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【第45章・不自然な富士図】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第四十五章  不自然な富士図

「滅却心頭火自涼(心頭滅却すれば火も自ずから涼し)」で有名な恵林寺。塩山から北の山地に続くなだらかな坂の途上にある。

 歴史は古く、鎌倉時代に時の甲斐国主が夢窓疎石を招いて開いたとされる。戦国時代には武田信玄により厚く保護され隆盛を極めた。しかし、武田家滅亡に際し、織田・徳川連合軍による焼き討ちに遭い一山灰燼に帰した。その後、本能寺の変が起こり、織田家の駐留部隊が甲斐から撤退。すかさず甲斐を手中に収めた徳川家康は、人心を安定させるため急ぎ恵林寺を再建したのである。

 恵林寺の西側は深い谷で笛吹川が流れている。吉之助と竜之進が向かっている恵光院は、恵林寺の塔頭であり、川を渡った崖の上にあった。

 坂を上がると、眼下に、岩間に水しぶきを上げる渓流と崖の岩肌を覆わんばかりの藤の花が見えた。背後には甲斐の山々、そして、薄っすら雪を残す富士の頂。

「いい眺めだなぁ」と、竜之進が感嘆の声を漏らす。
「言ってる場合か。行くぞ」

 山門をくぐると、すぐに小ぶりな枯山水の庭。砂紋が綺麗に引かれている。誰がやったか、整えたばかりのように思えた。その奥が方丈だ。すでに敵がいないことは承知の上だが、二人は何か異様な空気を感じ、思わず身構えた。

 竜之進が方丈の障子戸を勢いよく開け放つ。中は、駒木が言った通り、血の海であった。
「これはひどい。ここまでやるか」

 中央に四人の死体が転がっている。立派な袈裟を掛けたのが住職だろう。あとの三人も禅僧の姿。そして、奥の仏間で座禅の姿勢のまま息絶えているのが、太田正成の忘れ形見・覚隆に違いない。覚隆に口を割らせるため、彼の面前で僧たちを一人ずつ殺して行ったようだ。

「分かりませんね」と竜之進が首をかしげる。
「何が?」
「いや、新見典膳ですよ。先程は、傷ついた仲間を庇っていたでしょう。しかも、仲間を逃がすために一人で殿を。下手すれば死んでた。妙に人間味があるかと思えば、この残忍さ。訳が分からない」

 二人は奥の仏間に進み、覚隆と思われる遺体を検めた。
「この様子じゃ、あのとき寺に踏み込んでも助けられなかったでしょうね」
「そうだな。しかし、気の毒なことをした。待てよ、そうか。間部様の資料にあったな。確か、覚隆は典膳の二つ上。もしかしたら、二人は子供時代に交流があったのかもしれない」

「あり得ますね。一方は恨み骨髄の復讐鬼、一方は世を捨てた禅僧。水と油だ。なまじ見知っているだけに、癇に障ったかな。それにしても、これはやり過ぎだ」

 覚隆の死体は、上半身が裸で胸や背中にいくつもの傷がある。座禅を組んだ状態の両の太腿にも深い刺し傷がある。首筋の切り傷が致命傷のようだが、ひと思いに殺すのではなく、血を流させ、出血多量で息絶えるまで尋問し続けたようだ。

「敵は収穫なしだったのでしょうか。まあ、あったらここまでしてないか」
「どうかな。ともかく、無駄とは思うが、まずは他に誰かいないか確認しよう。私は室内を見て回るから、竜さんは裏手の方を頼む」
「承知しました」

 吉之助は方丈から出ると書院を見た。その後、廊下を奥に進む。僧たちが暮らす庫裏に入ると、どこもかしこも荒らされていた。中に特に念入りに物色されたと思われる部屋があった。ここが覚隆の居室なのだろう。そして、台所から雪隠(トイレ)まで見て回ったが、方丈の五人以外、死体はなかった。人影も見当たらない。

 吉之助が方丈に戻ると、ちょうど竜之進も戻ってきた。裏手も無人だったとのことだ。
「覚隆の居室があった。荒らされた後だが、もう一度よく調べてみよう」
「はい」

 覚隆は修行中の禅僧である。居室も簡素な造りだ。ただ、やはり元家老の嫡子だからか、一応個室で、小さな床の間もある。横長の富士図が掛かっていた。
 部屋中、足の踏み場もない。覚隆の私物と思われる経典の写しや手紙類などが散乱している。

「とりあえず、大雑把でいいから分類してみよう。これが覚隆の手跡だな。まず、覚隆の書いたものとそうでないものに分けよう」
「そう言われても、私には分かりませんよ」
「じゃあ、竜さんは、写経と、そうでない文書に分けてくれ。それくらいなら分かるだろ」
「はあ」

 四半時(三十分)ほどで文書の整理が終わった。
「何もありません、よね?」
「そうだな。しかし、念のためだ。地元の役人に頼んで甲府の藩庁に運んでもらおう」
「じゃあ、一度戻りますか。赤沢さんの容体も気になる。あっ、方丈の死体はどうします?」
「それも地元の連中に任せよう。これだけの惨状だ。連中も上役に報告せねばならんだろう。弔いは、本山の恵林寺がやってくれるんじゃないかな」

 二人は山門の前で立ち止まると、振り返り、方丈に向かって手を合わせた。その後、坂を下り始めると、真正面にくっきりと富士が見えた。甲斐の山々の稜線に両の手を掛け、後ろから上半身を乗り出す巨人のような姿である。

 坂を半ばまで下ったところで、吉之助が突然声を上げた。
「分かった! 分かったよ、竜さん。戻ろう」
「え? え? 何が分かったんですか」
「いや、あの部屋だ。覚隆の居室。何か変だと思いつつ、それが何か分からなかったが、今思い付いた。とにかく戻ろう」

 大急ぎで寺に戻ると、吉之助はまっすぐ覚隆の居室に向かった。
「これだ。この富士の画だよ。変だと思わないか」
「はて?」
「この富士はおかしい。甲斐から見ても、駿河から見ても、こんな姿にはならない」

「どういうことですか」
「つまり、手前の稜線と富士が合ってない。この稜線は、そうだな、塩山や勝沼から北を向いたときに見える稜線だ。いいか。右端が黒川金山のある鶏冠山、隣が倉掛山。そして、主に描かれているのは笛吹川の西側だ。間違いない。私はこの景色を十五年以上眺めてきたんだから。真逆にある稜線の上に富士を載せている。おかしいじゃないか」

 しかし、竜之進にはピンと来ていないようだ。もどかしい。
「やはりおかしい。絶対におかしいよ」
「でも、画ですからね。わざと実景と違うように描くこともあるのでは?」

「無論、それはある。名所絵などではよく使われる手法だ。例えば、雪舟等楊の天橋立図。あれは雪舟が現地に足を運んで描いたとされるが、あの画の視点では絶対に画面に納まらない小島を端の方に描き加えている」

「ほらね」
「しかしな、真逆の景色をこんな風に組み合わせるなんて、趣味が悪すぎるよ。この画は、それなりに心得のある者の作だ。筆遣いを見れば分かる。普通、こんな描き方はしない」

「じゃあ、もしかして何か特別な意味が? まさか、この画の中に隠し金山が?」
「そこまでは分からんが・・・」

 すると、竜之進が床の間に近寄って掛け軸の中回しの部分に触れた。
「あれ? ここ、やけに厚くないですか。この辺り、紙が浮いてる」
 吉之助も近寄ってのぞき込む。
「確かに。本紙の下にもう一枚ありそうだな」

 そこで竜之進が刀の差表から小柄を出し、画の片側を掴んで本紙と中回しの間に刺し入れようとした。
「待て! 何をする?!」と、吉之助が慌てて止める。
「いや、剥がしてみようと」
「馬鹿なことを。素人に出来るものか。本職の表具師でないと破いてしまうだけだ」

 吉之助は掛け軸を床の間から外すと、くるくると巻き、小脇に抱えた。その後、二人は恵光院を出て赤沢伝吉が運ばれた民家に向かった。

 赤沢の意識はまだ戻っていない。しかし、重傷ではあるものの、命に別状はないらしい。駒木が恵林寺から連れてきた医僧の見立てである。あの時、典膳も傷を負っていた。斬撃の威力がその分落ちていたのだろう。不幸中の幸いだ。吉之助は駒木に赤沢の看護を任せることにした。容態が安定したら甘草屋敷に運ぶよう指示しておく。

 晩春、いや、もはや初夏と言っていいかもしれない。吉之助と竜之進が、午後の日差しを背に受けながら新緑に包まれた山道を下って行く。図らずも得た手掛かりに、二人の足取りは自然と速くなっていた。

次章に続く

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