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【第51章・対峙】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第五十一章  対峙

「あっ、お前は! 笹子峠の娘か」

 顔の下半分を覆う布を顎まで下げ、正面に立つ吉之助に素顔を晒した嵐子。口元には不敵な笑みを浮かべている。
「画を教えてくれたお返しに勝沼では見逃してやったけど、今、こっちも余裕がないんでね。死んでもらうよ」

 この娘が恐らく敵の斬り込み隊長なのだろう。当初の混乱を演出した張本人に違いない。すでに相当戦い、且つ動いているはずだ。しかし、返り血の一滴も浴びてない。汗の一筋も流していない。
 化け物だ、という竜之進の言葉が耳に蘇る。しかし、四方から同時に掛かれば・・・。

「ふふふ。四人同時に斬り掛かれば、とか思っただろう?」と、嵐子が見透かしたようにあざ笑う。その態度に耐えかねたか、吉之助を除く三人が、「小娘、舐めるな!」と嵐子に殺到した。

「止せ!」

 思わず声が出た。その瞬間、吉之助の視界から嵐子の姿が忽然と消えた。彼女は、一段身を低くして大きく左に跳んでいた。そして、踏み込んで来た敵の刃を巧みに躱しながら、地に着いた左足を軸に体を旋回させ、今度はその反動を利用して右に跳ねた。さらにひと回転し、斬った相手を踏み台にして上に跳ぶ。最後に空中で体をひと捻りさせると、二間(約四メートル)あまり後方に着地した。

 嵐子に斬り掛かった三人は、左胸、右首筋、顔面をそれぞれ斬り裂かれ、彼女が元立っていた位置に綺麗に重なって倒れた。三人とも即死である。

「なっ?!」
「ふふふ、これで一対一だ。御免よ。ほんと、急いでるんでね」

 嵐子がそう言って吉之助に向って突進しようとしたその時、吉之助の後方で刃と刃が打ち合う音がした。嵐子が足を止め、そちらを見る。吉之助も釣られて目を向けた。高い金属音が連続し、次第に近付いて来る。

「いい腕をしている。貴様、名は?」
「甲府藩士、一刀流・島田竜之進。貴様は?」
「俺は青柳、いや、新陰流・柳生厳四郎だ。行くぞ!」

 間部を追った厳四郎に竜之進が追いつき、欅林の中で斬り合いになったのだろう。追手の足を止められたのは手柄だが、問題はここからだ。遠目で、両者の腕は互角に見えた。

「竜さん!」
「厳四郎様!!!」

 吉之助と嵐子が叫ぶと同時に竜之進と厳四郎が、一瞬、双方中段で向かい合い、そこから互いに対して渾身の斬撃を見舞った。

 竜之進の一撃を厳四郎は手甲で覆った左腕で受け流そうとしたが、守られていない肘の少し上で受けてしまった。しかし、それでも自身の攻撃を止めず、片手斬りで竜之進の首筋に刃を打ち込んだ。
 竜之進は体を反らせてこれを躱そうとしたが失敗。しかし、左肩に深手を受けつつ、構わず放った二撃目が厳四郎の右胸から腹にかけて切り裂いた。厳四郎も負けずに右手一本のまま、竜之進の左足を斬り払った。そこで二人は、どんと体と体をぶつけた後、よろよろと離れ、バタリと倒れた。

「厳四郎様あぁぁぁ!」

 嵐子が甲高い悲鳴を上げ、目の前の吉之助を放り出して駆け出した。吉之助もそれに続き、竜之進の傍らに片膝を付いた。

 息はある。しかし・・・。

 吉之助は振り返り、倒れた竜之進を背にして杖を構えた。嵐子もゆっくり立ち上がると、同様に厳四郎を背に吉之助に向き合い、腰の後ろの脇差に手を掛けた。

 辺りから取り残された負傷者らしい数人のうめき声が聞こえるが、立って動いている者はいない。吉之助と嵐子の二人だけ。
 吉之助は、嵐子の出足を制するため下段の構え。対峙すること数瞬。しかし、二人には一時(二時間)にも感じられた。

 ちっ、やりにくいな。でも、早く、早くこ奴を始末しないと厳四郎様が死んじゃう。嵐子がそう思い、強引に前に走り出そうとした刹那、吉之助が口を開いた。

「おい、女。いいのか。後ろの若者、血が流れ続けている。このままだと死ぬぞ」

 出鼻を挫かれた嵐子は腹立たし気に、「そっちもな」と顎を動かす。吉之助の後ろでも竜之進の体から血が流れ続け、初夏の活き活きした草地を赤く染めていた。

「そうだ。だから、お互いここで矛を収めないか」
「何だって?」
「私は、私の後ろのこの男を死なせたくない。お前もそうじゃないのか」

 三人を一瞬で斬り殺しても眉一つ動かさなかったこの娘が先程上げた悲鳴は、唯の女性のそれだった。倒れている若侍は、彼女にとって特別な存在に違いない。

「そうだよ。だから、あんたをさっさと殺して、厳四郎様を助けるんだ」
「出来るかな? 今やここには私とお前しかいない」
「あんた馬鹿? 四対一で敵わないのに、一対一であたしに勝てると?」

「そうだな。勝てはしないだろう。しかし、一対一なら、お前の動きも自ずと見えてくる。勝てないまでも、腕の一本ぐらいはへし折ってやる」

 吉之助は背が高く腕が長い。さらに彼の得物の杖は普通の刀の倍以上の長さがある。嵐子の抜刀術は変幻自在、無敵と言っていい。しかし、唯一の弱点は間合いが短いことだ。敵の懐に入らなければ、その威力を発揮しない。

「いいか、よく考えろ。ここはお前にとって敵地のど真ん中だ。私に勝ったとして、万が一傷を負ったら、お前、瀕死のその人を担いで逃げ切れるのか」
「・・・」
「矛を収めてくれれば、お前たち二人を追わないと約束しよう」
「信用できるか」

「私は、江戸詰めの甲府藩士・狩野吉之助という。もし追手がかかってその人が死んだときは、私を殺しに来てくれていい」
「信用できない!」

「なら、笹子峠を思い出せ。私は絵師でもある。狩野隨川岑信と覚えておいてくれ」
「隨川岑信? 随分と偉そうだ」
「ああ。今は無名だが、私はいずれ御用絵師筆頭となる。日本中がこの名前を知る。逃げも隠れも出来ぬ」
「御用絵師? 筆頭? 何だいそれ?」
「天下一の絵師ということだ。その隨川岑信が、己が絵筆に懸けて誓う。決して追わぬと」
「・・・」
「時が惜しい。頼む! 信用してくれ!」

 その時である。嵐子の右のかかとを厳四郎の体から流れ出た血が赤く濡らした。彼女はぎょっとして足元を見た。彼女はすぐに顔を上げたが、その瞳にもはや敵意や戦意はなく、むしろ恐怖があった。
「わ、分かったよ。でも、あんたが先に、その棒を捨てな」

「感謝する」
 吉之助はそう言って無造作に杖を投げ捨てると、嵐子に背を向けて竜之進の手当てを始めた。

「おい! 竜さん、しっかりしろ!」
 吉之助が竜之進の体を検めると、左肩から首筋にかけての傷は思ったほど深くない。片手斬りになったことが幸いしたのだろう。深刻なのはむしろ太腿であった。ザックリ割れた傷口から血が流れ続けている。

 格好に構っている場合ではない。竜之進の袴をずり下げ、下半身を露出させた。傷の位置を確認し、そこに手拭いを当てて強く圧迫。出血が少なくなったように思えたので、傷の少し上をもう一枚の手拭いで強く縛る。幸い、血は止まってくれた。

 吉之助はひとつため息を吐いて振り返ったが、そこに敵の姿はなかった。立ち上がって周囲を見渡すと、若侍を背負ったあの娘が、堤沿いに北に向かって走っているのが見えた。その疾きこと、風の如くである。
 何という馬鹿力だ。本当に化け物か。吉之助が呆れていると、竜之進が目を覚まして喚き出した。

「い、痛い、痛い! こ、これは堪らん! 死んだ方がましだ。武士の情け。とどめを、とどめを刺してくれ!」
「馬鹿を言うな!」

 見ると、竜之進が動いたせいで太腿に巻いた手拭いが緩み、傷口から再び血がにじみ出ている。吉之助が力を込めて手拭いを縛り直す。

「痛っ、何するんですか!」
「何ってお前、血を止めないと死ぬぞ」
「痛いですよ。い、いや、尋常じゃない。ほんと、頼みます。と、とどめを・・・」

「黙れ! お前が死んだら、美咲殿はどうする? 江戸に出る支度をして塩山で待っているんだろ。あの人をまた一人にするのか。彼女に生き直す決心をさせた責任を取れ! 痛いのぐらい我慢しろ!」

 すると、欅林の奥が俄かに騒がしくなり、三、四十人の一団が出てきた。中央に騎乗の武士。その端正な姿からひと目で誰か分かった。
「あっ、間部様だ。不用心だな。残党がいたら狙い射ちですよ」
「確かに。しかし、わざわざ戻ってくれたんだ。文句を言っては罰が当たる」

 間部の乗る馬の脇に配下の駒木勇佑の姿があった。吉之助は立ち上がり、大きく手を振って叫んだ。
「おい、駒木! こっちだ!」

 彼はすぐに気付き、間部に何かを告げてから駆け寄ってきた。
「狩野様、ご無事でしたか」
「何とかな。しかし、竜之進が重傷なんだ。医者は来てないのか」
「来ています。すぐ呼んできます」

 竜之進が静かになったが、痛みを堪え、目を閉じて歯を食いしばっているだけのようだ。まずはひと安心。吉之助は、ひとつ大きく息を吐くと、目を嵐子が厳四郎を背負って駆け去った堤の方に向けた。雲ひとつない青空、まぶしい午後の日差し、その下に堤が延々と続き、奥に白根三山の三つの頂が見えた。

 あの二人、無事に逃げ切れるだろうか。

 あの娘に何人斬られたか。一歩間違えば自分も。しかし、真正面から向き合った彼女の目がどうにも忘れられない。血まみれで地に伏す若侍を背にかばったときの、この世の全てを敵に回してでもこの人を守り抜くという決意に満ちた眼差し。若者の死を予感したときの怯えたような眼差し。そして、笹子峠で出会ったときの、あの無邪気な・・・。

 吉之助は、甘過ぎるかとしばらく自問自答したが、結局、二人の逃走について間部に報告しなかった。

次章に続く

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