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【序章・将軍宣下の朝】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

序章  将軍宣下の朝

「父上、誠ですか。私にこの家を出ろと?!」
「そうだ」
「なぜです。今回のことは兄者の取り巻き連中が・・・」
「何度言えば分かるのだ。兄者ではない。兄上と呼べ。周信はこの家の惣領ぞ。敬意を払え」

「し、しかし、腕は私の方が・・・」
「黙れ。そなたと周信の差など、わしから見れば目くそ鼻くそに過ぎぬ」
「そ、それは余りに・・・」
「もうよい。勘当や押込としてもいいところ、苦労して養子先を見つけてやったのだ。ありがたく思え。とにかく、お代替わりを控え、わしは忙しい。これ以上、わしを煩わせるな。準備ができ次第、さっさと出て行け」

 草鞋の紐を結びながら、ひと月前の父とのやり取りを思い出し、若者は唇を噛んだ。広い玄関に見送りは老家宰だけ。母亡き後、屋敷内において唯一若者のことを気に掛けてくれていた男だ。その彼が、黙って竹皮の包みを差し出す。
「これは?」
「塩むすびでござる。若のお好きな昆布の煮物も添えておきました。道中でお召し上がり下さい」
「ありがとう」
「若、どうか御達者で」
「爺もな。母上の墓参りだけ頼むよ」

 屋敷の門を出るとき、つい振り返った。否応なく、玄関に置かれた見事な衝立に目が行く。若者の祖父に当たるこの家の初代・狩野尚信の筆による水墨画だ。木にぶら下がった猿が、水面に映る月に片手を伸ばしている。

「くそ、猿しかいないような田舎で、何をせよというのか。終わった。絵師としての俺の一生は、これで終わりだ」

 若者が、竹川町(現代の銀座七丁目)の通りに出ると、町は、隅々まで掃き清められ、至る所に祝賀の飾り付けがなされていた。
 延宝八年(一六八〇年)八月二十一日、京都より勅使を迎え、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉の将軍宣下が行われる日なのである。

 しばらくすれば、大小の商家が店を開け、儀式に参列する大名や旗本の行列が続々とやって来るであろう。そんな賑わい、まっぴら御免である。若者は、逃げるようにして江戸を去った。

次章に続く

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