引き受けないならば詭弁に堕するか、或いは、それはある行為における動きに埋没する依存状態とも言える。そしてこの依存状態は「わかっちゃいるけどやめられない」という被支配的認識として第二象限と第四象限を行き来する。
 ただ、この四象限マトリクスはある行為における刹那を切り取ったものであり、連続して認識される行為の様相を行為主の意識と意図を軸として展開した一局面である。行為主の認識は自身の行為に対する再帰的認識によって変化し続けるのであり、この一局面が全てを規定するものでは無い。]
 一局面に拘泥する限り矛盾から逃れることは出来ない。指し示す識別子が連なる動作の体系と、指し示される動き、その両方が重なり合わさる地平に臨み、「さる(去/然)」様態を体感する以外に整合性は取れないと言えよう。

*i 筆者が細江のボイス(相)論を知ったのは、國分功一郎『中動態の世界―意思と責任の考古学』に因る。國分氏に感謝申し上げる。

*ii 細江が提示する中相の法則(一)に沿う「あはる」は、「もののあはれ」について、「見るものきく物ふるゝ事に心の感じて出でる歡息の聲にて、今の俗言にも『あゝ』といひ、『はれ』といふ是也」(*18)とする本居宣長の言を解説とするよりも、再帰的自動化に基づく解説の方が、文法的説明はもとより意味論的説明としても適切であろう。ある事象は単一要素では成り立たず、様々な要素の重なりに人が居合わせて認識される現象である。本居が繪合の巻を引き解説する「まして其時の事をしり、其事にあへる人のよむ心はと也(注:強調は筆者)」(*19)である。本居の「あゝはれ」は、「あはれ」に纏わる悲喜交々を読み取った平安人の感性について解説するものではあっても、文法的語源的解説とは言い難い。

*追記(2024.03.13)
 共通語に見られるサル形式に、以下の三語を追加する。
 ・いらっしゃる=いらさる(居/入)
 ・おっしゃる=おほさる(仰)
 ・まざる(混/交/雑)

[六訂:追記:
*01 細江逸記「我が國語の動詞の相(Voice)を論じ、動詞の活用形の分岐するに至りし原理の一端に及ぶ」『岡倉先生記念論文集』市河三喜 編、岡倉先生還暦祝賀会、1928年、99頁。
*02 細江「我が國語の動詞の相(Voice)を論じ、動詞の活用形の分岐するに至りし原理の一端に及ぶ」100頁。
*03 細江逸記「我が國語の動詞の『話相』(Voice)並に動詞活用形分岐の初期層に就いて」『経済学雑誌』第十四巻三號、大阪商科大學經濟研究所 、1944年、一八一頁。
*04 細江「我が國語の動詞の『話相』(Voice)並に動詞活用形分岐の初期層に就いて」一八一頁。
*05 細江「我が國語の動詞の『話相』(Voice)並に動詞活用形分岐の初期層に就いて」一八一頁。
*06 細江「我が國語の動詞の『話相』(Voice)並に動詞活用形分岐の初期層に就いて」一六九頁。
*07 金澤庄三郎『日本文法新論』早稲田大学出版部、1912年、219頁
*08 「附錄:教科書ノ檢定又ハ編纂ニ關シ文法上許容スベキ事項」『日本文典別記:普通教育 附・国語綴字法別記』新村出 編、開成館、1910年、二頁。
*09 細江「我が國語の動詞の『話相』(Voice)並に動詞活用形分岐の初期層に就いて」一八二頁。
*10 細江「我が國語の動詞の『話相』(Voice)並に動詞活用形分岐の初期層に就いて」一八六頁。
*11 細江「我が國語の動詞の『話相』(Voice)並に動詞活用形分岐の初期層に就いて」一五七頁。
*12 細江「我が國語の動詞の『話相』(Voice)並に動詞活用形分岐の初期層に就いて」一八〇頁、原文は各字に傍点。
*13 James Jerome Gibson, “The Senses Considered as Perceptual Systems”, Boston: Houghton Mifflin, 1966, p.24~28.
*14 山崎哲永「北海道方言における自発の助動詞ーrasaruの用法とその意味分析」『北海道方言研究会20周年記念論文集:ことばの世界(北海道方言研究会叢書第5巻)』北海道方言研究会、1994年、234頁。
*15 細江「我が國語の動詞の『話相』(Voice)並に動詞活用形分岐の初期層に就いて」一七二頁。
*16 宇井伯壽『四訳対照:唯識二十論研究』岩波書店、1953年、197~198頁。
*17 苫米地英人「『空』を定義する~現代分析哲学とメタ数理的アプローチ」2011年、3~5頁。
*18 本居宣長「源氏物語玉の小櫛」『近世論文集』藤村作 編、山海堂出版部、1933年、84頁。
*19 本居宣長「源氏物語玉の小櫛」55頁。]

参考文献:
国立国語研究所「共通語化の過程:北海道における親子三代のことば」
   『国立国語研究所報告』27、国立国語研究所、1965年。
芳賀綏「方言の実態と共通語化の問題点 1.北海道」『方言学講座第2巻 東部
   方言』東条操 監/遠藤嘉基 他編 、東京堂、1961年。
石垣福雄「北海道方言における動詞の活用について」『国語学』第34輯、
   国立国語研究所、1958年。
石垣福雄『日本語と北海道方言』北海道新聞社、1976年。
石垣福雄「北海道沿岸部の方言」『講座方言学4 北海道・東北地方の方言』
   飯豊毅一 他編 、国書刊行会、1982年。
小野米一「北海道内陸部の方言」『講座方言学4 北海道・東北地方の方言』
   飯豊毅一 他編 、国書刊行会、1982年。
小野米一『おばんでした 北海道方言の旅』北海道新聞社、1987年。
山崎哲永「北海道方言における自発の助動詞ーrasaruの用法とその意味分析」
   『北海道方言研究会20周年記念論文集:ことばの世界(北海道方言
   研究会叢書第5巻)』北海道方言研究会、1994年。
佐々木冠 他『シリーズ方言学2 方言の文法』小林隆 編、岩波書店、2006
   年。
佐々木冠「北海道方言における形態的逆使役の成立条件」『他動性の通言語
   的研究』角田三枝 他編 、くろしお出版、2007年。

中田敏夫「静岡県大井川流域方言におけるサル形自動詞」『都大論究』18、
   東京都立大学国語国文学会、1981年。
森山卓郎・渋谷勝己「いわゆる自発について:山形市方言を中心に」『国語
   学』152集、国立国語研究所、1988年。
竹田晃子「岩手県盛岡市方言におけるサル形式の意味的特徴」『国語学研
   究』37、[四訂:国立国語研究所→東北大学文学部国語学研究刊行会 ]、
   1998年。
加藤昌彦「宇都宮方言におけるいわゆる自発を表す形式の意味的および形態
   統語的特徴」『国立民族学博物館研究報告』25巻1号、国立民族学
   博物館 、2000年。
山田敏弘「日本語における自他の有対性と他動性―岐阜県方言の自動詞『お
   ぼわる』『鍛わる』『のさる』『どかる』を通して―」『他動性の通
   言語的研究』くろしお出版、2007年。
白岩広行「福島方言の自発表現」『阪大日本語研究』24巻、大阪大学文学部
   日本学科(言語系) 、2012年。

[六訂:追記:金澤庄三郎『日本文法新論』早稲田大学出版部、1912年。]
細江逸記「我が國語の動詞の相(Voice)を論じ、動詞の活用形の分岐するに
   至りし原理の一端に及ぶ」『岡倉先生記念論文集』[四訂:追記:市河三
   喜 編、]岡倉先生還暦祝賀会、1928年。
細江逸記「我が國語の動詞の『話相』(Voice)並に動詞活用形分岐の初期層
   に就いて」『経済学雑誌』第十四巻三號、大阪商科大學經濟研究所 、
   1944年。
新聞集成明治編年史編纂会 編 『新聞集成明治編年史』 第十二卷、 林泉社、
   1936-1940年。
新村出 編『日本文典別記:普通教育 附・国語綴字法別記』開成館、1910
   年。

白川静「字通」平凡社、1996年(初版第六刷、1997年)。
本居宣長「源氏物語玉の小櫛」『近世論文集』藤村作 編、山海堂出版部、
   1933年。

James Jerome Gibson, “The Senses Considered as Perceptual Systems”,
   Boston: Houghton Mifflin, 1966.
ジェームズ・J・ギブソン『生態学的知覚システム―感性をとらえなおす』
   佐々木正人 他訳、東京大学出版会、2011年 。
[五訂:追記:佐々木正人「あらゆるところに同時にいる:ジェームズ・ギブソ
   ンの身体論」『越境する知1 身体:よみがえる』栗原彬 他編 、東京大
   学出版会、2000年。]

空海「即身成仏義」頼富本宏訳注、『空海コレクション2』宮坂宥勝 監、
   ちくま学芸文庫、2004年。
[六訂:追記:
空海「声字実相義」北尾隆心訳注、『空海コレクション2』宮坂宥勝 監、
   ちくま学芸文庫、2004年。
空海「吽字義」北尾隆心訳注、『空海コレクション2』宮坂宥勝 監、ちく
   ま学芸文庫、2004年。]
宇井伯壽『四訳対照:唯識二十論研究』岩波書店、1953年。
廣澤隆之「『唯識三十頌』を読む」大正大学出版会、2005年。
龍樹『中論』西嶋和夫訳、金沢文庫、1995年。
桂紹隆・五島清隆「『根本中頌』を読む」春秋社、2016年。
苫米地英人「『空』を定義する~現代分析哲学とメタ数理的アプローチ」
   2011年。

國分功一郎『中動態の世界―意思と責任の考古学』医学書院、2017年。

サポートしていただけると大変ありがたいです。