映画オッペンハイマーに見る日本人の存在の軽さと、ノーラン的映画構成の話〜映画の感想
オッペンハイマーを見た。
この映画については見終わったあとで、三つに分けて感想を述べる必要があると思った。
1つ目は、伝記映画/歴史教養映画としての素晴らしさについて
2つ目は、その中での日本人の扱われ方のしんどさ
3つ目は、ノーラン作品の構造や構成について
伝記映画としての素晴らしさ
まず映画を見て思ったのは伝記映画/歴史教養映画としての、素晴らしさ、丁寧さについてですね。
最低限の歴史勉強をした人なら聞いたことがある、有名な科学者、数学者、物理学者の名前が出てきて、それらの中心に立つ野心家のオッペンハイマーの、喜びと苦悩の日々が、これでもか、というくらいに描かれている。
またマンハッタン計画において、世界中から集められた人材と、その目的達成のためのプロセスも、ざっくりではあるがドラマチックに描かれている。
加えて、当たり前ではありますが、WW2戦前戦中戦後においての、世界情勢とアメリカの立ち位置、思想、行動様式なんかもきちっと描かれている。
全体のストーリー詳細については割愛しますが、オッペンハイマー自身にうついては、前半の立志編においては癖の強い野心家として描かれ、中盤からは一筋縄ではいかない核兵器開発の苦悩、後半は作ったことの苦悩と贖罪となっている。
多少のケレン味はあるにせよ、オッペンハイマーとその背景がどういう人物であったかということがしっかり描かれており、感じた印象としては、立場如何はあるにせよ、隅から隅までオッペンハイマーは一人の無辜の人であった、ということ。
※↑これをやる映画
そして、そこから得られる教訓としては、人は条件が揃えば、無辜のまま大量破壊兵器を作り得るし、大量破壊兵器を使うのだ。それが人間なんだ、とい事。そう言ってるように僕は感じた。
その一連の姿を描くことに意義があり、ノーランはそれを完遂していた。
ただ、この映画を日本人として見ていくと、その心中は複雑なものとなる。
欧米における日本人の耐えられない存在の軽さ
上映前から、またアメリカでの上映時からさんざん言われてきたのは、「原爆を作って使う」ということが、被爆国にとっていかにセンシティブであり、扱いの難しい問題であるのか、ということですよね。
僕は伝記映画である以上、いたずらに被爆国に配慮した描写などせず、当時の空気感のままに、作品を作って、原爆をきっちり落としてほしいと考えていました。
で、その結果なんだけれど──わかってはいたのだけれど、映画を見たらキチッと自分でショックを受けて凹む羽目になった。
ショックを受けた場所は3箇所くらい。
1つは、原爆を投下する都市を決めるときのアメリカ人たちの淡々としたやりとり、そこでの言葉。もうちょっと倫理的な葛藤をしつつ熟考しているのかと思いきや、あっさり投下先を決める。
もう1つは、原爆が完成したときの喜びよう。ノリ的にはいつもの「USA!USA!」なんですけど、日本人的には「これがウチに落とされるのか」と考えたとき、その喜ぶ様子に対してはとっても心中複雑です。
そして最後に、原爆を落とすことの必然性への言及、コレ威力を知らしめるために一回どこかに落とす必要がある、という発言。その対象として、大した疑問もなく日本人と日本を選んだという事実。
この3つがショッキングなんですよね。日本人としては。
それはどういうことなのかというと、人間というのは無辜であっても、条件次第では他者の痛みについて、どこまでも淡白になれる存在なのだ、ということなんですよね。
そして、思い知るのです。
彼らは間違いなく日本人を自分たちより軽く見ている。
さらに、その淡白さというのは、どうやら欧米人が地球上で文明の覇権を握っている限り、日本人に対して一生突きつけられるものであるっぽいということ(他のアジア人や欧米以外の人とかも含むけど)。それも自覚させられた。
ただただ、そのことが悲しみとして僕に突きつけられた。どうにもできないもどかしさを自覚する羽目になった。
そこから得られるものは、差別が良くないとか、原爆が良くないとかいう、当たり前の話ではない。教訓はなにもなく、ただ今そこに歴史的結果としての事実あるのみ。ええ、僕らは理由があって、欧米人と対等じゃないんだ。もちろんそれは立場が逆転すればひっくり返るものではありますが、この地球上においては容易に覆すことが叶わず、また今も絶賛進行中で突きつけられているものなのだ。
ノーランは何処まで自覚的かわからないが、僕がそう思うに至る歴史的事実がこの映画にはキチっと描かれていた。
この日本人が抱くフラストレーションが拭われることは数千年待たなければならないかもしれない。それくらい根深いものが、普段は意識しないけれど、世界にはたしかに存在しているのだ。
そして、日本人的に逐一文句はいうけれども、その扱いの軽さを自覚して生きていかなければいけないのが、日本人(あるいは欧米以外の人々)なのだ。欧米人がどこまでそれを自覚しているのかわからないけれど、日本人としてはそれを思い知らされる映画でだったなあ、と。
でまあ、それで何をするのかと言うと、それは個々人がどうするかの話なので、この話はそれで終わりです。
文句はいうけど現時点で絶対に解決できない話というのは存在するし、それを見据えて生きていくしか無いんだよね、僕らは。
※↑オッペンハイマー視点なのでこれは少ししか出てこない。
さて最後にクリエイティブの話。映画の構成について。
同映画におけるノーランだから仕方ないよね構成
この映画、クソめんどく臭いことに、なんと時間軸が3軸あってそれが同時並行して進みます。
1つ目は原爆が作られ落とされるまでのオッペンハイマー。
2つ目は原爆を落とした後の振る舞いで糾弾されるオッペンハイマー。
3つ目は糾弾されて名誉回復するまでのオッペンハイマー(本人視点はちょっとしかなくてノーランを貶めたある重要人物にスポットがあたる)。
これを混ぜてつなぎあわせて作っている。
それによって、伝記映画としては見事なまでに頭を使わせる構成になっている。初見だと分かりづらいことこの上ないっていう。
いえね、普通の映画監督なら、構成はただ時系列でならべるか、あっても原爆投下前と後の二軸なんです。普通はそれをカットバックでうまいことつなげる。
ところがノーランは、ノーランであるがゆえに、物語を3軸の時系列にわけて、さらにそれをシャッフルしやがった。
いやもうね、そういう事する監督だってわかってるけどね、それをね伝記映画でやるの?やっちゃうの?そういうことやっちゃうんだ?
こんだけ素材あれば、普通に繋げばもっとわかりやすい普通の伝記映画になるのよ。他の人に編集させたらもう一本普通の映画になるんよ。
でもね、それをわざわざ変態的につなぎ合わせるのがノーランなんですよね。普通につないだらノーランじゃないし、たしかに大衆受けしない退屈な映画になっちゃうかもしれない。でもいいんか?伝記映画ですらコレでいいんか?それがね、みていてムズムズしたっていう。
他方、演技やワンシーンワンシーンは抜群にすばらしいのよ。これでもかって描写のクオリティはすごいの。でも、つなぎはとんでもなく難解なことやってんの。一般視聴者を向こうにやって「お前らが俺についてこい!」って言ってんのよね。ナメられたくないから必死になってついていくんだけど、ふと思うのです。
「映画視聴ってそこまで頑張って頭使う必要あるんか…?」と。
これね、ノーランだから我慢して見たまである。「もうちょっと構成なんとかなったんじゃないの? でもそれをやるとノーランじゃないか、ほなしょうが無いか…」というジレンマをずーっと抱かせる映画でした。
ええもちろん、そこも含めて、素晴らしい映画体験ではあったんですけどね。。
以上、オッペンハイマーの感想でした。
さて最後にまとめです。
この映画ですが、オッペンハイマー、そして核兵器開発という歴史映画以上に、日本人なら、日本人が欧米でどういう扱いなのかを自覚する、という意味で、一回は見たほうがいいと思います。監督の思想以前に、本当にものごとをちゃんと描いている。評価に値する映画です。
個人的にはその構成のわかりづらさもあって、もう一回見ると思います。あとは原作もちょっとみてみようかな、などと。
上中下あるのね。
ああ、それと最後にもう一つ。
ゲイリー・オールドマンってさ、最近は「彼」だと言われないと、誰かわからない役ばかりやっててすごいね。
彼がでてくるシーンを楽しみにしていてください。
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