【第50章・釜無川の戦い(後段)】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)
第五十章 釜無川の戦い(後段)
間部が作事奉行に促されて川側に堤を下りた。吉之助たちも続く。堤の全体を見渡せる場所まで進み、奉行が説明を始めた途端、堤の背後、欅林の方向から人の叫び声が上がった。
「何の騒ぎだ? 喧嘩か」
奉行が眉をひそめ、配下の一人を見に走らせる。彼はそのまま説明を続けようとしたが、さらに複数の悲鳴や怒鳴り声が。周囲が浮き足立つ。吉之助と竜之進は、一瞬顔を見合わせ、揃って堤に駆け上がった。
「襲撃か」
「木が邪魔でよく見えない」
しかし、かすかだが林の中から刃の打ち合う音がする。斬り合いが起きていることは確実だ。竜之進が、「私が」と言って駆け出そうとしたが、吉之助はそれを止めた。
「相手の数も分からない。ここは間部様を守ることに専念しよう」
そう言っていると、騒ぎが欅林から手前の草原に移動してきた。敵は数人。しかし、そのたった数人に斬られ、追われ、また斬られ、数で圧倒的に勝っているはずの甲府藩の者たちは完全に混乱している。
「だらしない!」と、竜之進が吐き捨てる。
吉之助は後ろを向いて間部の周囲を確認した。江戸組と作事奉行の配下を合わせて二十数名。間部一人を守るならこれで十分だろう。吉之助は慌てず騒がず、間部に歩み寄った。
「間部様。ひとまず竜王に向かいましょう。休息予定の庄屋宅にはあちらの準備をしている人数もおります」
「分かりました」
すると、横でこれを聞いていた作事奉行が、「皆、竜王まで退け! 竜王で態勢を立て直すのだ。急げ!」と叫んだ。途端、動くきっかけと方向を示された藩士たちが我先にと走り出した。間部の周囲は、戦の陣立てで言えば本陣である。それが俄かに動き出したのだ。少し離れていた者たちや人足なども一斉に駆け出す。もう止められない。
竜之進など、怒るよりも呆れ顔だ。
「おいおい、大将をほっぽり出してどうする? 仕方ない。やはり私が迎撃しますよ。吉之助さんは間部様をお連れして下さい」
竜之進が駆けて行く。間部が江戸組の番方藩士三名にその後を追わせた。これはどちらも悪手であった。この場で最も腕の立つ竜之進は警護対象から離れるべきではない。また、この段階での戦力分散も稚拙極まる。皆、太平の世の武士なのだ。敵の陽動作戦を見抜けるほど戦慣れしていない。
敵の作戦が第二段階に入る。上流から一艘の小舟が流れてきた。船上に二人。一人は片腕を吊りがら櫓を操る若侍。そして、もう一人は背の高い、精悍な顔つきの男だ。ひと目で新見典膳と知れた。
吉之助が、あっ、と思った瞬間、川の中州に軽く乗り上げた船上から、典膳がひゅっと上空に向けて矢を放った。吉之助は、矢の行方を目で追う。矢は、先端から細い黒煙を出していた。
「火矢か。どこに?」
さらに典膳は二本三本と連続して火矢を放つ。そして、矢が堤を越えて草原に落ちるたびにその場所からモウモウと黒煙が上がった。事前に油でも撒いてあったようだ。
「新見様、お見事!」と操船担当の若侍。
「嵐子殿の描いた絵図が正確なのだ。堤の陰で見えなくとも、仕掛けの位置を狙える。この煙で少しは動きやすくなるだろう。厳四郎殿、嵐子殿、そして残りの皆も、あとは頼むぞ!」
間の悪いことに風がやんでいる。黒い煙が流れない。吉之助の位置から、竜之進が駆けて行った方向が全く見えなくなった。その用意周到さに、吉之助は襲撃者の強い意思を感じた。彼等は微塵も諦めてなどいなかったのだ。
「駒木、退くぞ。間部様を竜王の村までお連れする。ここにいる者は共に来い!」
「しかし、島田様や他の方々が・・・」
「今は間部様をお守りすることだけを考えろ!」
吉之助たちは間部を囲んで堤を越え、そのまま欅林に入った。すると、待っていたとばかりに横合いから、抜刀した三人の侍が飛び出して来た。
「今度は待ち伏せか」
敵の一人が、「拙者は青柳厳四郎。間部詮房殿、お命頂戴!」と叫んだ。同時に白刃一閃。しかし、その斬撃は、後ろから突き出された吉之助の杖によって、間部の首筋に届く寸前で止められた。吉之助の腕と得物の長さが幸いした。
「邪魔するな!」
厳四郎が体を横に滑らせつつ、刃を返して前に出ようとする吉之助の足を狙う。吉之助は冷静にそれを受けると、間部を背にかばい、赤樫の杖を中段に構え直した。
すると、背後で間部が刀を抜こうとする気配。間部の差料は無銘ながら備前派の業物で、用人職拝命時に綱豊から下賜されたものだ。さぞや切れるだろう。しかし・・・。吉之助はちらりと後ろに目をやり、間部に言った。
「おやめさない。その元気があるなら結構。あなたは死ぬ気で走って下さい」
「む。わ、分かった」
「駒木、ここは私が防ぐ。間部様を守って、走れ!」
「は、はい」
「山田殿、二木殿、お二人も間部様と共に。他の方はここで防ぎます。よろしいか!」
「おう!」
「駒木、行け!」
駒木が間部を促して走り出した。他の二人も続く。その後を青柳厳四郎が追いすがろうとしたが、吉之助が大股で横に動き行く手を塞いだ。
「行かせぬ!」
「その杖術、勝沼でも見たな。一度ならず二度までも。許さん!」
防御側と襲撃側が四対三で向き合った。二合三合打ち合い、吉之助の杖が一人の足をへし折り、厳四郎の剣が二人を斬った。これで二対二である。
そこで厳四郎が残った仲間に言う。
「やむを得ん。貴殿は怪我人と共に退け。典膳殿と合流を」
吉之助は、仲間に肩を貸して川の方に向かう敵を阻むと見せかけ、逆に杖を下段から大きく回して厳四郎の肩に打ち込んだ。厳四郎がひらりと躱す。
その時である。厳四郎の背後に広がる黒煙の中から、その黒い煙の一部が一陣の風に引き千切られたかのようにこちらに向って来くるのが見えた。同時に煙越しに竜之進の叫び声。
「気を付けろ! 勝沼の抜刀術の奴だ。そっちに行ったぞ。奴は女だ!」
草原を低く駆けて何かが迫り来る。そして、吉之助の横に立つ同じ江戸組の甲府藩士の前でくるっと旋回。悲鳴を上げることさえ出来ず、藩士がその場に倒れた。左の脇腹から右肩にかけてざっくり割られ、すでに息絶えている。
吉之助がその凄まじさに息を飲んだとき、その何かが口をきいた。確かに女の声だ。
「厳四郎様!」
「お嵐、無事か」
「はい。ここはあたしが。まだ間に合います。厳四郎様は目標を追って下さい」
「分かった。頼んだぞ」
水分嵐子を追ってきた竜之進と三人の甲府藩士が吉之助に合流した。吉之助の足では駆け去る厳四郎に追いつけそうにない。
「すまん、竜さん。あの侍を追ってくれ!」
議論している暇はない。竜之進は即座に「承知!」と応じ、走り出しながら叫んだ。
「そ奴は化け物だ。打ち合ったら死ぬ。必ず戻ります。それまで何とか、間合いを取って・・・」
「分かった! 気を付けろ、そっちの奴も強いぞ」と、吉之助も叫び返した。
一方、嵐子はと言えば、構えを解いてその場に突っ立っている。厳四郎の背中が欅林の中に消えるまで背伸びをして目で追っていた。
「追ったのは一人か。一対一なら厳四郎様は大丈夫。あたしはまず、こ奴らを片付けちゃおう。ここはもう、殺しちゃっていいよね」
そこでようやく嵐子は自分の敵を確認した。四人。囲まれている。すると、正面に立つ見知った大柄の侍が言ってきた。
「女、四対一だ。諦めろ。刀を置け。手荒なことはしない。約束する」
嵐子、思わず失笑。
「ふふふ、お笑いだよ。木偶の棒がたった四人で、あたしに勝てると?」
そう言い放った彼女は、軽く頭を振った。根結いの垂髪がふわりふわりと左右に揺れる。
伊賀袴に垂髪の女か、と吉之助が思ったとき、彼女が突然、顔の下半分を覆う布を顎まで下げた。
「あっ、お前は!」
次章に続く
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