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【第43章・典膳の妹】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第四十三章  典膳の妹

 甲州街道の勝沼宿は甲府盆地の東端に位置する重要な物資集積地である。江戸時代、宿場には本陣と脇本陣があり、民間の旅籠も二十を超えた。

 狩野吉之助を含む甲府藩の一行は、道中、天領(幕府の直轄地)の宿場では民間の旅籠に宿泊したが、甲府藩の領内に入ってからは脇本陣に泊まってきた。一行を率いる用人・間部詮房が藩主の名代であることを示すためである。

 夜襲を受けた際、玄関での騒ぎから賊二名が塀を越えて逃げ去るまで、吉之助の体感では四半時(三十分)も戦ったように思えたが、実はその半分もかかっていない。

 吉之助が屋敷内を点検していると竜之進が横に来た。
「くそ、逃げられましたよ。逃走経路も考えていたようです」
「そうか。ともかく、ご苦労さん」
「で、こちらの被害は?」
「門番と玄関にいた不寝番が一人ずつ。あと、間部様の御用部屋の部下が一人。それと、番方の警護役・加藤さんがやられた。死者は合計四人だな。しかし、間部様の部下はどうして斬られたんだ?」

「あれは、騒ぎに驚いて廊下に出たところを、あの黒装束の奴と鉢合わせしてバッサリと」
「何と間の悪い」と、吉之助が顔をしかめたところで背後から声が掛かった。間部が呼んでいるとのことだ。

 間部の居室は、ついさっき斬り合いがあったとは思えぬほど綺麗に片付けられていた。間部本人も涼しい顔で座っている。
「こちらへ。先程、藩庁の城代家老から連絡が来ました。昼には警護の人数が着くそうです」

「これまた間の悪い。一日早ければ、無駄な犠牲を出さずに済んだかもしれない。もしや、敵はそれを承知の上で? 藩庁の内通者と連携していたのでしょうか」と吉之助。

「分かりません。ところで、塩山方面に向かう不審な武士の一団が目撃されたという報告も入っています。今回の襲撃に新見典膳の姿がなかったということは、あちらが敵の本隊である可能性が高い」
「狙いはやはり」
「ええ」
「すでに目標を確保されていないといいけど・・・」と竜之進が心配顔になる。それに対しては間部が安心材料を提供してくれた。
「その点、望みはあります。太田正成の嫡子は、十年前に出家して恵林寺の塔頭に入りましたが、二年前に別の塔頭に移っています。これは、私の執務室から罪人名簿が奪われた後に判明したことで、敵は知らないはずです。多少は時間を稼げるでしょう」

「なるほど。では、準備でき次第、我らは塩山に向かいます」
「よろしくお願いします」

「その際、おりんを連れて行きます。以前お話したように、旧知の庄屋に預けます」
「分かりました。彼女は命の恩人です。あの時、彼女が襖を開けて入って来なければ、私の首は斬り飛ばされていたでしょう。安心して暮らせるよう、面倒をみてあげて下さい」
「承知しました」

 吉之助は一礼して立ち上がったが、再度腰を下ろした。
「忘れるところでした。間部様、一筆書いていただけませんか」

 間部は藩主名代として来ている。領内の綱紀粛正も今回の目的のひとつであるから、藩中に対してはそれに相応しい格式を見せねばならない。従って、宿場役人に対する状況説明と事後の警備強化の指示、さらに来援する警護部隊の受け入れ準備については、吉之助が前に出て行った。

 それらを済ませ、吉之助が勝沼を発したのは二日後のことである。予定より一日遅い。同行者は竜之進の他、出向組御家人の三男坊・駒木勇佑と足軽の中年剣士・赤沢伝吉。四人は、吉之助がかつて山役人として勤務していた塩山を目指して歩を進める。

「間部様に何を書かせたんですか」と、横から竜之進が言ってきた。
「うん? ああ、あれか。地元の役人と庄屋に対する臨時の指揮権を与えるという書付だよ」

「ほう。それ、どう使うつもりです?」
「あの辺りだと、山廻りの与力二人、郷方の与力と同心が三人、合計五人はすぐに呼べる。その連中に弓を持たせて、あと、確か、村には火縄銃を持った猟師が二人はいたはずだ。弓が得意な駒木に指揮をさせれば、かなりの戦力になると思わないか」

「飛び道具で、新見典膳を? 吉之助さん、えげつないなぁ」
「だって、竜さんが言ったんじゃないか」
「何を?」
「奴は強い。化けの物のように強いと。違うのか」
「いや、違いません。間違いなく強いですよ」
「だろ。それなら、使える物は何でも使うさ。御前試合をするわけじゃない。一対一で正々堂々なんて、何の意味もないからな」
「確かに」

「あの夜襲のことを思えば、これはもはや戦だ。この点、覚悟しておいてくれ」
 そう吉之助が振り返って言うと、後に続く二人も真剣な表情で頷いた。

 殺伐とした雰囲気に包まれた四人の男。しかし、周囲はのどかな田園風景。清々しい新緑、青い空に白い雲。そこに輪をかけてのん気な声が響いた。
「ちょっとぉ、そんなに急がないでよ。置いてかないでよぉ」
 後方から叫ぶ少女・おりん。一行は、四人ではなく五人であった。

 塩山に着くと、まず、周辺地域を統括する大庄屋・高木治兵衛を訪ねた。吉之助には山役人時代の顔なじみである。

 治兵衛の屋敷は、俗に甘草屋敷と呼ばれていた。

 甘草とはマメ科の多年草で、根や根茎を乾燥させると鎮痛や解毒など、様々な用途の薬として利用できる。治兵衛は多年、自費を投じてこの薬草の栽培と研究に努めてきた。
 屋敷の前庭にも甘草が植えられている。まだ背は低いが、よく見れば、どれも紫の可愛らしい花を咲かせていた。

 吉之助が治兵衛に間部の書付を差し出すと、彼は殊更に恭しい態度で受け取り、ゆっくりと目を通した。
「承知しました。何事もお指図に従います」
「よろしく頼みます」
「それにしても狩野様、大変なご出世でございますな」
「いや、そんなことは・・・」
「いえ。藩主様のご名代であられる御用人様のお指図で任務に当たっておられるのです。最早、軽々しく接することは出来ません」
「庄屋殿、あまり弄らんで下さい」と言って吉之助が頭を掻くと、治兵衛はそこで初めて笑顔を見せた。

 竜之進たちを治兵衛に紹介した後、座敷で休息させてもらった。すると、お茶請けとして名物の枯露柿(干し柿)が出てきた。
「これは懐かしい味だ」

 末席に目をやると、おりんが両手に柿を握って夢中で食べている。
「甘くて美味しいね、これ。おじさん、明日のおやつの分も貰っていいかな?」
「馬鹿。庄屋様と呼べ。お前はこれからこの方の世話になるんだぞ」
「ははは、構いませんよ。ただ、お嬢さん、持って行く必要などありません。欲しいときは言って下さい。いくらでも出しますから。ところで狩野様。お探しの新見典膳とは、先年、手配書の回ってきた新見正友と関係があるのですか」

「当人です。非常に危険な男ですから、村々には警戒態勢を取らせません。下手に関われば死人を出しかねない」
「お、恐れ入ります。あの・・・」
「何か」
「いえ・・・」

 吉之助は、治兵衛の複雑な表情が気になった。さばけた人柄のこの人には珍しい。
「庄屋殿。詳しくは話せぬが、今回のことは藩の大事に関わることなのだ。裏でこそこそ動かれると、何かあったときに庇い切れぬ」

「そのようなことはいたしません。ただ、実は、その新見正友の妹君を、今、この屋敷で預かっているのです」
「えっ?!」
 吉之助と竜之進が顔を見合わせた。二人が驚くのも無理はない。

「美咲様と申されます。ご体調を崩され、離れで臥せっておられます」
「どういう経緯でこちらに?」と竜之進。

「はい。ここにいらしたのは、半年ほど前です。美咲様は女子ゆえに父君の罪とは無関係とされ、ご親戚に引き取られていました。そして、成人の後、そこのご家来と結婚を。ご家来と言っても身分としては足軽だったそうで。美咲様の元のご身分を思えばひどい話です。しかし、それでも、しばらくは平穏に過ごしておられたそうです。ところが、今度は兄君が藩の重罪人となってしまいました。重ねてのことです。結局、ご親戚からは縁を切られ、当然、夫とも離縁です。美咲様は、しばらく近くの寺に身を寄せておられましたが、女性ですからな。寺にも長くは居られません。私はその寺の住職とは長い付き合いでして、その関係で、お預かりすることになった次第です」

「ご自身は何も悪くないのに、お気の毒な」と吉之助。
「まったくです」
「お歳は?」
「三十二とのことです」
「竜さんより二つ上か」
「そうですね」と、竜之進が苦虫を噛み潰したような表情で小さく応じた。

「臥せっているとのことだが、何の病ですか」
「特にご病気ではないのです。ただ、生きる気力を無くしておられます。食も細るばかりで」
「とにかく、一度話を聞きたい。案内を頼みます」

 新見美咲は、細面で透き通るような白い肌の美しい人であった。

 粗末な木綿の着物。しかし、清潔で着こなしに隙がない。髪型は最早ひと昔前のスタイルとされる下げ髪。艶やかな黒髪である。一方、治兵衛の言った通り、彼女の両の目には全く力を感じない。何かアンバランスで、一層儚く、悲しい印象を受ける。

「兄が、そのようなことに・・・」と、美咲が俯きながら呟く。
「我らも先を急いでいます。失礼を承知で単刀直入にお尋ねします」
「何なりと」

「父親の新見正信は、あなたに何か遺していませんか。品物や文書など、何かあれば出していただきたい」
「いいえ、何も」
 確かに、この部屋には寝具ときちっと畳まれた数枚の着替えしか見当たらない。治兵衛の話では、美咲がここに来たとき、ほぼ着の身着のままであったという。

「なるほど。では、最近、兄の新見正友、いや、新見典膳と連絡を取ったことは?」
「ございません」

 すると、横から竜之進が割って入ってきた。
「吉之助さん。この方の歳を考えると、典膳の顔もほとんど覚えていないでしょう。違いますか」

「はい。兄は勿論、両親の顔さえ覚えておりません」
 美咲はそこで言葉を切ると、おもむろに顔を上げた。吉之助には、一瞬、彼女の目に力が戻ったように思えた。彼女が後を続ける。

「されど、わたくしは、新見の家の者として、自らの責任から逃れる気はございません。どうか、ご存分にして下さいませ」

 吉之助は、ひとつため息を吐いてから言った。
「いや、早合点されては困る。我らは、あなたに罪を負わせる気など毛頭ありません」
「そう、なのですか」
「無論です!」と竜之進。
「では、兄はどうなるのでしょうか」
「申し訳ありません。それは任務に関わること故、お話できません」

 吉之助と竜之進は美咲の住む離れを出た。二人が外に出て戸を閉めるまで、彼女は頭を下げていた。

「綺麗な人だなぁ」と、竜之進がしみじみと言う。

「おいおい、本気か。これから殺し合う相手の妹だぞ」
「それはそうですが、私も謀反人の子として育った身ですからね。あの人の苦労は分かる。いや、あの人は、私の何倍も辛い思いをしてきたに違いない。にもかかわらず、姿形は勿論、心映えまで美しい人だ。とても足軽の嫁になるような人じゃありませんよ。それをいくら事情が変わったからと言って、さっさと離縁しちまうなんざ、罰当たりにも程がある」

「まあ、竜さんの気持ちも分かるが、足軽云々は、赤沢さんの前では言うなよ」
「あ、失礼しました。そういう意味じゃ・・・」
「分かってるよ。そうだ、いいことを思い付いた」
「何ですか」
「おりんを美咲殿の世話係に残していこう」
「は?」
「おりんは生命力の塊みたいな子だ。あれが近くにいれば、きっと元気になる。それに、美咲殿に指導してもらえば、おりんの言葉遣いや立ち居振る舞いも少しはましになるだろう。一石二鳥じゃないか」

 二人が母屋に戻ると、脇にある馬小屋の前で当のおりんが転げ回っていた。何事かと思えば、子犬とじゃれているようだ。その無邪気で元気な様を見て竜之進が笑い出した。
「ははは、確かに名案ですね。もっとも、こ奴がそう簡単に行儀よくなるとは思えませんけど」

次章に続く


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