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【第57章・太公望図を捧ぐ】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第五十七章  太公望図を捧ぐ

 おりんが町絵師の工房で修行を始めてから約四ヶ月。十一月下旬となり、江戸の町に木枯らしが吹き始めた。ひとつ慶事があった。竜之進の妻となった美咲が身籠ったのである。

「竜さん、美咲殿、おめでとう。で、生まれるのはいつ頃だい?」
「来年の春くらいでしょうか」
「そうか。大事にな」
「美咲さん、つわりは大丈夫? 何かあったら何でも言って下さいね」
「ありがとう存じます。ご夫妻には本当にお世話になるばかりで・・・」

 藩の罪人の娘であり妹である美咲は、塩山の大庄屋・高木治兵衛の養女になった上で竜之進に嫁いだ。高木家は、その昔武田信玄の異母弟に仕え、今も藩から名字帯刀を許されている地域の名士である。吉之助は甲府から戻るに際し、旧知の治兵衛にこの事を頼んでおいたのだ。
 また、美咲が江戸に来てからは、彼女が御長屋での生活になじめるよう、志乃が何かと面倒を見ている。

 すると、ひょっこり顔を出したおりんが美咲のお腹に手を当てて言った。
「へえ、ここに赤子がねぇ。竜の字も親父になるのか。しっかりしなよ」
「お前、何という言い方を」
「ふふふ。狩野様、よいのです。おりんさん、あなたには感謝しています。塩山であなたに出会っていなければ、わたくし、竜之進様の申し出を断っていたでしょう。わたくしが新たな一歩を踏み出す勇気を持てたのはあなたのお陰。本当にありがとう」と言って微笑む美咲の隣で、竜之進も軽く頭を下げた。

「じゃあ、お礼にお煎餅一年分ね」
「いい加減にしろ。全く成長せん奴だな」

 その時である。正規の藩士になって間もない配下の駒木勇佑がやって来た。
「狩野様。殿がお呼びです。庭園の東屋に来るようにと。殿はすでに向かっておられます。お急ぎ下さい」

 御長屋から御殿へ。そして大広間の端から庭に下りる。潮入の池の東側、江戸湾を一望できる築山の頂上に瀟洒な東屋が建っている。見れば、すでに甲府藩主・松平綱豊が近習二人を従えて待っていた。
「おお、吉之助。急に呼び出してすまんな」
「滅相もございません。して、如何なる御用でしょうか」

「うむ。ああ、そうだ。詮房に聞いたぞ。竜之進に子が出来たそうだな」
「はっ。来春には生まれる、とのことでございます」
「そうか。先日は帯刀(番頭・鳴海帯刀)のところでも孫が生まれた。子の誕生ほどめでたいことはないが、素直に喜べぬ」
「お察しいたします」

 綱豊の正室・近衛熙子の懐妊が発表されてから、十月十日はとっくに過ぎている。男子誕生となれば待望のお世継ぎである。藩を挙げての祝賀となっているはず。しかし、何もない。そして、熙子は相変わらず全く家臣の前に姿を見せない。三十路を過ぎての懐妊だ。当初から危ぶむ声はあったが、悪い予想が当たってしまった形である。

 日当たり良好。北からの微風がむしろ心地よい。綱豊は、穏やかな波に覆われた江戸湾を眺めながら、ため息を吐いた。
「万策尽きた。吉之助、知恵を貸せ」
「殿。御前様はどのようなご様子なのでしょうか」
「夏に入る前に体調を崩し、流産してしまった。幸い、お照の体に異常はない。ただ、ひどく落ち込んでいてな、寝所から出ようとせぬ。何とか慰めようと色々試したが、効果なしだ」

 熙子は十四で綱豊に嫁し、二年後に姫を産んでいる。ただし、わずか二ヶ月で亡くした。それから十七年、待ちに待った懐妊であったから、その落胆は想像に難くない。

 綱豊はさらに大きなため息を吐いた。そして、最高級の吉野檜を使った東屋の柱をポンとひとつ叩いた。

 元々この場所にこのような建造物はなかった。御殿からの視界を遮ることになるからだ。しかしこの夏、突如綱豊がこの東屋の建設を命じた。しかも、日頃家臣に対して無理を言わない綱豊が、酷暑の中での突貫工事を強いた。熙子はこの場所から眺める江戸湾の夕景を愛して止まぬ。秋までに完成させ、紅葉で飾られた庭園と秋の夕陽に染まる江戸湾の絶景で熙子を慰めるつもりだったに違いない。

 吉之助も正の納戸役となった最初の仕事として建設に携わった。グッドタイミングと言っては失礼だが、前年に豊前(福岡県東部及び大分県北西部)で八万石を領する大名が嗣子なしにより改易となっていた。その上屋敷にいい感じの茶亭があったので、解体して部材を借用させてもらった。それも含め、暑い中、皆と大汗かいて完成させたのだが、秋となり紅葉もほぼ終わる頃となっても、熙子がここを訪れたとはついぞ聞かない。

「吉之助。そなた、菊慈童を描いてお照の心を開かせたことがあったな。それを思い出した。何とかならんか」

 吉之助が御長屋の住まいに戻ると、志乃とおりんが夕飯の支度をして待っていた。
「やはりそうでしたか。お気の毒ですね」
「薄々分かってはいたが、殿の口から直接聞くと、辛いな。しかし、難問だ。おりん、お前はどう思う?」

 夕餉の味噌汁の具は豆腐となめこ。箸でなめこを取るのに夢中になっていたおりんが、白けた顔になり箸を止めた。
「別に。ただ、大名の奥さんって、やっぱりお気楽なんだね」
「おりん、何を言うのです。さすがに失礼ですよ。御前様がお気の毒だと思わないの?」

「そりゃ、思うよ。子供を亡くして悲しまない親はいないもの。でも、貧乏人は、どんなに辛くても悲しくても、寝床から出られるようになったら働かないとね。自分が飢えちまう。それを、季節二つ分も御殿の奥に引き籠っていられるなんて、お気楽だって言ったんだ」

「なるほど。お前、いいこと言うな」
「あなた!」
「それで、慰めて駄目なら、お前ならどうする?」
「横っ面をひっぱたいてやるね。目が覚めるよ」
「なるほどな」

 吉之助は腕組みして考え始め、四半時(三十分)後、台所で片付けをする妻の背に言った。
「しばらく工房に籠る。殿か間部様からの呼び出し以外、声を掛けないでくれ」
「あなた、お茶は?」
「いや、今はいい」

 三日後、吉之助は一枚の掛け軸用の画を描き上げ、未装のまま熙子の側近・平松時子に渡した。すると翌日、時子からの文が届いた。夕方の七つ半(ほぼ午後五時)、例の東屋に来い、ということだ。

 行くと、御前様・近衛熙子がいた。時子一人を従えた彼女は、彼女の体格に合わせて作られた腰掛に座っている。そして、精巧な透かし彫りの入った欄干に片肘を置き、頬杖をつきながら海を眺めていた。豪奢な打掛をまとった彼女は、後ろ姿でさえ、赤く美しく染まった江戸湾の夕景にまったく負けてない。

「狩野吉之助、お召しにより参りました」
「そなたの描いた画を見ました。あの老人は、太公望で間違いありませんね」
「その通りでございます」

 太公望呂尚は、古代中国の伝説的名軍師である。周の文王の丁重な招きに応じ、その帷幕に参じた。そして、文王を継いだ武王に代わって軍を率い、牧野の戦いで殷の紂王を破った。さらに中原を制覇し、周王朝八百年の基を築いたのである。
 吉之助が描いたのは、文王が渭水のほとりで釣りをしていた太公望に声を掛ける名場面であった。

「つまり、泣いている暇はない。しっかり殿を補佐しろ、ということじゃな」

 そこで熙子が振り向いた。久しぶりに彼女の鳳眼に射貫かれ、吉之助は全身が固まった。その切れ長の目は、まるで夕陽から吸い取ったように光を取り戻している。圧倒的な美しさ、高貴さ。何と出過ぎたことをしたか。おりんの言葉に乗せられた己を悔いた。

「恐れ入り奉ります」
 吉之助は思わず平伏した。脇の下が汗で濡れる。

「ふふふ、何を恐れ入る。お陰で目が覚めました。思えば、奥で寝ているのにも飽いた」
「はっ」

 そこで熙子は再び海の方を向く。湾全体を覆う大小の波と熙子の打掛に縫い込まれた金糸銀糸が、シンクロするようにキラキラ輝いている。

「聞くがよい。わたくしはこの夕景に誓う。必ずや殿を次の将軍にすると。そして、この国の政を正すと」
「ははっ」

 この後、熙子は次第に表にも姿を見せるようになり、浜屋敷全体が明るさを取り戻して行った。師走に入り寒さが増す。そんなある日、狩野家では夕飯にほうとうを作ることになった。竜之進・美咲夫妻も合流。

「そうだ。吉之助さん、何で太公望を? 御前様は確か、張良がお好きでしたよね」
「ああ、そうだよ。ただ、張良はな。ふふ」
「先生。何、その笑い?」と、おりんが突っ込んできた。

「つまりだ。張良っての貴族の出で、しかも女性と間違われる程の美男子だったと史書に記されている。そして、張良を描く場合、大抵、彼が黄石公という老人から兵法の奥義(太公望兵書)を授かる場面を描くのだが、若い時分の逸話だからな、一層いい男に描くことになるわけだ」

「美男子か。あっ、なるほどね」と、竜之進も納得顔になった。
「えっ、何?」
「お前にはまだ早い」
「何なのさ」と、おりんが頬を膨らませる。

「いいか、外で言うなよ。つまりだ、御前様が若い男の画など眺めていたら、殿が妬くだろ」
「なぁんだ、そんなことか。くっだらない」
「しかし、絵師ってのは、そこまで考えなければいけないんですか。私には務まらないなぁ」

 そこに志乃が来て、胡瓜の浅漬けを盛った小鉢を卓の中央に置いた。話は台所まで聞こえていたようだ。
「竜之進様、そうでしょう。普通、そこまで考えませんよね。この人、佞臣の才があるんですわ。以前だって・・・」
「こ、こら。志乃、何を言い出すんだ」
「ねいしんって、何?」
「知らんでいい、そんなこと」

 美咲がほうとうの入った碗を五つ、盆に載せて運んできた。作りたてのほうとうから、ゆらゆらと白い湯気が。味噌と南瓜の香ばしく甘い匂いも。誰かのお腹がぐうと鳴る。
「えっ、ひどい。あたしじゃないよ」

次章に続く

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